茨城症候群

 

幸せの空

もう六月の月は沈んでしまったけれど、私はこうして、青い空の下で大きく背伸びをしている。心地良いそよ風の吹く丘で、少し強くなった太陽の光を身体一杯に浴びながら、背伸びをしている。

もうあの白い服を無理矢理着せられることもない。私は私の思い通りの服装をして、ここに立っている。それが、全て。

幸せ、と言われればその通り幸せなのかも知れない。けれど、私はそんな幸せの中にもどこか寂しさが感じられて仕方がなかった。

それはとてもとても小さいのだけれど、底のないような得体の知れなさを窺わせる、どっしりとした重みのある寂しさ。イメージとしては光りをも吸い込むという真っ黒なブラックホールと似ているのだけれど、私の中のこの寂しさからは真っ白い重さという感じを受ける。

だから私は、今の私が円満な幸せの状態にあるとは思えない。それどころか、何か掛け替えのないものを失ってしまった感じがして、その点に悲しみにも似た気持ちを抱いている感すらある。

確かに私は、六月の月に心を囚われた挙げ句に脅かされていた。毎日白い服を着せられて、迷いという歪みの生じた心を持つ人々に"音"を伝えるように強いられていた。

どうしてそんな人々に"音"を伝えなければならないのかは私自身は理解していなかったけれど、とにかく私はそうしなければならなかった。もしもその役目に背いたなら、六月の月は私という存在を一瞬にして闇の彼方へと消し去ってしまう、と言われていたから。

けれどそれも、そもそもは私が六月の月に魅せられたのがことの始まり。六月の月に心を囚われることがなければ、私は彼が沈んで見えなくなるのを待つこともなく、とっくのとうに月の下から逃げ出していたに違いない。

そうしなかったのは、私が本当に六月の月の放つ光の妖しさに惹かれていたから。心の底から、彼に惹かれていたから。

だから私は、六月の月に大人しく従っていた。そうすれば、私もいつか彼の隣、いや、彼と一つになれることもあり得るかも知れない、と思っていた。むしろ、期待すらしていた。

けれど結局、それは叶うことがなかった。叶わないまま、六月の月は自らその身を消して去っていった。私を置いて、消えていった。

六月の月への想いが募る一方で、心のどこかで彼への畏怖があったから、私はこうして表向きは幸せな七月を迎えているのかも知れない。

平穏な日々は、寂しさの代償。きっと、そうなのだろう。


「おーおつーきさんっ。何やってるの?」

その声に後ろを振り向くと、月、じゃない、同じクラスの友達、山本さんがいた。

「ううん。……綺麗な青空だと思って、少し眺めていたんだ」

雲一つない、青い空。当然、六月の月も見えるはずもない、ただ青だけが一面に広がる、透き通った七月の夏の空。

それは確かに私自身が言った通りに綺麗な空ではあったけれど、そんな綺麗なだけの空では、やっぱり私の中のどこか寂しい気持ちは拭えなかった。

「大月さん、なんか寂しそうだね。何かあった?」

「ううん、何もないよ。ただ、ただね……」

「ただ?」

山本さんが横から私の顔を覗き込む。私は溜め息を一つ吐いて、青空を見ながら言う。

「……もう六月の月は、沈んでしまったんだなあ、って」

それが山本さんに通じたのか通じなかったのか、きっと通じなかったのだろうけれど、彼女は笑顔になって返す。

「何だかちょっとセンチメンタルになってるんだね。そういうこと誰にだってあるもん」

誰にだってある。果てしてそれは本当なのだろうか。私には、そうには思えない。山本さんが月に魅了されて、その月から下された役目を以て人々を狂気に陥れる。そんな体験をすれば、決して"誰にだってある"なんてことは軽々しく言えなくもなるだろう。

けれど私には、彼女を責めるつもりもない。彼女は何も知らないのだから。何も知らないことは罪ではないけれど、何も知らないことをただ詰るのは罪。私にはそんな罪を作ることはできない。

「さっ、帰ろっ。日が暮れちゃうよ」


そして私は、ずっと後で知ることになった。この山本さんと、彼女の一族を取り巻いている運命を。

 

