茨城症候群

 

眼帯少女

  • 2008年10月30日 03:59

ニラギ。

ぼさぼさ頭の男子から渡された灰色の石を見ると、今まで私が聞いたこともないこの謎の言葉が、走り書きのように汚く書かれていた。

私がその“ニラギ”という言葉を見てまず思ったのが、“ニラ入りギョーザ”なのだけれど、まさかその略ではあるまい。“ニラギ”と書かれた石は、昨日の夕方から今朝のうちに教室中に投げ入れられたと聞いた。もしも“ニラギ”が“ニラ入りギョーザ”を意味する言葉だとしたら、一体誰が何のためにそんなことをするだろうか?

だいたい、訳の解らない言葉の書かれた石を投げ込むという行為すら、全く以て意味不明な迷惑行為だというのに。まあ、この得体の知れない普通科の連中なら、そういった無意味な行為すらやりかねないのだけれど。

「“ニラギ”?」

私が訊くと、ぼさぼさ頭はいやな含み笑いをしながら頷いた。周りの生徒たちも私の方を向きこそしないものの、私の言葉をいちいち気にするかのように、ぴたりと動きを止めて耳をそばだてているように見えた。

わざわざ離れた校舎にまで出向いて訊きに来てやってるというのに、普通科の連中というのは噂に聞く通りいやな奴ら。それともやっぱり、私が特進科の生徒だということが分かったから、わざとよそよそしく冷たい態度を見せているのかしら?

思えば、普通科校舎に足を踏み入れたその瞬間から私はどこか気持ちの悪い違和感を覚えていた。同じ学校の生徒ではあるけれど、普通科の生徒たちを見ると全く活気がない。廊下にぐでんと座り込んだり階段で寝っ転がったりはもちろん、教室の中を見れば男も女も関係なくほとんどの生徒が机に突っ伏して寝ており、まるで誰かのお通夜でも始まるのかとすら思ったほどだ。

昼休みにも関わらず、晴れた青空の広がる校舎の外にも遊びに出掛けようとする生徒もいない。特進科の生徒たち、特に男子などは、食事後の短い時間であろうとみなこぞって校庭へ遊びに行くというのに、普通科の男子ときたら何にもせずにただぼんやりと屋内に引きこもっている。喩えるなら、まるでゾンビのよう。

見る限り、ここの普通科というのは、本当に活気のない人間ばかりが集まってしまったようだ。あるいは、この学校の普通科に属したことによって、本来持っていたはずの活気さえ失われていったか。そのどちらかなのだろう。

そんな陰鬱とした空気の中で過ごす彼らにとって、私の襟元に光る特進科のバッジは目障りなものとして映るらしい。呼び出された教室へ向かって廊下を歩いていると、すれ違う生徒が冷たく鋭い目線を私に浴びせる。それが何度も続いたものだから様子をうかがうと、このバッジを目にした途端に彼らの目付きが鋭く変わることに気付いた。

要するに普通科の連中は、特進科というものが気に入らないのだろう。何が気に入らないのか解らないけれど、とにかく気に入らないらしい。

それでいて「頼みがある」と私を呼び付けたというのだから、頼んだ連中だけは不可解なわだかまりを一旦忘れて普通に迎えてくれるものとばかり思っていたのに、いざ来てみたら全然忘れちゃいやしない。この通り、私はいやな冷笑で歓迎されている。

私はだんだんと心に湧いて出てくる苛立ちを抑えながら、ぼさぼさ頭に再び訊いた。

「ニラギ、って何?」

「さあねえ?馬鹿な俺たちじゃ分からないから、特進科のあんたに聞いたんだよ。俺たちとは全く出来の違う、校内一頭のいい、あんたにね」

そう言うとぼさぼさ頭はまたいやな含み笑いを浮かべる。それに従うかのように、周りも同じようににたにたして、いやな微笑み顔になった。

この、声を殺してにたにたと笑う様子が、本当に憎たらしくてたまらない。自分たちを馬鹿だと卑下しながら、実のところは私の方を馬鹿にしているんだ。間違いない。いやな奴らだ。

けれどここでこいつらの挑発に乗ってしまったら、小野田の目論んだ筋書き通りに沿って進んでしまうことになる。あいつは、小野田は、教務主任という立場を利用しながら、生徒を巻き込んだ権力闘争を起こそうとしているのだから。

この普通科の連中も、小野田の野望など知らないまま駒として利用されているに過ぎない。おおかた、対抗心を超えた敵意が特進科に向かうように、前々から小野田に吹き込まれているんだろう。小野田なら、やりかねない。

もしかすると、この“ニラギ”の一件も小野田が仕組んだ陰謀の一端かも知れない。このぼさぼさ頭たちを使って、私に謎の言葉の秘密を解き明かさせようとしているのだ。そうすることで、何かの不都合を私たち特進科に押し付けようとしているのだろう。

そうだとすれば、私はこの件に乗るべきではないことになる。私一人だけの行動で、他の特進科の生徒たちに迷惑が被るようなことがあってはならないからだ。

“ニラギ”が小野田の罠だとしてもそうでなくとも、とにかく、私は一旦この件を持ち帰らなくてはならない。持ち帰って、みんなで検討するのが先決だ。

「こんな石ころが一つあったところで、手掛かりにも何にもならない。それに私だけじゃ何が何だか分かりようもないよ。人手が要るわ。もう何人か呼んで来ないと。だから……」

「俺たちは、あんたにお願いしているんだよ。他の誰でもない、あんたにね」

提案しようとしたところを突然ぼさぼさ頭が強い調子で遮ったものだから、私は正直驚いた。周りの生徒たちはその声に反応して、私へ顔を向けていた。その顔から発せられる視線が、まるで私を縛り付けているように思えて仕方がなかった。

