茨城症候群

 

気象情報

『……東北から東海地方に掛けて、上空の大気は非常に不安定な状態が続いており、今週いっぱいは突発的かつ局地的な豪雨に注意が必要でしょう。ただいま県全域には気象庁より、大雨洪水警報、雷注意報及び竜巻注意情報が発表されております。また県南部では、一時間に百ミリを越える雨量が観測され、記録的短時間大雨情報が発表されました。県南西部では土砂災害警戒情報も発表されております。今後の気象情報に十分ご注意下さい……』

「……」

シロは珍しくテレビに見入っている。まるで何かに取り憑かれたかのように、テレビの真正面に体を据え、天気キャスターの告げる言葉に耳をピンとそばだてたままぴくりとも動かさず、鋭い目を大きくさせて、何も言わずに画面に食い入っていた。

シロがこれほどまでに熱心な態度を見せたのは、久しぶりだった。そう、確か僕がマタタビを買って帰ってきた時、二年も前のこと以来だ。


その頃の僕は、猫はマタタビが好きだということを知っていたものの、実際に猫がそれをどう好むものなのかは知らなかったから、物は試しとばかりにペットショップで見付けたマタタビを買ってきたのだった。

家へ帰り、袋をビリビリと破いて中のマタタビを取り出した途端、シロの様子が一変した。それまで窓際のお気に入りの椅子の上でひなたぼっこをしていたのが、匂いに敏感に反応したのか、むっくりと立ち上がってこちらを睨んだ。「おいそれは何だ」とシロは訊くから、僕が「マタタビだよ」と答えると、シロは突然表情を一変させて「寄越せ、寄越せ」と気が狂ったかのように何度も大きく叫んで僕に飛び掛かってきた。

あまりにも突然シロが攻撃的になったものだから、僕は驚きのあまり腰を抜かしてしまうほどだった。僕が後ろに倒れた隙にシロは僕の手からあっという間にマタタビを奪い取り、次の瞬間にはハアハア言いながら床で転がっては腹ばいになったりしてマタタビとじゃれていた。

いくら声を掛けても全く反応しないほど熱心にマタタビとじゃれ続けるシロを見ながら、ははあこれほど猫はマタタビが好きなのかと思って感心した。けれども僕は同時に、尻餅を付いた場所の痛みがだんだんと増してくることに不安な違和感も感じていた。

座ればいちいち鋭い痛みを覚えるようになってから渋々病院へ行くと、結局尾てい骨にひびが入っているということだった。診断で痛みは消えるわけもなく、続く痛みを抑える為におかしな歩き方のまま家へ帰ると、シロはまだマタタビとじゃれていた。

その出来事で、猫がどれほどマタタビを好きなのかを実感することはできたのだけれど、その代償は大きかった。言うまでもなく、僕はそれ以来、マタタビを買うことは控えている。


まあマタタビはもうどうでもいい。とにかく今のシロは、かつて自らの知覚を放棄するほどに熱中したマタタビと同じように、テレビの気象情報を熱心に聞いている。

「シロ、そんなに天気が面白いの?」

僕が笑いながらそう訊くと、シロは顔を半分だけこちらへ向けて一瞬いつもよりも鋭く睨んでから、またテレビへと顔を向け返す。まるで黙れと言わんばかりのシロのその態度に、僕はある疑問を頭に浮かべた。

――月の女。まさか、シロはここ数日の突発的な豪雨も、その月の女の仕業だとでも言うんじゃないだろうか。その為の情報収集として、こんなにも熱心に気象情報に食いついているのかも知れない。

この酷い天気の荒れようさえも月の女の仕業だなんて、そりゃいくら何でも有り得ない。もともとオカルトチックな“月の女”の話を、こんな気象の話にまで広げて絡めるなんて。

「……ねえ、シロ。もしかして、これも、月の女、が起こしているとか思っているの?」

僕は恐る恐る訊いた。すると、返ってきたのは意外な言葉だった。

「なに、月の女?」

ちょうどテレビの気象情報が終わったようで、シロは先程とは打って変わった表情で僕を振り返り見る。その目には刺して威嚇するような鋭さはなく、ただいつものように猫の目としての鋭さだけがあった。

僕はシロの表情に少しだけ安堵して、一方で戸惑いを覚えながら、訊き直した。

「この変な大雨も、月の女が関わっているの?」

「何だ、あんたも月の女にすっかり毒されちまったんだな」

皮肉っぽくシロが鼻で笑う。笑われて、僕は少し恥ずかしくなった。

シロが熱心に気象情報に見入っていたのは、気象と月の女との関連を疑っていたからではないらしい。それでは何か、月の女の他にもシロと対峙した関係にある存在がいるとでも言うのだろうか。