月は沈み、文月が始まる

「見てご覧、月が沈んでいくよ」

かわたれ時に、僕は西の方へ沈む月を見た。ほんの少し前までは、あんなに上の方にあって輝いていた月が、今ではもう光を失いかけて、空の向こうへ消えようとしている。

代わりに東の方には、力を取り戻したかのように光を放つ太陽がだんだんと空へ昇る様子が見える。久し振りに見掛ける、真っ白で真っ直ぐな、力強い光だった。

「白い月の女なんて居なかったんだな」

ベランダの椅子にちょこんと乗っているシロが、少し残念そうな顔をして言う。

「うん、きっと誰かが悪い夢を見ていたんだろう」

僕はそう言って、シロの頭を撫でる。シロはにゃあと鳴くと、部屋の中へ入っていった。

シロに続いて、僕は部屋へ戻る。戻り際に西の空を見ると、もうすぐ月が消えるところだった。僕は月が沈み終わるのを見届けず、部屋へ入っていった。

「もう今年も、半分が終わったんだね。もうこれからは、夏だよ」

「夏か。おいらは、夏なんて嫌いだ。暑いからな」

シロは、お気に入りの場所なのだろう、いつものテーブルの上へ乗って、次第に明るくなる日の光を浴びながら、前足で顔を洗っていた。

「今年はクーラーがんがんで頼むよ」

「猫は猫らしく、部屋の中じゃなくて、外の車の下で涼んでいればいいさ」


七月が、始まった。

 

落書き

  • 2008年6月25日 01:19

「一つのことに傾倒し過ぎると、その世界に自分がまるで入り込んでしまいそうになる。これはとても恐ろしいことです」

毎日毎日、僕はノートを開いて、自分の頭に溢れている想像を形にする為の落書きに没頭している。僕はそのノートに、洋人形たちが踊っている落書きをひたすら描いていた。他人には理解されるかどうか分からないけれど、僕は何よりそんな落書きが好きだから、今もそれを止める気はない。

「そしてある日、気付いたんです。落書きの中の人形が、立体化して、僕の目の前に現れる。そんなおかしな感覚が、僕の中へ入り込んでいることを」

もちろん今の僕は、現実と仮想の世界の区別をはっきりと出来る。ノートの中の人形は、ノートの中にしか存在しない。ノートを書く僕は、ノートの中には存在しない。当然のことだ。けれど、そんな当然のことが突如として崩れてしまうことがある。

「夕ご飯の前、僕はいつものようにノートへと落書きをしていました。そしていつものように人形の落書きをしていたんです。そしたら、ノートの中の人形たちがこっちを向いていたんです。僕を向いて、にやり、と笑っていたんです」

その笑顔は、まるで僕を嘲笑っているかのように、僕に向けられていた。今でもあの人形の表情、気味の悪い笑顔を思い出すだけで、身体中がぞっとする。そんなくらいだから、笑顔の人形を初めて見た時の僕は、恐ろしくて恐ろしくて、震え上がったのだと思う。

「実は、その時のことは余り覚えていないんです。覚えていないというか、今も余り思い出したくないほどですから、きっと僕の脳みそがその記憶を閉じ込めてしまっているんでしょう。うっすらと覚えていることが、僕が半狂乱になってしまったということです」

そう、僕は落書きの中の人形の笑顔を見た時、もうどう表現したらいいのか分からないほどの不安を覚えた。居ても立ってもいられなくなり、自宅の一階と二階とを駆け上っては駆け下りていた。全身が訳の解らない不安に襲われていたから、危うく自分を見失い掛けそうになった。

「ですから僕は、自分の部屋のベッドへ寝込んで、もう何も考えないようにしました。もちろんあの人形たちのことも、落書きのことも、そして今自分を襲っている恐怖のことも。けれど、考えまい考えまいとするほど、それらのことが頭を突いてくるんです。僕はもう、本当に身を投げてしまいたいほどの苦しみに襲われたんです」

それは本当の恐怖だった。ただのノートの中の落書きという仮想に過ぎなかった人形が、現実に生きている僕をこんなにも苦しめるなどとは、思いもしなかったのだから。

「いつの間にか僕はベッドの上で眠りに落ちていました。そして目が覚めると、混乱に陥っていた眠りの前の自分を思い出し、もう自分自身の世界をノートに落書きとして描き出すことは終わりにしよう、と考えました」

そうすれば、僕はきっともう二度と人形が落書きの中から這い出してきて、僕を不安の中へ閉じ込めるようなことはしないだろう、と思った。

「そして、僕は最後のページと題して洋人形たちの世界を締め括ろうとしたんです。洋人形たちと、永遠のお別れをするために」

僕は人形たちが最後の舞踏会の中で踊っている絵を描いた。そして彼らに、互いに別れの言葉を言わせた。これで、僕はもう人形たちに執着することもない。僕は人形たちと永遠の訣別をした。そのはずだった。