黙る私にぼさぼさ頭は続けてこう言う。

「人手が要るというなら、このクラスの人間を使えばいいだろう?石が投げ入れられたことを知っている奴は、このクラスの人間と、あんただけなんだよ」

その言葉は、暗に私に対して「この件は内密にしろ」ということを言っているに違いなかった。

けれど、私一人で特進科の命運を左右することになるかも知れない行動をとるなんて、私には出来ない。ましてや私に対して決して良くはない感情を抱いているであろうはずの普通科の連中と一緒に行動するなんて、出来ればご遠慮願いたい。何をされるか分からないからだ。

私は迷った。迷う私を、教室中から向けられた視線が監視していた。

「あの……、あの……」

そこへ、誰かが小さな細い声でぼそぼそと言いながら近付いて来る。誰か、といってもこのクラスの人間には違いないのだろうけれど。

「あの、あの……」

声のする方に顔を振り向かせると、思ったよりも近く、いや、思ったよりもずっとずっと近く、私の顔の真ん前、こぶし二つほどに、真っ白な顔があった。

どう考えても、近付き過ぎだ。あまりにも近付きすぎていたものだから、もはや驚きすら通り越した恐怖に近いものを感じて、絶句という言葉がぴたりと当てはまるように、私は声も出せなかった。

私は自分自身を落ち着かせつつ一歩二歩三歩と後ずさりすると、その顔の持ち主の全身が見えた。

「あの……」

あの、と何回言えば気が済むか分からないこの人間の正体は、すらりと長い足、滑らかに流れる長い黒髪、……と、何故か白い包帯を膝に巻き、白い眼帯を左目に付けている、不思議な雰囲気の女子生徒だった。

彼女は不安げな表情をしながら、眼帯に覆われていない方のつぶらで大きな黒い瞳で、私をじっと見つめていた。

「あの……、あの……」

「何?何か言いたいことでもあるの?」

「あの、あの……」

まるでらちが明かない。そこに、ぼさぼさ頭にしては親切にも解説を入れる。

「ああ、だめだよ、そいつは。極度の人見知りだから、他人との距離感が分からないんだよ。まともに会話も出来やしない。話そうとするだけ、無駄だよ」

そんな解説を聞いたところで、彼女を無視する訳にもいかない。初対面との彼女との会話を試してみないことには、ぼさぼさ頭の言うことが本当であるか分からないからだ。

もしかすると、彼女は“ニラギ”について何かを知っているのかも知れない。彼女はそのことを、彼女なりに必死で私に訴えようとしているのだとしたら……。

そう考えると、彼女が言おうとしていることを訊かない訳にはいかなかった。

「……何か、私に伝えたいことがあるの?」

私が彼女の目を見てそう言うと、彼女は無言で静かにこくりと頷いた。やっぱり、そうだったんだ。彼女は何かを知っているんだ。私の知らない、何かを。

「それは、どんなこと?ね、教えて?」

私は思わず、彼女の手を取りながら問い掛けた。彼女の手は、ひんやりと冷たく、小さく震えてもいた。

「……ニラ……ザ」

小さな小さなか細い声で、彼女はそう言った。けれどあまりにも小さな声だったから、私は一部しか聞き取ることが出来なかった。顔をうつむかせた彼女の手は、まだ小刻みに震えていた。

正直なところ、私はこういう弱々しさを人前で見せる人間が嫌いで仕方がない。弱さというものは、本当に心も体も弱り切った時にしか見せてはならないものなのだから。身近の親しい人間がこんな様子を見せていれば、間違いなく苦言を吐くことを厭わないはずだ。

あるいはそれは、本当の私自身が弱い人間だからそう思っているだけのことなのかも知れない。弱い自分を決して見せまいと隠すために、私は強がっている。そう思うこともある。

それが私を形作る要素の一つだとしても、やっぱり私は弱々しさを隠そうとしない人間のことが嫌いなことには違いない。そして今、その弱々しさを惜しげもなく見せ付ける人間が、目の前にいる。

けれど、私は考えた。相手は“極度の人見知り”。そんな彼女が、全く初対面の私に対して、伝えたいことがある、とわざわざ向こうからアプローチしてきたのだ。

彼女の中には、伝えなければならない務めと話し掛けなければならない恐怖との間で、大きな葛藤があったに違いない。それを乗り越えて、彼女は私に何かを伝えようと決心したのだろう。叱り飛ばす訳にはいかなかった。

「ニラザ?」

私が訊き返すと、先程よりもいくぶんはっきりとした声で、彼女は返してくれた。

「……ニラ……入り、ギョーザ……」

「ニラ入り、ギョーザ……?」

彼女が大きな葛藤を乗り越えてまで伝えたかったこととは、それだったらしい。奇しくも、私が“ニラギ”について初めて連想した言葉と全く同じだった。

ぼさぼさ頭を初めとした周りの連中は、私と眼帯の彼女とのやりとりを横で聞きながら、またしてもあのいやな笑いをにたにたと浮かべていた。「だから言ったのに」と言わんばかりの、声を押し殺した笑い。全く、どこまでも癪に障るいやな笑いだ。いやな連中だ。

ひょっとすると、これもやっぱり小野田の罠だったのかも知れない。こんな人見知りの女子生徒まで使って、私に恥をかかせてプライドをずたずたにしてやろうとでも思ったのだろう。いや、罠と言うには幼稚すぎる。嫌がらせだ。程度の低い、嫌がらせだ。