「月の女は天気を操るなんて手の込んだことはしないさ。あいつはもっと陰気臭い、いやらしい手を使うんだ」

「それじゃ、どうしてシロはさっきまであんなにテレビに釘付けになっていたの?」

「ああ、それはな」

シロは一呼吸間を置いてから、言った。

「お天気お姉さんの声が、あまりにも官能的だったからだ」

僕には返す言葉がすぐには見当たらなかった。シロがそんなことでテレビに見入っていたとは思いもしなかったからだ。これじゃ、まるで何処かのおじさんと同じだ。

「マタタビのように?」

「そうだ、マタタビのように」

 

夢の中で

  • 2008年8月28日 16:31

「君は、いつまでそこで眠っているの?」

夢とも現実とも付かないぼんやりとした意識の中で、誰かがあなたに話し掛けてきます。心地良い眠りの世界で過ごしていたのを、まるで突然足を取られて引っ張り出されたような気がして、あなたはあまり良い気持ちがしません。

「いつまでそこに眠り込んで、夢を見ているつもりなの?ねえ?」

悪いことをした子供を問い詰めて諭すようなその声の調子に、あなたは生理的な不快感を覚えます。その不快な声を何度もしつこく繰り返し聞かされているうちに、だんだんと声は明瞭に聞こえるようになり、やがてあなたは小さく呻きながら目を開きます。半開きの視界には、いつもと変わりない汚い部屋に、カーテンの隙間から白い光がうっすらと零れている光景が映り出されます。

「外の世界はもうずいぶん前から明るいのに、君はこんな真っ暗な部屋で眠り続けるなんて」

あなたはゆっくりと頭を起こして枕元に置いてある時計を見ると、その針は午前の九時半の辺りを示しています。

「……何だよ、まだ早いじゃないか」

あなたは舌打ちとともに気怠そうにそう呟くと、息を大きく吐きながら頭をすっと枕へ落として目を閉じます。

あの心地良い世界から抜け出すにはまだ早い。もう一度、あの夢の世界へ帰りたい。起きてしまったら、俺は何にもできないただのクズ人間になってしまう。でもあの世界では違う。あそこでは、俺は唯一無二のヒーロー、何でもできるスーパーマンにさえなれるんだ。言わば、オンリーワンでナンバーワンだ。実のところ、俺はあの夢の世界こそが本物の世界なんじゃないかと思ってすらいる。目覚めた後の世界は、きっと偽物の世界に違いない。だから、俺はまだ起きる訳にはいかないんだ。あの世界へ、帰らなきゃ。

むにゃむにゃと布団を被り直すあなたに、すっかり呆れ切った調子の声がすかさず飛んできます。

「まだ眠るつもりなの?今起きないと、のちのち大きな後悔をすることになるよ?それでもいいのなら、もう何も言わないけれど」

「ああ、いいよ、それでもいいから」

後悔なんてすることはないさ。いずれ時間が来れば、俺は起きるんだから。偽物の世界へ、目覚めるんだから。それなら、俺はもっと夢の世界、いや、本物の世界で長く活きていたい。それができなければ、それこそ本物の後悔だ。一度きりの人生、俺は後悔なんてしたくないんだよ。

そしてあなたは再び、夢の世界、いえ、本物の世界へと戻って行ったのです。

その後、気持ちの良さそうな顔をしてよだれを垂らしながら、時折幸せそうな笑顔を浮かべて眠るあなたに、もう誰かが声を掛けることもありませんでした。永遠に、ありませんでした。

 

月の女

真っ昼間の暑い最中、俺は玄関に寝っ転がっていたんだ。二つ折りにした座布団を枕代わりにして、冷たい床の上に半裸になってごろごろと転がってね。俺の家の玄関って北向きだから、風通しが一番いいんだよ。ドアを半開きにして、玄関の反対側にある居間の窓も全開にすると、そりゃあもう心地いい風がスースーと入り込んできてさ。

そんなことをしていたら、ドアの向こうから声が聞こえてきたんだ。か細い、弱々しい声がね。

「こんにちは……」

ああ、俺は驚いたよ。驚いたというより、怖かった。だってさ、チェーンを付けていたからといって、ドアを半開きにしていたんだから、間違いなく覗かれていたんだよ。玄関で横になっている半裸の俺の姿をさ。