「ところが次の日、彼らは、人形たちは、再び僕の元へと現れたんです」

人形たちは、昨日と同じように、艶めかしい笑顔で、僕を取り囲んでいた。

「僕は悟りました。僕は落書きの中に人形たちを描き出したことによって、彼らに命を吹き込んでしまったんです。ですから、人形たちと僕とは、もう永遠に離れることの出来ない間柄になっていたんです」

これは、もう僕がずいぶん前に人形たちを最初に落書きとして描いた時点から定められていたことだったのだろう。僕がそのことに気が付いたのは、僕が落書きの中から抜け出した彼らに襲われてからだった。

「ですから、僕は落書きを止めません。もっと正確に言えば、止めることが出来なくなってしまったんです。そうしなければ、そうしなければ……」

そうしなければ、僕は彼らに代わって、落書きの中へ閉じ込められてしまう。

 

或る人からの手紙

  • 2008年6月 6日 01:15

前略


この度は……などと堅苦しい形式はご容赦願おう。どうも形式に縛られるのは昔から嫌いでね。手紙なんて内容が伝わりゃそれでいいじゃないか、と思うのだけれど、世間ってものはそうはいかないらしい。面倒臭いものだあね、社会は。

まあ率直に書こう。この手紙を君が読んでいる時には、僕はもう既に君と会える場所にはいない。君もまた、僕と会える場所にはいない。僕と君とは、もう永遠に顔を合わせることはないだろう。『ないだろう』、ではない、『ない』。推量形ではなく、断言形だ。この違いは大きいことを、君も知っているだろう。僕と君とは、もう二度と会うことはない。

これがどういうことか解るだろうか?いや、解らないでもいい。寧ろ解らないことが、僕にとって、あるいは君にとっても幸せなのかも知れないんだから。

そもそも人間なんていうのは、お互いに完全に解り合えようにできちゃあいないんだ。例え一点でも解り合えないものは、お互いを遠ざける仕組みになっている。そう、学生時代に、僕が君にしたようにね。

覚えているだろうか、当時君は遊び呆けていて、学年で一人だけ留年したんだな。君は一人だけの落第者だったから、講義室では随分と居心地悪そうにしていたのを僕は覚えているよ。まあ僕はね、今だから正直に言うと、君のことを馬鹿だと思っていたんだ。普通に学生生活を送っていれば落としようのない筈の単位を落とすというのだから、どうしようもない馬鹿たれだと思っていたんだ。

まあ実際馬鹿だったね、君は。一限目の講義には必ず出て来ない。二限目には来るかと思うと、まだ来ない。昼が過ぎて午後に入る三限目、流石に来るだろうと思えば、まだ来ない。結局四限目も五限目も来ない。毎日毎日だ。正真正銘の馬鹿だろう。学費は何処から出ているんだ、とか、就職はどうするんだ、なんて心配したりもしたな。まあそれも本気の心配ではないけれどね。

そしてテスト期間前の週に、君はやっと顔を見せた。学期初めのシラバス配りの日以来に見た顔だ。痩せこけて、蒼白く、覇気のない顔。そんなのが僕に近付いてきて、こう言った。「ノート見せて」と。

ふざけるなこの糞野郎、と僕は思った。一回も出席していない奴が、全ての講義に出席している人間に向かって、何が「ノート見せて」だ。尊敬とかそういう問題じゃあない。常識外れだ。大馬鹿者だ。

だから僕は言ってやったんだよな。「ねえあんた、何様のつもり?」って。声を出すのも面倒臭そうな顔をしながら、冷たい調子でね。そうしたら君は、怒った。無言で、怒った。

怒った君は、僕の席の机を蹴り飛ばしたんだよな。それで、空いていた席の長椅子を持ち上げて、それを投げ付けて講義室の窓ガラスを割った。一枚割って、また隣のガラスをまた割る、そしてまたその隣のガラスを割る。ものすごい勢いで、君は講義室中のガラスを割っていった。ばりんばりんとか、もう擬音語じゃ形容できない、耳も割れんばかりの音が辺りに響いていたな。