私はそんな嫌がらせに引っ掛かったのだと思うと、自分が妙に恥ずかしくなって、彼女の手を離してさっさと立ち去ろうとした。こんな場所、来るんじゃなかった。頼まれたってもう二度と来るもんか。

と、誰かが私の腕をつかんだ。まだ私をからかうのか、と思って腕をつかんだ人間を睨むと、眼帯の彼女だった。

彼女はまだ不安そうな表情を浮かべて、その瞳で私を見つめていた。彼女が私に伝えたかったこと、ニラ入りギョーザなら、もう聞く必要もない。そもそも初めから、聞く必要なんてなかったんだから。

彼女は私の腕をつかみながら、あの小さな声でこう言った。

「……待って、お願い……」

「待たないよ。私は、こんなところでふざけた遊びに付き合っているほど暇じゃないんだからね」

私は彼女の手を振り切った。少し手荒いことに思えたけれど、私の意思、もう二度とここには来ないということを表すには、このくらいの手荒さも必要だ。大きく振り切って、教室の出入り口へと向かおうとした。

そこに、どたん、と大きな音が聞こえたものだから、私は思わず振り返った。

眼帯の彼女が、うつ伏せに倒れていた。私が彼女の手を振り切った弾みで、彼女は倒れてしまったのだ。

これは酷いことをしてしまった。彼女を傷付けるつもりは全くなかったのに、私は意思を示すという勝手な行為に彼女を巻き込んで、彼女を傷付けてしまったのだ。なんて酷い人間なんだろう、私は。これじゃ、弱さも強さも関係ない。

自分を恨むよりも先に、倒れた彼女に急いで駆け寄ると、彼女は自ら起き上がろうとした。どうやら、頭を打ったとか意識を失ったとか、大事には至らなかったらしい。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。大丈夫?」

心配して彼女の肩に手を掛けながら彼女の顔を見ると、彼女は意外にも微笑みさえ浮かべていた。先程の不安げな表情は、どこにも見当たらなかった。

「……大丈夫。……いつも、私、……自分で転んじゃうから……」

そう言いながら彼女は、その細い指で自分の膝を指差した。彼女の膝へと目を遣ると、白い包帯が巻かれていた。なるほど、それで包帯……。

周りの人間を見ても、彼女が倒れたことを目にしても全く慌てた様子が見えない。その周りの様子と彼女の包帯とを考えると、彼女が転ぶのは日常茶飯事の出来事なのだろう。だから、誰も驚かない。そして彼女の膝から、包帯は取れない。

「それなら良かった。でも、本当にごめんなさい」

「……ううん。あなたのせいじゃ、ないから……。心配してくれて、……嬉しい」

彼女はそう言うと、立ち上がろうとした。するとその時、左膝に巻かれていた包帯が、はらりとほどけていくのが見えた。

「あっ」

ほどけた包帯が覆っていた膝には、大きな湿布のようなものが貼られていた。その紫色の地の上に、マジックのようなもので赤色の文字が書かれている。

“今日も、明日も、ずっと独り”

膝の湿布の上には、そう書かれていた。膝の湿布にそんな言葉が書かれているとは思いもしなかったから、私は確かめるように何度も見た。けれど確かに、書かれていることに違いはなかった。

私の目が膝に置かれていることに気付くと、彼女は焦った様子になって膝を隠しながら、ほどけた包帯を巻き直した。巻き終えると、彼女は余裕のなさそうな照れ笑いを私へ向けた。

そんな彼女の顔を見て、私も笑いを返さずにはいられなかった。彼女と同じ、照れ笑い。

「んー?」

「んー?」

取り敢えず、湿布に書かれていた言葉の意味は問わないでおこう。そう私は心に決めた。

 

マジックミラー先生 1

  • 2008年10月18日 03:49

マジックミラー先生

僕が高校に入学して驚いたのが、水戸先生が四角いマジックミラーの箱のようなものを被っていたことだった。

入学式の時から、水戸先生は目立っていた。もちろん周りの先生は水戸先生のようにおかしな箱は被ってもいない。素顔のままで、初々しい入学生を迎える優しい眼差しをした、“普通の”先生だ。水戸先生だけが、素顔も見えない異様な暗い箱を頭に被っていた。

僕はそんな変な格好の先生が気になって気になって仕方がなかったから、式の間じゅうちらちらと目を遣っていた。けれども、他の入学生は特に、いや、全く気にしていない様子だった。僕は初対面の人とはあまり話をしたがらない方だから、「あの先生、おかしくない?」などと訊くことも出来ず、ただ心の内にもやもやしたものを抱えたまま式に臨んでいた。

担任紹介の時になって、みんなは誰が担任になるんだろうと流石にそわそわし始めたけれど、僕はそれとはまた別のそわそわを感じていた。「あの変な先生は、何処のクラスの担任になるんだろう」

それがまさかもまさか、僕のクラスの担任になったものだから、僕は驚きを隠せなかった。

四角い箱を被った水戸先生が、小走りでクラスの列の前へ来て、深々と礼を下げる。顔を覆った箱の向こうに、先生の表情は見えない。先生はクラスのみんなを歓迎するかのように、両手を大きく振る。箱も左右に揺れる。やっぱり表情は見えない。

担任が箱を被った先生だと分かっても、他のみんなは一向に不審がる様子も見せなかった。それどころか、「明るそうな先生だね」「割とイケメンに見える」などと言う人もいた。箱のことは、誰の口からも出ては来なかった。

当然、僕には到底理解出来ない話だ。箱を被っているお陰で顔も見えないのに、どうして明るいだのイケメンだの評価が出来るんだろう。有り得ない。

もしかするとあの箱は僕の幻覚なのかも知れない、とさえ思ったけれど、他の先生の顔は普通に見えているのに、水戸先生の顔だけ箱の幻覚が現れて見えるわけがない。僕の目がおかしいのではなくて、先生が間違いなく、箱を被っているのだ。