正直、止めて欲しいよな。こういうプライバシーって言うのかな、私生活をみだりに見ることはさ。俺はそう思ったから、慌てて飛び起きてTシャツを来て、半開きのドアの隙間越しに外を見た。内心怒りを抱えながらね。

「こんにちは……」

声の主だろう、そいつがドアの隙間にひょこっと顔を出すと、さっきと同じ言葉を言った。一度言えば分かるんだよ、馬鹿野郎。

隙間から見えた声の主は、俺と同い年くらいに見える若い女性だった。そいつは微笑みを顔に浮かべながら細くなった目で、俺を見ていた。

ふん、そんな偽善的な笑顔をよくもまあ堂々と晒しやがって。どうせ宗教かなんかの勧誘だろう。あいにく俺は無神論者だ。宗教のしの字でも出してみろ、問答無用ですぐにドアをぴしゃんと閉めて鍵を掛けてやるからな。

「何かご用ですか?」

ドア越しに俺がわざと不機嫌そうな低い声で問うと、その若い女は表情を変えずに答えた。

「こんにちは……」

またそれか。何度言えば気が済むんだ。お前はこんにちは星人か。それともただの冷やかし魔か。俺は涼むのに忙しいんだ。こんにちは星人でも冷やかし魔でも、構っている暇なんてないんだよ。

「こんにちは……」

なおも女は同じ表情で、同じ言葉を繰り返しやがった。これはおかしい、と俺は思い始めた。一二度ならず、四度も「こんにちは」だぜ。突然、俺は背筋に走る寒気と共に一抹の不安に襲われて、この女が不気味に思えてきた。

不幸にも、この俺の不安は当たってしまったようだった。

「こんにちは……」

女は、こちらが問い掛けてもいないのにも関わらずに、また同じ調子で挨拶をする。その顔と声は、俺にはもう不気味としか感じられなくなっていた。おい、一体何なんだ。どうしてそんな笑顔で「こんにちは」を俺に掛け続けるんだ。止めてくれよ、止めてくれ。

俺は何だかもう怖くなって、急いでドアを閉めて鍵を掛けた。おお怖い。きっとあいつは幽霊か何かに違いない。こんにちは幽霊だ。しかし幽霊が真っ昼間に現れるものだろうか?いやそんなのはどうでもいいい。問題なのは、今俺の目の前に、この未知なる存在が迫っているということだ。

「こんにちは……」

ドアを閉めても、その向こうからまだその声は聞こえてきたんだ。そしたらもう不気味どころじゃない、命の危機に準じるような程の恐怖を感じて、俺の全身が震え上がっていた。俺はへなへなと玄関の床に座り込んだ。気付くと、変な汗で身体中がびしょびしょになっていた。言っておくけれど、お漏らしじゃない、汗だ。それも暑さのせいじゃない、恐怖のせいだ。俺はもう今までに経験したことのない恐怖に襲われていたんだよ。

「こんにちは……」

まだ声は聞こえたから、ああ俺はもうだめだ、こんにちは幽霊に呪い殺されるんだ。そう思って、自分の部屋に戻って万年床の布団の中に潜り込んだ。

それでもだ。俺の耳元で囁いているかのように、あの声は聞こえてきやがったんだ。

「こんにちは……」

だめだ。だめだ。だめだ。布団の中もだめだ。きっとトイレに行ってもだめだ。どこへ行ってもだめだ。あの声は俺を追い掛け続けるつもりだ。俺を殺すまで、いや、下手をすると俺を殺してもなお俺を追い続けるのかも知れない。

俺はもう冷静な思考もできなくなって、ぎゃーと叫んでベランダから飛び降りた。それっきりさ。

幸いなことだけど、今俺はここに来て、もうその声は聞こえなくなった。本当に良かったよ。助かった。俺は助かったんだ。

ただまあ、こんな小さい猫になるとは予想外だったな。婆さんに近付いてニャーニャー言っていれば煮干しやらを沢山くれるから、案外暮らしやすいけどさ。君ももしかして、こんにちは幽霊に襲われたのか?