僕はあっけに取られて、ただ君の暴れる様を黙って見ていることしか出来なかった。僕の言った言葉が引き金になって、目の前の非日常的な光景が引き起こされたんだ。そう思うともう頭が真っ白になって、僕は動きようがなかった。それで周りの奴らが君を抑え込んで、講義室の外へ連れて行ったんだよな。結局、君は警察へ回されて、器物損壊で書類送検された訳だ。やっぱり僕の勘は外れちゃいなかった。馬鹿は馬鹿だった。僕の理解することの出来ない、大馬鹿者だった。

まあそんな君が、僕と親しくなっていったというのもおかしな話だ。これはね、運命とでも言うのかも知れないな。あるいは、因縁か。

君は事件の後に何週間か謹慎の後復学した。そして打って変わって真面目な学生を取り繕うようになった。出て来なかった一限目には必ず出席して、途中退出することもなく、最終時限まで席に座り、懸命に板書をしていた。周りは腫れ物に触るような扱いどころか、触らぬ神に祟り無しで、君には一切関わろうとしなかったな。でも結果、君は留年せずに進級した訳だ。

後期試験後に抽選で決められた研究室配属では、あろうことかあの事件の当事者の二人、僕と君とが同じ研究室となった。あれ以来、互いに話を交わすことはなかったから、顔合わせでは随分と気まずいものだったな。君もきっとそうだったろう。

そして年度が変わり、配属されて初めての日、君は僕に話し掛けてきた。「一年間、よろしく」と、恭しい笑顔を伴って。僕はまだあの事件を忘れたわけじゃない、きっと君もそうなんだろう、けれどここでこの笑顔に応えなければ、僕は悪い気がして、引き攣っていたかも知れないけれど、笑顔で応えた。「こちらこそ、よろしく」と。

それからだな。ミーティングで君と話す機会を重ねて、僕は気付いた。妙にこいつと馬が合う。大馬鹿者だとばかり思っていたけれど、案外素直な奴じゃないか。君もきっとそう思ったんだろう、次第に打ち解けてくる様子が分かった。

ただ、互いに打ち解け合う仲にはなったとしても、一年前の事件は決して話題に上らせなかったな。少なくとも、僕は意識してそうしていた。あの事件のことを口に出せば、この悪くはない関係は破綻に至るかも知れない。僕にはそれが恐ろしかったんだ。そうやって、今日、この手紙を書き記すまで、僕は君とはこの話題をタブーとしていた。この手紙で、初めてそれを破ったということになる。

まあそんなところだ。解り合えなければ、互いに斥力が働く。解り合えれば、互いに引力が働く。あの事件の頃は、斥力のお陰でとんでもないことになったのだろうけれど、その点を除けば僕と君とは解り合える存在になった。

ただ、その僕と君との後ろで、絶えず不信の黒い炎がゆらゆらと照っているんだよ。紛れもなく、あの事件のことだ。僕はその黒い炎を決して表へ出すまいと、鉄製の箱で覆ってしまった。だから今日まで、君と僕との関係は良好なもので有り続けたのだと思う。

そしてこの手紙で、僕はその箱を取り去るつもりだ。何故だか解るかい?いや、これまで書いたように、解る必要もないし、僕が解らせる必要もない。君がこの黒い炎を目にして、どう思うか僕は試そうと思うんだ。君がどう思うかは君次第で、僕には全くどうすることも出来ない。だからどう思ってくれても全く君の自由だ。結果として、君が僕を理解せずに離れていってしまってもいい。逆に言えば、僕の本当の目的はそこにあるのかも知れない。

さて、箱を取り去ろう。まだ君には黒い炎は見えてはいないだろうが、目が慣れれば、自然と見えてくるようになる。

まずこの手紙を君に送り付けたのは、これが僕の最後の手紙となるからだ。他人に送る、僕の最後の手紙。それを君に送り付けたんだ。

どうしてだか君には……、いや、止めよう。先ほども書いたように、君の理解はもう必要じゃない。理解しようとも理解せずとも、僕には関係することが出来ない。今後は訊かないことにしよう。

事実として僕は僕の最後の手紙を、君に送り付けた。これは僕の病気を、せめて君に対しては知らせようとした為だ。

『せめて』と書いたけれど、やっぱり僕は君に理解を求めているのかも知れない。心の底ではね。いや、求めることは事実だとしよう。ただし、完全な理解は必要じゃない。それだけは心に留め置いてくれ。