入学式後に行われる最初のホームルームでも、先生は頭の箱を取らずに僕らの前へ立った。

「えーと、私は今日から君たちの担任になる、水戸箱太と言います」

先生はそう言いながら、後ろを振り向いて黄色いチョークで黒板に自分の名前“水戸箱太”とでかでかと書いた。先生が“箱”という文字を書いた時に僕は目を見張ったものの、やはり他のみんなは大人しく先生の話を聞いていた。

「先生ね、こう見えても化学の担当なんです。えー、ですからね、担任のクラスですから、みんなには是非ね、化学の勉強に励んでもらってね、良い点数を取ってもらって、化学だけでもね」

周りから、何だそりゃと口々に失笑が漏れる。

「まあ本当は、テストなんてどうだっていいんです。何でもいいから一つ、強い興味を持ってさえくれればね。どんな教科でもいいんですよ?英語が大好きなら、英語だけ満点、あとは0点。あるいは化学が好きなら、化学満点、あとは赤点、とかね。まあこれは私の実話なんだけどね」

教室中に小さな笑いが湧く。男子も女子も、みんな笑っていた。けれどその楽しげな空気の中で、僕だけが笑うことが出来ずにいた。そりゃ出来れば先生の滑稽な話に、みんなと一緒に笑えたらいいんだろうけれど。僕は先生が顔に被っている箱のことで頭がいっぱいだったから、笑うことすら出来なかった。

その後もホームルームは先生の雑談を含めて一時間ほど続いたのだけれど、その中で先生の箱について訊いた人は誰もおらず、また当然先生自身からも箱のことは一切話されなかった。

結局入学式の日で分かったことは、担任がマジックミラーのような箱を被った水戸先生、そしてその容姿を怪しがる人間は僕一人、他の誰もが箱を被った先生を妖しいとも思ってはいない、ということだけだった。


入学式初日はそんなことばかり考えていたから、僕は気難しい人間だとでも思われたのだろう。翌日学校へ行くと、初日で友達となったと思える男子女子たちが挨拶を交わしていた。

「おはよーう」「うぃす」

よくもまあ一日で、たったの一日でこんなに楽しそうな関係を築けるものだ。僕だったら、少し間を取り合いつつ、徐々に徐々に親しくなる。そんな関係構築しか出来ない。

「おはよう!」「おお!おはよ〜」

僕には決して掛かっては来ないであろう声。清々しい春の空気に似合うほどの清々しい挨拶。僕には……僕には……。

「あっ、あのっ、あの……」

席に突っ伏して朝のホームルームが始まるのを待っていると、そんな声が聞こえてきた。また誰かが近くの席の奴に用があって話しているのだと思ったが、どうやら用があるのは僕だということらしい。

「何の用ですか?」

顔を見上げると、女子が微笑んでいた。眼鏡を掛けて、大人しそうな印象の女子だ。それが、一体何の用だというのだろう。

僕が顔を向けると、女子は少し照れながら「そこの席……、席、違ってるんだけど……」と言った。

嘘だ。間違いない、僕は確かに昨日と同じ座席に座ったはず、……だった。よくよく見ると、確かに椅子が低い。またよくよく見ると、黒板の見え方が違う。どうやら、僕は、彼女の言うとおりに座席を間違えて一つ後ろに座ってしまったのだった。

「ほんと、ごめん。順番間違えたんだ。ごめん」

僕は急いで立ち上がり、机の上の荷物を一つ前の本来の僕の座席に動かす。ああ、何て間違いを犯してしまったのだろう。僕は馬鹿かも知れない。実際馬鹿だよな、座席を間違えるなんて。

「ううん。別にいいよ。悪気があってやったのでもないし」

彼女は忙しく動く僕を向いて笑っている。良かった。怒っていなくて。意外と大らかな性格なんだろう。とは言うものの、良く聞く話で女は怖いという。陰口で何を言われるかも分からない。ここは大きく謝っておかなければならない。

席の引き出しや机の上の荷物を元にあるべき場所へ移動させると、僕は頭を深々と下げて言った。

「本当に、ごめん。ごめんなさい」

「そんな、席間違えたぐらいで大げさだよ?」

そしてその女子は笑ってさえくれた。僕もそれに応じて、控え目に笑った。ああ、いいなあ。これが僕の高校生活初めての友達、になるのかな?そのまま一気に……なんて妄想も、生え始めた一本の毛のように生まれていた。

けれど目が合うと突然、彼女の目は険しくなった。やっぱり、さっきの笑いなんて嘘だったんだ。本当は内心で強い怒りを覚えているのかも知れない。俺は怒られることを予期して、心を構えた。平謝りの心構えだ。

しかし次に耳へ入った言葉は、僕の全く予想していないものだった。

「ねえ、あの先生、ほら担任の水戸先生。どう思う?」

彼女は小声でひそひそと僕に話し掛けた。怒られるかも知れない、という不安は何処かへ離れ始めてはいたけれど、真面目な顔であの水戸先生の話をされて、また別の不安が僕の中から湧いてきた。

「え?どう、って?……うーん、まだよく知らないけれど、いい先生だよ、たぶん」

「本当に?それだけ?」

彼女が急に体を乗り出して、僕の顔に顔を近付ける。彼女の目は、じっと僕の目を見据えて離さなかったから、僕は圧迫されている感じがしてどきどきした。

「そう、そうだよ。それだけ」

「うーん、例えば、箱……いや、服装とか。おかしいと思わなかった?」

水戸先生をおかしいと思える点は、ただ一つあった。頭に被った、箱のことだ。彼女も今、“箱”と言い掛けたように聞こえた。もしや彼女も僕と同じように……とは思ったものの、必ずしもそうであるとは限らない。だから僕は、先生の頭の箱のことについては何も言わないことにした。