「まあ、そういうことだ。鹿島さんで会った仔猫の話」

シロは僕に長い話を聞かせ終えると、ふう、と小さく息を吐いて、扇風機の前へ行き体を涼ませる。

「月の女は、その男を追い詰めて、命を奪ったんだ。しかも真っ昼間にな」

ふわふわとシロの毛が扇風機の風になびいて、シロは気持ちの良さそうな表情を浮かべる。

「それはまさか、雑音を使って?」

「……間違いない、雑音だ。月の女は自在に雑音を操ることができる」

シロは目を閉じて、顔を床に寝かせる。さぞかし風が気持ちいいのだろう。そんなシロの様子は、電気代をけちって冷房を入れたがらない僕にとって、シロへの申し訳なさを少しながら打ち消した。

「おいらが鹿島さんで会おうとした山本の猫は、もう月の女に連れ去られちまった。道理で鹿島さんの石がずれた訳だ。全ては月の女の仕業だ、畜生」

そしてシロはぎょろりと鋭い目を僕へ向けて、こう言った。

「くれぐれも月の女には気を付けろ。あいつはいつ、何処にでも、どんな形でも現れる。神出鬼没だ」

 

「今日といい昨日といい、無闇に暑いな」

「うん、暑いね」

暑さにうんざりした様子で地面にべったりとへばり付くように寝そべっているシロに、僕はうちわをぱたぱたと扇いでやる。うちわの上下の動きに従うように、シロの白い毛と髭がそよそよとなびく。

「それに最近、地震が多い」

「うん、多いね」

シロは寝そべりながら、目を閉じ、顔も体も動かさずに話している。こんな様子のシロは、いつも大抵何かを考えている。きっとまた、おかしなことを言い出すに違いない。

「……これは多分、地の底の大鯰が動き出したんだろう。そうに違いないぜ」

「うん、そうだね」

ほら、来た。僕の予想通りだ。何年も生活を共にしていると、二口目には何を言うかすら分かってしまうものなんだろう。

シロは何処から知識を仕入れたのかはしらないが、僕が随分前にシロを拾ってきた時には、大鯰やら月の女やら、既にそういった話に通じている程だった。

まあ、猫が言葉を話すという時点で僕は驚いたのだけれど。もう今では、そんなことは僕の中では当然になってしまっている。

「おいら、ちょっと鹿島さんの石の様子を見て来ようと思っている」

「鹿島神宮の?」

僕はうちわを扇ぐ手を止めた。するとシロはこちらをじろりと向く。どうやら扇ぐのを勝手に止めるなとでも言いたいのだろう。僕が再びうちわを扇ぎ始めると、シロはまた元通りに向こうに顔を向き直した。

鹿島神宮といえば、地震を起こす大鯰を抑えていると言われる要石が置かれていることで知られている神社だ。けれど大鯰が地震を起こすやら石で大鯰を抑えるなんて、科学的根拠もない土着の迷信というか伝承に過ぎない、と僕は思っている。

それを冗談の欠片も見せずに至って真面目に言うものだから、正直僕は戸惑った。鹿島神宮へ行く、とシロは言うけれど、まさか連れて行け、とでも言うつもりなのだろうか?

乗り換え一回で鹿島臨海鉄道に乗り換えれば鹿島神宮へは行けるものの、ここからでは二時間は掛かる。この暑い夏に、そんなのは御免だ。行くなら一人、いや一匹で行け、とでも言いたいけれど、歩いていくのは大変だから連れて行け、と実際に言われれば、きっと僕は一緒に行ってしまうことになるんだろう。

「きっと山本の所のバカ猫がサボってやがるから、石がずれちまったんだ。あのバカ猫め」

「石がずれたから、鯰の動きが活発になって地震が多くなっている、とでも言うの?」

「ああ、そうだよ。そうに違いない。そうとしか考えられないな」

シロは相変わらず寝そべってはいたけれど、横から覗いて見ると、その顔には何処か怒っている様子が見て取れた。"山本の猫"についてはシロの口からは以前から何度か聞いたことはあったけれど、詳しいことは僕は知らなかった。

「ああ!あのバカ猫をとっちめてやりたいが、そんなのは後回しだ。おいらは行かなきゃならねえ」

シロはそう言うと、のっそりと立ち上がった。そして大きく体を前後に伸びをすると、こちらを振り返って言った。

「もうおいらは今すぐにでも行かなきゃ駄目だ。しばらく留守にするぜ。月の女はまさかここには来ないとは思うが、まあ気を付けてくれよ」

 