まあ君にとっては下らない、本当に下らないことなのかも知れないだろうけど、僕は苦しくって仕方がないんだ。何が苦しいかって、存在することがだ。僕は僕が存在していること自体が、苦しくって苦しくって仕方がない。

この所毎晩毎晩、夢を見るんだ。自分が小さな微生物に等しい生殖体だった時のこと。もちろんそんなのは記憶にはない。あるはずがない。だからただの想像だろうけれど、事実としての経験の記憶を思い起こすかのようにはっきりとした鮮明な夢だ。

まず目的も知らず、温かな場所へ僕は放り出されているところに、急がなきゃならない、ああ急がなきゃならないと僕は焦る。何処へ急ぐのかは知らない。ただ急がなきゃならないから、急がなきゃならないんだ。そして壁を上り始める。隣を泳ぐ兄弟を鞭毛で叩き落とし、前を行く兄弟を壁にしてアルカリ液の波から身を守り、朽ちてどろどろに溶けた兄弟の残骸の間を縫って、僕は細い道を上る。残酷なんかじゃない、これが当たり前の光景なんだから。自分が良ければ他の奴なんて関係ない、僕は他の兄弟と同じように、ただ先を急ぐだけだった。

ところが上っても上っても、何も見えやしない。そのうち僕は疲れてくるんだ。それは周りの兄弟達も同じで、ある者は頭が砕けてこなごなになってしまったし、またある者は鞭毛を動かす力が尽きて動かなくなった。でも絶望なんてものは感じない。感じられないんだ。ただ頭にあるのは、いや考える頭すらない、小さな小さな身体全体に、急がなければならない、という使命が込められているから、ただ僕は目指すべき場所へと泳ぎ続けたんだ。

やがてどれほど時間が経っただろうか、ずっと先の方に大きな丸いものが見えてくる。そうだ、これが僕の目指すべき場所だ、とも思わない。僕はただ、急ぐだけだった。見れば、もう先客の兄弟がいるじゃないか。丸いものの中に入り込もうと、よいしょよいしょと懸命に頭で突いている。他の誰かに先を越されればお終いだから、僕はその兄弟を横から鞭毛で叩き飛ばした。

するとどうだろう、頭で突くことに力を注ぎすぎたのか、もう戻る力もなくなったんだろう、そいつはふらふらと離れていって、帰って来なかった。ざまあ見やがれ、とも思わなかったが、僕はそいつが突いていくらか薄くなった部分を代わりに突き始めた。数少なくここに辿り着いた周りの兄弟も、我を忘れて、いや忘れる我もないのだろうが、懸命に突いていた。

僕は、僕が叩き飛ばした奴に感謝しなければならないのかも知れない。いつ終わるか知れなかった過酷なレースに、僕が勝ったのだから。

一旦穴が開くと、僕は吸い込まれるようにして丸いものの中へ入り込んだ。ああ、心なしか温かい。そう思ううちに、僕が入り込んだ穴が閉じ、そこから硬い壁が、丸いものを覆うようにして広がっていった。丸いものは、もう他の誰も入ってこられない、僕だけの場所になった。

そこで夢はお終いだ。変な夢だろう?この夢は一体、何を示唆していると君は思う?

夢には全て示唆がある、意味がある、なんて考えがあるようだけれど、それは間違いだね。少なくとも僕はそう思う。だからこの夢も、示唆なんてないんだろう。見るのも無意味な夢だってことだ。

だいたい人間は何かにおいて意味付けを求めすぎる。この世のものの何にでも意味があるなんて考える奴だっている。余りにも意味付けに乏しい場合には、屁理屈のこじつけに近い意味付けをしようとする。哲学なんてその最たるものだ。キルケゴールだのサルトルだの、上流階級の知識人が暇で暇で仕方がないから『人間とは何か』『存在とは何か』だなんて考えるようになったんだろう。そんなのは虚しいことだ、って思わないか?