「いや、別に?ただ少しスーツがしわしわだったのが気になったくらいか」

「そっかあ」

彼女は何かを諦めたのか、乗り出していた体を収めて、椅子へ腰を落とした。

「ごめんね、変なこと訊いて」

「いや、そんなことないよ」

「そう言えば、名前何ていうの?私は山本」

「そうなんだ。僕も山本だ」

「へえ、同じ苗字かあ。名前順で座席が決められてるから、前後なんだね」

彼女、山本さんは妙に感心した様子で、教室中を見渡していた。気が付けば朝のホームルーム五分前。ほとんどの生徒が着席していた。後を待つのは、あのマジックミラーのような箱を頭に被った先生だけだ。

と、後ろから誰かが僕の肩を叩いた。山本さんだ。

「よろしくね、山本くん」

「ああよろしく、山本さん」

 

バナナ

  • 2008年10月 2日 02:25

納豆やバナナを食べるだけでお手軽ダイエット、なんて飛んだ大嘘です。テレビの人たちはそんな嘘を吐いて、お金儲けなんてしてるんです。

純粋な私も、腹黒い彼らにまんまと騙されてしまいました。テレビで「私も痩せました」「もう簡単に痩せられるんです」「ダイエットはこれでお終いです」などと若い女性たちが実に晴れ晴れとした輝かしい笑顔をしながら口にしていたので、私はすぐにスーパーへバナナを買いに行ったんです。そうしてその次の日から毎日黄色いバナナを食べ続けました。来る日も来る日も、バナナの皮を剥いて食べ続けたんです。

それがどうですか、この結果です。見て下さい、今ではもう体重計にも乗れません。おととい信じられない数字を体重計が示したので、とうとう壊れたのかと思って買い直したのですが、新しい体重計もまた信じられない数字を表示しました。

これはおかしいと思って、私は全身の映る鏡を見ました。そして驚きました。鏡に映った私は、まるで雪だるまがそのまま人間に変身したかのようにむくれてしまっていたんです。つまり体重計の数字と同じように、信じられないほど私は太ってしまったんです。

一体これのどこがダイエットだと言うんでしょう?私はテレビの人たちが「バナナを食べれば痩せる」と何度も何度も何度も耳に残るほどに言うからすっかり信じてバナナを食べることにしたんです。それなのに、どうして私は太ってしまったんですか?

もしも本当にバナナを食べれば痩せるのなら、体重計があんなひどい数字を出すことなんて有り得ないはずです。ですが実際、体重計は私の期待を裏切る数字を示しました。結局、バナナを食べれば痩せる、なんて全くの嘘なんです。私は甘い言葉の罠にはまって、騙されてしまったんです。

もう許せません。テレビを通じて私を陥れた人たちは、私の身体中至るところにぶくぶくと実った、付くべきではなかったはずの肉、そして本来なら痩せて落ちるべき肉を、責任を持って買い取るべきです。

グラム千円と言いたいところですが、私は慈悲深い人間ですから三百円で勘弁して差し上げましょう。ですから彼らが私に支払うべき金額は、総額で二百四十万円です。二百四十万円、高いと思いますか?私からすれば、安いくらいです。特売も特売、大安売りの出血大セールです。

何せ彼らは私の心を傷付けたのですから。精巧な透明のガラス細工のように繊細で純粋な私の心を、嘘という大きな金槌でこなごなに砕いて割ったのですから。

ぶくぶくの体は元に戻っても、傷付いた心は決して元には戻ることはありません。二百四十万円あっても二億四千万円あっても、二度と元には戻らないのです。

私は酷い世界に生まれてしまったものだと思います。純粋な人を傷付けて金儲けするなんて、到底まともな人間のすることではありません。それがまかり通っているというのですから、この世界は狂っています。

彼らにこの憎たらしくぶよぶよとしている肉を返した後は、もうこの邪に歪んだ世界には用はありません。輪廻転生が本当にあるとしても、私はもう二度とこんな世界に生み落とされることは望みません。そんなのはこちらから願い下げです。


「ねえ、あの人、もうバナナ食べるのやめたの?昨日から普通のお弁当食べてるけど」

「そうみたい。ようやく誤りに気付いたんでしょ」

「そっかあ。そりゃどんなに間抜けな人でも普通は気付くよね」

「毎日三食バナナだけを何十本も食べて、その上ぐうたらしてるんじゃあねえ」

 

掲示板アイドル

  • 2008年9月18日 02:28

“ネットアイドル”。

たぶん、わたしがネットでやっていることを一言で説明するなら、そう言った方が解りやすいかな。でもわたしはわたし自身のことを“アイドル”だなんて自称するつもりはないんだけどね。“アイドル”に相応しい顔もしてないし、そんな器でもないしさ。

一言だといろいろ語弊があるからもっと詳しく説明すると、わたしはネットの掲示板で、ハンドルネーム、もちろん本名じゃないけど、わたしを識別できるような名前を付けて書き込んでるんだ。誰でも書き込める掲示板で、どんな会話をしてもいい掲示板。わたしはそこで、ネットのみんなと交流してるの。

何が楽しいかって言うとね、わたしが何か書き込む、例えばその日に身の回りで起きた出来事とか、世間の興味のあることとか。日記みたいにね。そしたら、そのわたしの書き込みにすぐに反応、レスって言うんだけどね、それが来るの。一つじゃなくて、たくさん。それでわたしはそのレス一つ一つに、お返しのレスを書き込む。一種のチャットと言ってもいいと思うけど、そのやりとりが楽しいんだよね。