中三病

  • 2008年7月 3日 23:57

僕がまだ中学三年生だった時の出来事。文化祭の後にクラスで演じた劇のセットの片付けをしていた時のことだった。

「ね。何でも一つだけ願いが叶えられるとしたら、やまもと君は何をお願いする?」

突然僕は、好きだった女の子、よしださんからそう問われた。僕は彼女の透き通った青空のような笑顔が僕の目の前にあるのを見て、どぎまぎした。

何だろう、この思わせ振りな問い掛けは。まさかこの子は、僕に気があるんだろうか。いやそんなわけがない。だってよしださんは、可愛いし明るいし頭は良いし、クラスで一番の人気者だ。そんな彼女が、根暗でイケメンでもない僕のことを、恋愛の対象として見るはずがないんだ。でもそう言えば最近、僕はよしださんとよく話すことが多くなっていた。別に僕の方から話し掛けているんじゃない。彼女の方から、僕に話し掛けてくるんだ。きっと、もしかしたら……。

いや、それは多分、ただの偶然なんだろう。あるいは、僕のただの自意識の過剰さがそう思わせているだけかも知れない。そう、今日もきっと、ただちょうど近くにいた僕に、ちょっと頭にひらめいて湧いた考えを聞いてみただけなんだろう。そうに違いない。いや、でも、ひょっとしたら、ひょっとしたら……。いや、まさか……。戸惑う僕の頭の中には、二つの答えが浮かんでいた。

君といつまでも一緒にいられたらいいな。

そんなことはとても言えなかった。僕は加山雄三じゃない。白いギターを片手に恋を語る若大将なんて器じゃないんだ。

内気な僕と、陽気なよしださん。僕が彼女に、君といつまでもいたい、なんて言ったところで、うわ何この根暗なガリ勉、私と一緒にいたいなんて気持ち悪い、と引かれて気味悪がられるに決まってる。もう一生僕と話を交わしもしてくれなくなるかも知れない。そうなったら、僕はもう学校にいられない。卒業までの間、ずっと登校拒否をしなければならなくなってしまう。それじゃ困る。

だから僕は、頭にあったもう一つの答えを返した。

「世界中の人がみんな、笑って過ごせるようになればいい、かな」

その無難な答えを聞いた彼女の顔が、少しだけ陰ったように見えた。気のせいかも知れないけれど、僕には確かにそう見えた。

「やまもと君らしいね。ほんわかしてて」

「よしださんは?」

「私はね……、好きな人と、ずっとずっと、一緒にいられますように、って」

そう言ったよしださんの顔が、にわかに赤くなっていることに僕は気が付いた。今度は決して気のせいなんかじゃない。ちょっとはにかんだ顔に、赤みを差した頬。よく見れば耳も真っ赤だ。目線もどこか定まらずに、ふらふらと泳いでいる。これは、普通じゃない。

そんな普通じゃないよしださんを見て、僕も普通でいられなくなってしまった。もう頭の天辺からつま先までどぎまぎで埋められて、平静を保っていたはずのいつもの僕はどこかへ消えてしまった。

「へ、へえ、へえ。いいね、いいお願いだね。いい、いいお願いだと思うよ、いいよね」

この慌てた口調が、酷くみっともない。自分でさえそう思うんだから、他人にもそう思われるんだろう。もちろん、目の前のよしださんにも。けれど彼女は赤くなりながらも、僕を変に思う様子も見せず、むしろ僕を暖かく見守るような眼差しさえ見せて、微笑んでいた。あれ?よしださんが普通に見える。変なのは、僕の方じゃないか。

心臓の鼓動が早くなり、身体中の血管が波打っているかのように感じられる中、僕はもうどうすればいいのかも分からず、咄嗟に声を出していた。

「ほら、ほら、さ、タケちゃんだったらどうお願いするかな。ねえ、タケちゃん、タケちゃん」

変になった僕は何故か、近くにいた、いや近くじゃない、だいぶ遠くで舞台を片付けていた、同じクラスのタケちゃんという友達を呼んで手招きをしていた。

丸坊主の彼は、その頭通りの明るくひょうきんな性格で、誰からも好かれるような人間だった。もちろん僕も彼を好いている人間のうちの一人だった。そしてあまり友達付き合いが多いとも言えない僕は、彼だけにはある種の柔らかい印象を覚えていた。

どうしてあの状況でタケちゃんを呼んだのかは分からないけれど、きっと僕は無意識のうちに助けを求めていたんだろう。そして助けを求めたのが、僕が最も親しみを感じている彼だった、ということなのかも知れない。

僕に呼ばれたタケちゃんは、作業の手をぴたりと止めると、不思議な表情で僕とよしださんとを交互に見ながらこちらへ歩いてきた。

「何ね、呼んだ?」

「よしださんがね、もしも一つ願いが叶うなら何をお願いするか、って。タケちゃんだったらどうする?」

「……」

よしださんにちらりと目を向けて見ると、無言の彼女の顔からは、見る見るうちにあの優しく暖かかった表情が失われていく様子が見えた。そしていくらか強張ってさえもいた。強張ってはいるのだけれど、それを露わさまいという意思が見えて、それが余計に表情を強張らせていた。

……あれ、もしかして、僕は何か、とんでもない間違いを犯してしまったのかな?