人間なんて何物でもない。ただの動物だ。動物の中でも特別なわけじゃない。ただ他の動物よりも少し脳みそが発達しているだけで、動物である点ではゴキブリや金魚や犬とちっとも変わりのないものだろう?それを驕り高ぶって、人間は他の動物とは違う神が作った存在だなどと言う。そんなのはとんでもない。動物性が小賢しくなっただけだ。賢くなって、かえって愚かな動物になった。殺し合いは如何に効率良く行えるかが重視され、集団に適応出来ない個体は異端視されて悉く淘汰される。いや、もしかするとこれは愚かなことではないのかも知れない。種全体の優位性を保つ点では、優れたシステムなのだろう。いずれにしても、僕には賢くなった人間が虚しく思えて仕方がないんだ。

僕はね、そんな虚しさを感じることにもう飽き飽きしたんだ。腹一杯も超えてなお食を求める人間がいれば、日々の食べ物を得ることにすら命懸けの人間だっている。寝ているだけで金が入ってくる人間がいれば、一日の全てを労働に費やしても稼ぎの少ない人間だっている。一世紀を超えて生きる人間がいれば、産まれてすぐに死ぬ人間だっている。この何が平等だ。平等なんて存在しちゃいないじゃないか。何処に平等なんて存在していると言うんだ。自由や平等なんて言葉は、嘘吐きの標榜だ。

自由だの平等だの言う言葉にはもううんざりだね。そういった言葉は、この世ではもう意味を為さなくなっている。虚しいだけなんだよ。虚しくなると、本当の自由と平等を手に入れたくなる。それは一体、何処にあるのか。少なくとも、この世にはない。絶対にあり得ないものだ。

僕はこの世の中をそうやって捉えている。君はそうではないかも知れない。ただ誤解しちゃいけない。僕は、君が僕と同じ考えであって欲しいとも思わないんだ。完全に理解されないのなら、初めから理解されようとも思わない。ただ僕がこう考えているということを、知っておいて欲しいというだけなんだ。

この手紙を書いているうちに、いつの間にか日が暮れて、とうとう真夜中になってしまった。これから僕はこの手紙を封筒へ入れて、ポストへ出しに行く。そしてその後、僕は僕の自由に生きることの出来る場所へ出発する。きっとそこは、誰もが幸せで、誰もが平等な場所だろう。


草々

 

留年

  • 2008年5月17日 00:39

「先生、留年の心得をお聞かせ願います」

「まず馬鹿にされます」

「馬鹿にされますか」

「親がべらべらと喋るものですから、こちらの知らぬ間に親族中に事実が知れ渡ってしまいます」

「たまに顔を合わせる時は面倒ですね」

「ええ、確かに面倒なことは面倒なのですが、不思議と誰も私が留年したことについて訊いて来ないのです」

「それは不気味極まりないですね」

「心底で馬鹿にしているんでしょう。話題を避けるという仕方で私を遠回しに馬鹿にしているんです」

「友人等からはどう扱われますか」

「こちらは真面目に馬鹿にされます」

「真面目にですか」

「明らさまに馬鹿にするものですから、大変癪に障ります」

「同情もされませんか」

「そんな人間は中途半端な知り合い位です。しかし中途半端な知り合いの中途半端な同情は余計に癪に障ります。同情されたからと云って単位が貰える訳ではありませんから」

「同期入学の学生は上の学年へ行って仕舞う訳ですが、こちらはどうですか」

「やはり馬鹿にされます。殆ど関わりの無かった人間などからは汚物を見る目付きで見られるのです」

「汚物は嫌ですね」

「そんな目で見られるものですから、こちらも本当に汚物にでもなって仕舞ったかのような錯覚を覚えます」

「では同級生になる下級生などはやはり厄介ですか」

「厄介も何もありません、知り合いも居なければ河原の晒し首です」

「晒し首ですか」

「まあ初めの内ですが、講義室ではこちらを向いてにたにたとする声が彼方此方で聴こえて来るのです」

「緊張から来る幻聴覚ではありませんか」

「いえ幻覚なんかじゃありません、実際にこちらを見てにたにたとしているのです。あれは誰だ、何だあいつは、と声すら聴こえて来るんですから。晒し首の気持ちが解るような気がします」

「そりゃ怖いですね」

「二ヶ月程するとそんな声も聴こえなくなり、室内の雰囲気に不自然に自然と溶け込むようになりますが、やはり初めの内のにたにたに打ち克てなければ不登校になります」

「中学生のようですね」

「中学生ならまだいいんです。大学生が不登校になったところで、誰も助けてくれやしませんよ」

「そりゃ困りますね」

「そうして不登校になるからまた次々と単位を落とし、翌年も進級出来なくなるんです。これが留年スパイラルというものでしょう」

「先生は三度留年していますね」

「不可ませんか」

「いえ不可ないことはありません。先生はよく卒業に至ったものだと感心しているんです」

「私は怠けていただけですから当然の報いです」

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