今ではもう楽しくて仕方がないんだけど、掲示板に書き込み始めた頃のわたしは、顔も名前も知らない人たちといろいろな話をするのが怖いと思ってたんだ。だって、どんな人が書き込んでいるか分からないじゃない?回線の向こう側にいる人は、ネット上で女の人と仲良くなってチャンスがあれば実際に会うように誘って隙あらば襲っちゃおう、とかいっつも考えてるような、脳みそまで下半身の男の人かも知れないし。

だからネット上には本名とか住所とか、自分の素性が分かってしまうような情報は絶対に書き込まないように、いつも注意しながら掲示板に参加してた。わたし自身は全然追い詰められてもないのに、まるで追い詰められたうさぎみたいにびくびくした書き込みをしてたのかも。

でもそしたら面白いもので、慣れてきちゃうと自然にそういう意識も薄れていっちゃうんだよね。いつの間にか、わたしの通ってる学校名とかわたしの顔とか趣味とか、もういろいろな個人情報が掲示板のみんなに知られてたし。もちろん全部わたし自身が書き込んだんだけど、何でわたしがあれほど書き込んじゃいけないと思ってたものを晒したか分かる?

それは、掲示板のみんなの反応が欲しかったから。そしてわたしの方へみんなの興味を引き付けることができることを知ったから。

例えば、どこそこに住んでる、とか書き込むと、『そこ近いなあ』とか『そこらへんの店に行ったことがある』とか、わたしの領域へみんなをおびき寄せることができた。自分の顔写真をアップロードして見せると、『かわいいなあ』とか『俺の妹になって』とか返ってきて、わたしをより身近な存在に思わせることができた。

次第にそれが条件反射になってきてね、みんなの注目をわたしに向けさせたいなあと思うと、途端に自分の情報を書き込むようになっちゃうんだ。そしてその情報が素性に近ければ近いほど、みんなを引き付ける力が強い。これを一回知っちゃうと、本当に病み付きになるんだよ。もう止められなくなっちゃった。

依存が深まってどんどん自分をさらけ出してるうちに、今ではそこの掲示板の“四大アイドル”のうちの一人に数えられたりしてる。わたしにとって、その掲示板はもうわたしのアイデンティティの一部になってるんだ。掲示板でみんなとレスをしあうことで、わたしは自分の存在を強く確認できる。この掲示板がなくなったらわたしはわたしじゃいられなくなる、みたいな。

だから自然と、掲示板へ書き込むことがわたしの生活の時間の多くを占めるようになってる。わたしは別にこのことは否定的に捉えてなくて、楽しいものは楽しいんだから仕方がない、って思ってるんだ。学校へ行く以外の時間はほとんど掲示板に書き込むことに費やしてるけど、止めたい、と思ったことはあんまりないや。

掲示板でみんなと会話していて楽しいのは間違いないんだけど、やっぱりそこも天国じゃなくて、楽しいことだけしかないわけじゃない。

毎日毎日掲示板に書き込んで、みんなとレスをしあうんだけど、その中にはわたしと会話する為のレスばかりじゃなくて、わたしに対する嫌がらせみたいなレスもある。『出て行け』とか『うざい』とか。セクハラ紛いのレスとか、もっと酷い言葉になると、『死ね』『殺すぞ』なんて脅迫めいたものもちらほら。

まあその掲示板はわたしの為だけにある掲示板じゃないから、そういう思いを持つ人がいても当然だと思うよ。でもね、誰もが自由に書き込める場所なんだから、わたしのことが嫌で嫌で仕方がないと思う人がいても、ただその人がわたしを無視すればいいことなんだよ。わたしに悪意を持ったレスをわたしが無視してるようにさ。わざわざ敵意を剥き出しにして争うようなことはしちゃダメなんだよ。だって、社会ってそういうものでしょ?

だからそういう不愉快な思いをするようなレスがあっても、わたしは掲示板から出て行こうと思ったことはないんだよね。わたしがいて、わたしにレスしてくれる人たちがいて、大きな楽しみがその場にあるんだから。人が楽しんでいるのをやっかんで罵ったり荒らしたりする人は、人生損してる、って思うよ。そういうことする時間があるならさ、自分なりの楽しみを見付ければいいのにね。

……でもね。それって、本当はただの建前に過ぎなかったりする。感情っていうのは、そういう真っ直ぐな理論を乗り越えて溢れてしまうことがあるんだよね。

実はわたしも、嫌で嫌で仕方がない人がいたんだ。同じ掲示板に。

わたしが掲示板の“四大アイドル”の一人になってるって言ったと思うんだけど、わたしが憎たらしいほど嫌いだった相手はそのうちの一人。仮の名前をAと呼ぶことにするけど、本当にAは憎たらしかったんだよ。大っ嫌いだった。

まずね、レスしてくれなかったんだ。わたしにだけ。何故だか分からないけど、わたしだけ無視する。何かの間違いだと思ってレスをし直しても、まるでわたしのレスだけなかったかのように、Aはわたしにだけレスを返さないの。

わたしがAに何か失礼なことしたのかな、と思っても、思い当たることも何もなかった。だいたいAとわたしとは“四大アイドル”と一括りにされることはあっても、レスをしあったり直接メールしたりすることもなかったし、接点がほとんどなかった。だからわたしは無視されるわけが全然解らなくて、悲しく思えたほどだもん。