「そうじゃの。一生遊んで暮らせりゃ、そりゃあええ人生じゃろなあ。ほいじゃけん、わしは金が欲しい。のう?よしださんもそう思うとるじゃろ?」

タケちゃんがそう言うと、強張った顔のよしださんは、強張りを超えて露骨に不機嫌そうな顔を見せた。と思ったら、僕とタケちゃんに背を向けて、何も言わずにすたすたと早足で向こうへ行ってしまった。

ああ、ほら!馬鹿馬鹿馬鹿!僕の馬鹿!

僕はもう取り返しの付かないことをしてしまったのだ。先程の心の昂ぶりはもう何処かへ消えていて、代わりに全身の血の気がさっと引いていくのを感じた。

「何ね、あんなあ。わし、いなげなこと言ってしもうたん?謝らんといけんのんかな?」

タケちゃんは何も悪くない。よしださんも何も悪くない。悪いのは、僕だ。



「仰げば尊し我が師の恩……」

あの日から半年、僕たちは卒業の日を迎えていた。

僕は特に何も考えず、近くにある県立高校を第一志望として選び、そこへ進路が決まっていた。人づてに聞いた話によると、あのよしださんも希望の進路が決まったらしい。僕とは別の県立高校だという。そしてあのタケちゃんも、よしださんと同じ高校へ進学するという。

そんな中で僕はまだ、あの日の出来事と痛みを胸に抱えたままだった。僕は、あの日以来よしださんとは一言も口を交わさなくなってしまっている。きっと、よしださんも僕と同じように、痛みを抱えて悩んでいるに違いない。それは、僕が彼女の心に与えてしまった傷の痛み。原因は、他の誰でもない、僕にある。

あの時に僕は加山雄三になっていれば、今日まで続くこの心の痛みを抱かずに済んでいたのだ。時間を遡れるのなら、僕は迷うことなく加山雄三になるだろう。

けれどそれも叶うはずのないことだ。後の祭り。今はもう、抱いてしまったこの痛み、そしてよしださんの痛みを、どう処理するか考えなければならない。そしてこの痛みを清算出来るのは、もう今日しかないのだ。そう僕は思っていたから、僕は彼女に謝ろうと心に決めていた。

最後のホームルームが終わり、みんなが感極まって泣いたり喜んでいたりする中、僕はひとり、心臓の高鳴りを抑えられないでいた。よしださんに謝らなきゃ、よしださんに謝らなきゃ……。そのことばかり考えていたから、傍から見れば少し挙動が不審に見えたのかも知れない。誰かが僕に話し掛けてきたような気がしたけれど、何だかもう覚えていない。僕の体も心も、よしださんへ謝らなければならないという思いに取り憑かれていたから、他のことはもう何も考えられなかった。

そしてよしださんを探して、その姿を教室の前の方に見付けると、流石に人気者だけあって大勢の友達に取り囲まれている。困ったぞ。これじゃ気軽に重い話の出来る雰囲気じゃない。何とかして、よしださんと話し掛ける機会を見付けないと……。

しばらく席に座って様子を見ていると、よしださんが一人で廊下へ去っていくのが見えた。今だ。今しかない。僕は謝るんだ。謝らなきゃならない。

僕は急いで席を立ち、教室を出る。そして廊下の先に一人で歩くよしださんの後ろ姿を見ると、僕は走って近付く。いよいよ心の昂ぶりは頂へと登り詰める。

「あ、あの、よしださん」

僕は呼び掛けた。この後に起こることへの期待を込めて、呼び掛けた。

するとよしださんは一瞬だけ振り返って目をこちらに向けたものの、まるで何も見なかったかのようにすぐに目を逸らし、そして顔も背けると、彼女の行こうとする方向へ行ってしまった。

ああ、これがよしださんの、僕への答えか。もう、終わった。終わっちゃったんだな。


卒業式の日の夜、クラスでは卒業記念の打ち上げ会があったという。けれど、僕はもう参加する気にもなれなかった。みんながきっと盛り上がっている時間、僕は一人、月明かりだけが差し込む暗い部屋の中で、机に突っ伏して泣いていた。

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