あと、わたしのことをぼそりと馬鹿にすることがあったんだよ。例えばね、わたしが洋楽のことについて他の人とレスしてると、Aは誰にレスすることもなく独り言のように『西洋かぶれって頭が弱いんだよね。頭が弱いから西洋かぶれになるんだよね』って書き込んで。直接レスされたわけじゃないんだけど、だからこそ何か妙に腹が立ったんだ。言いたいことがあるなら直接言えばいいじゃん、って。

まだある。“四大アイドル”のうちのもう一人のBさんとは、わたしはよくメールをしたりするんだけど、ある時変なメールがBさんから来た。『私のどこがムカつくの?』って。わたしがBさんにムカつくことなんて一つもなかったからおかしいなと思ってよく確認したら、掲示板の人から、わたしがAにBさんの悪口を言っていたとかいう趣旨のメールが来たんだって。わたしはBさんの悪口を言ったことなんて一度もなかったから戸惑ったんだけど、Bさんは信頼できる人だと思ったから、わたしはAと険悪だから他人の悪口を言えるような仲じゃない、ってBさんに説明したんだ。そしたらBさんも分かってくれた様子で、何かの間違いだったんだね、ってことになったんだ。たぶんこれは、Aの仕業だと思った。間違いないよ。

まだある。わたしがある人とレスしてた時、Aが突然その人に横レスしたと思ったら、いつの間にか向こうに話題を持って行かれたり。その時のAの連レスは怒濤の勢いだったんだから。多人数でやってるの?って思えるくらい。どうしてそこまでしてAがわたしから人を遠ざけたいのか、わたしには解らなかった。

まだある。あるんだけど、これ以上挙げたらキリがないなあ。キリがないほど、本当にAはわたしに嫌なことをたくさん、たくさんしたんだよ。

あのね、一言で言えば、陰湿なんだよ。Aってさ。無視したり、直接ものを言わなかったり、裏であることないこと言ったり、陰口叩いたり。

だからわたしはもういい加減うんざりして、Aがある日突然死んでしまえばいい、とさえも思った。でもそう思っている自分に気付いて、わたしはハッとした。いけない、そんなこと思っちゃ、わたしもAと同類だ、って。

「正面から堂々と、撃ち墜としてやらなければならない」

そう、わたしはAとは違うんだから。陰湿なAとは、全然違うんだから。

だからわたしは、Aをおびき寄せたの。わたしが掲示板のみんなの気を引くのと同じように、Aを引き寄せることなんて、やろうと思えば簡単なことだったんだよ。体で“四大アイドル”の呼び名を手に入れたAには、決して真似できないこと。

わたしはAへの敵意を捨てたかのようにひたすら隠して、Aを称賛し続けたんだ。憎たらしいAに恭順する、っていう屈辱を我慢しながらね。わたしの変わりように驚いたのかは分からないけど、Aはだんだんとわたしに柔らかい態度を見せるようになった。

同じ“四大アイドル”に括られていたことも手伝って、見せ掛けのわたしとAの仲はどんどん深まっていったんだ。Aとメールを頻繁に交わすほどの仲になったら、もうこっちのものだと思った。後は、二人で会っていろいろな話がしたいな、とAを何度も誘い出すだけ。

夜の駅で待ち合わせして、ネットで見たとおりのAの顔が現れた。わたしの顔を見た時にAは「会いたかった」とか言ってわたしを抱き締めたから、わたしも「会いたかった」と返してAを抱き締めたんだ。これは嘘じゃないよ。本当に、会いたかったんだから。

現実で実際に会ったAは、ネット上と変わらず憎たらしい女だったなあ。どこが憎たらしいって言うんじゃなくて、もうAの存在そのものが憎たらしいからそう思ったんだろうね。わたしもネット上と変わらず、Aに対する本心を一切見せなかったけどさ。

それで何回か顔を合わせて会っていくうちに、Aはすっかりわたしを信じるようになっていったんだ。わたしが温かい笑顔の裏に、冷たく鋭い悪意を持ち続けているとも知らずにね。

Aの憎たらしい笑顔が恐怖に怯えてくしゃくしゃになって、わたしは本当の笑顔を初めてAに見せたんだ。だって面白かったんだもん。Aの必死に助けを請う顔が。その顔を見て、わたしは笑わずにはいられなかったよ。

Aはわたしの足元にすがって、震えて泣きながら言ってたなあ。「どうして、どうしてこんなことするの」って。さあ?自分の胸に訊いてみな、ってわたしは思ったけど、ヒントをあげるほどわたしは優しくないからね。わたしは何も答えずに、見たこともないほど醜いAの顔を笑ってあげたよ。

そして、正々堂々とわたしはAを撃ち墜としたんだ。

Aのこと、かわいそうだ、って思う?全然かわいそうなんかじゃないよ。Aが悪いんだよ。全部、Aが悪いの。自業自得。


『Aが板に突然来なくなったんだけど、どうしてだと思う?』

『さあ?そうだ、Aと親しくしてたお前なら知ってんじゃないの?』

「Aちゃんはお星様になって夜空で輝いているんだよ」

『wwwwww』

『なんだ、じゃ“三大アイドル”になっちゃったのか』


Aのいなくなった掲示板で、わたしは今日もみんなの“アイドル”で居続ける。

 

暗い夜道の出来事

  • 2008年9月10日 02:45

「音がね、聞こえないの……」

月が厚い雲に隠された蒸し暑い晩夏の夜のことでした。コンビニでお菓子を買った帰りに、暗くひっそりとした林の横の道を歩いていると、向こうから歩いてきた人が私の行く手を阻むようにして前に立ちはだかりました。そして小さいながらもよく通る声で、囁くようにそう言ったのです。若い女性の声でしたが、私にはその声を今までに聞いた憶えはありませんでした。

知らない女性に、突然前を立ち塞がられて話し掛けられた――たったそれだけでも私が驚いたのは言うまでもありませんが、私は暗い中にうっすらと見える彼女の姿を見て、その驚きを重ねました。彼女は、何一つとして身に付けていなかったのです。暗闇でも分かるほどの白い肌を露わにして、夜道を歩いていたのです。

いくらじめじめとした暑さが残る夜だからといって、一糸まとわぬ姿で外を出歩くことは、少なくとも私の中の常識では考えられません。それが若い女性なら、尚更のことです。

今まで私が生きてきた中で、道の横から現れた変質者の男性にその汚いものを見せつけられたことはありましたが、女性が変質者となって現れたということは一度もありませんでした。ですから私はその女性が目の前に現れたということに、大変に驚いたのです。

「音が、聞こえない……。聞こえないの」

彼女はそう呟きながら、驚きのあまり立ちすくんでいる私の顔を、まるで細かく観察するかのようにして、左から右から上から下からと覗き込んできました。それは奇妙な踊りのようでもありました。

これは普通ではありません。この女は、気の触れてしまった変質者に違いない、そしてただの変質者じゃない、何をされるか分かったものじゃない。私は全身に恐怖がじわじわと広がっていくのを感じて、走ってその場から逃げ出そうとしました。

ですが、私の身体は言うことを全く聞かなかったのです。何故かは分かりません。金縛りに遭ったときのように、身体中が固まってしまったのです。

誰かに助けを求めようと声を出そうにも、口が開きません。喉も動きません。彼女から顔を背けることもできません。目すら閉じることもできなかったのです。

私にはただ、視界いっぱいにまで大きく映った彼女の白い顔がゆらゆらと揺れているのを、冷たい恐怖に縛られて心臓をばくばくとさせながら黙ってじっと見ていることしか許されませんでした。

「ねえ……、音が聞こえない……。聞こえない……」

彼女の声と顔には、だんだんと鬼気迫る様子が見て取れました。どこか何かに追われて余裕を失っているような気がしたのです。

それを裏付けるように、初めはのろのろとしていた彼女の動きが忙しくなり、息遣いも聞こえるほど荒くなるなど、明らかに確かな焦りに囚われているのが感じられました。

彼女の様子がその異常さを増していることに気付いて、私は次第に命の危機を覚えました。正常な心を失った人間は、行動様式が読めないものです。目の前の彼女は何をするかも予期できません。予期できないものは、同時に危険でもあります。つまり彼女の存在は、危険そのものだったのです。

ですから、突然彼女が私に襲い掛かるとしても全く不思議ではありませんでした。またそうではなく、彼女が自分自身を傷付けるような行為に出ることも有り得るでしょう。

いずれにしても彼女が何をするか分からない状態で、私の心は安堵することなどなかったのです。“運を天に任す”とはよく言いますが、この時ほどその言葉を強く実感したことはありませんでした。

「聞こえない……、聞こえない、聞こえない……」

暗い小道に私と彼女は二人きり、他に誰も通り掛かる気配はありません。周りは林に囲まれており住宅もありませんでしたから、襲われている私に誰かが気が付いてくれることも期待できませんでした。

私は身体が動かせないまま、彼女の踊りを見せつけられていました。あるいは、その踊りは“呪い”だったのかも知れません。彼女が得体の知れない怨みを踊りに乗せて、私を呪ったのです。そうであれば、私が身体を動かせないことも説明が付きます。

しかしその踊りによって私は呪われたのかどうかなど、その時の私にはどうでもいいことでした。

私は動けない。そして目の前の狂った女に、私は捕らえられている。その状況から逃れられなければ、私は助かることができない。動けない私は、このまま彼女に殺されてしまうまで自由にはなれないのかも知れない。

もはや、絶望的でした。彼女は焦りこそ見せていましたが、一向に私から離れる様子もなく、小声で呟きながら、執拗に私の顔を舐め回すように見つめ続けていました。それはいつまでも続くかのように思えました。

しかし突然、彼女は顔をぴたりと止まらせ、辺りに響くほどの大きな叫び声を上げたのです。

「ああ!雑音が……、雑音が、私から音を……。雑音が、雑音が……!」

すると彼女は、視界の中から崩れるように消えていきました。同時に、動かせなかった私の身体が自由を取り戻したのです。

私は動かせることを確かめるように手の平を閉じたり開いたりしたあと、彼女を見ました。彼女は地面へうつ伏せに倒れて、耳を塞ぎながら言葉にもならない呻き声を上げていました。

そんな彼女の様子に、何故か私は哀れみを抱いたのです。普通ならそんな感情は、今まで自分を恐怖に陥れていた相手に対して抱くことはないはずです。しかし私は呻きながら苦しがる彼女を見て、不可解にも同情の念を覚えていました。

ああ、倒れている彼女が可哀想、手を差し伸べてあげなきゃ。そう思ったときでした。どこからか「にゃあ」と猫の鳴き声のような音が聞こえ、同時に稲妻のように鋭い、閃きにも似た感覚が頭の中を走ったのです。

彼女を助けてはいけない。逃げるには、今しかない。

私ははっと気付いて、正気を取り戻しました。明らかに、私は何かに惑わされていたのです。惑わされて、私を捕らえていた彼女を助けよう、などと考えてしまったのです。

私はコンビニで買ったお菓子の入った袋を持つと、急いで走り出しました。彼女が後ろで何かを言っている声が聞こえましたが、私はそれに構うことはありませんでした。

悪夢のような出来事から解放されて、私は空を見上げました。空を覆っていた黒い雲はいつの間にか晴れて消え、大きな白い満月が明るく輝いていました。

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