茨城症候群

 

ギョーザ

  • 2008年12月 6日 03:03

「カレーライス下さい、ふたつ」

二人連れの茶髪の若い男子、紺色のブレザーの制服を着ているから高校生なのだろうが、彼らは店へ入ってくると、カウンタへ並んで座り、若い笑顔をにこにこと浮かべながら私へそう言った。

私は一度訪れたことのある客の顔なら老若男女問わず覚えているはずだったが、その子たちの顔は全く記憶にはない新しい顔だった。おおかた近くの高校の学生が帰り道、この夕方にお腹が空いて、ちょうど店の前を通り掛かったから入ってきたのだろう。

店の人間からすれば、そういった客は大歓迎だ。初めての客がうちの味に満足してくれれば、何度も食べに来てくれる常連となって、どんどん客が増える。評判が評判を呼べば、さらに客が増える。

初めて来る客が多ければ多いほど、常連となる候補も多くなる。それはつまり、店の将来を左右する要素となりうるということだ。

だから、初めての客というものは大切な大切な商機なのだ。決してぞんざいに扱うことはできない。かと言って、常連はぞんざいに扱っていいという訳でもないが。

常連客よりもほんの少しだけ気を遣うくらいの心構えを持っていれば、間違いなくこの店を気に入ってくれる。私はいつもそう思い、この店を営んできた。そうしてこの店は今の繁盛を迎えている。だから、客の期待には精一杯の気持ちを以て応えなければならない。

ただ、残念ながら今は彼らの注文には応えられそうになかった。

「ははは。申し訳ないけど、カレーライスはありませんよ。うちは、ラーメン屋だからね」

私が笑いながらそう答えると、彼らは残念な様子も見せず、表情一つ変えずに笑顔のまますぐに別の注文をした。

「それじゃ、たぬきうどんお願いします。あったかいの」

彼らは、店の看板を見ていないどころか、私の直前の言葉を聞いてもいなかったらしい。まあ近頃の子供ならそれも仕方がないのだろう、と私は思い、少し語調を強めながらもやんわりと諭すように言った。

「うどんもないよ。うちはね、ラーメン屋。塩ラーメン、野菜ラーメン、チャーシューメン。そういうのしかないんだよ」

どうだ。今度はメニューの中の注文候補まで挙げて言ってやったんだ。これで次に焼きそばなんて言ってきたら、流石の私でも怒って彼らをつまみ出してしまうかも知れない。

まあ実際には、客を無理矢理つまみ出す、なんてことはしないだろう。店には他にも多くの客がいる手前、感情を表に出して怒るだなんてできやしない。ましてや子供に対してそんな行動に出れば、大人げないを文字通りに体現してしまうことになる。

この店の主人は大人げないだなんて噂がひとたび立てば、店を畳むまで噂は残り続けるに違いない。いや店を畳んだとしても、噂は消えやしないだろう。千年後に現代の人間の日記が見付かって、あの大人げない店は大人げない主人が大人げないラーメンを作っていた、という記述があったとしたら、私は後世まで大人げない人間だったとして記憶されるのだ。それは困る。

そもそもいくら近頃の子供とはいえ、うちがラーメン屋であってカレーもうどんもないということを二度言われても理解しないなんてことは、そう簡単には考えられない。いや考えたくなかった。二度言われりゃ馬鹿でも分かる。私は、それが当然のことであって欲しいと意識せずとも期待していた。

ところがそんな私の期待を無下にするように、相も変わらず無垢な笑顔の彼らは言った。

「じゃあ、カツ丼でいいです」

それは私にとって、とても残酷な一言だった。彼らには、私の言葉は全く通じていなかったのだ。私が常識だと思っていたものが、彼らにとっては常識でも何でもない。彼らは、宇宙人だ。高校生の皮をかぶった宇宙人に違いない。

そうでなければ、たちの悪い悪戯か。悪戯だとすれば、提供していないメニューを注文し続けるのは立派な営業妨害だ。警察に届け出れば受理されるだろうし、彼らを怒鳴り付けたとしても流れを聞いているであろう周りの客もきっと理解してくれるだろう。

ただ、それは私の中の信念が許さなかった。もちろん警察に通報したり力でつまみ出したりすれば、その場の混乱は済むことだろう。しかし本当にそれでいいのか、私には疑問に思えたのだ。

異質なもの、場にそぐわないものを排除する。それで確かに平穏は戻るかも知れないが、本来あったはずの平穏とは明らかに違う気がしてならなかった。排除というプロセスを経て得る平穏、それは偽りの平穏だ。そんな平穏には、少なくとも私にとっては、少しの価値もない。

本当の平穏とは、異質なものすら自らの内に取り込んでしまうものなのだ。明らかに共存できないと思われたものとも共存を可能にしてしまう。そんな大きさを備えたものこそが、本当の平穏だ。

私はそう思っていたから、宇宙人であれ悪戯であれ、彼らをこの店から追い出すという選択肢は選ばなかった。選べなかった、と言ってもいい。

「……あいにく、カツ丼もないんだよ。ただのラーメン屋なんだからさあ」

私はそう言ってから、自分の語調が荒くなっていることに気が付いた。おそらく表情も難しいものになっていたのであろう。平穏平穏とは思いながらも、本心に滲み出ている苛立ちはどうも抑え切れないものらしい。

カウンタ越しの高校生たちを見た。依然として、軽い笑顔をこちらへ向けていた。私はようやく、それがみずみずしい若さの溢れる純粋な明るさではなく、単に俗に言うヘラヘラした態度だということに気付いた。

「それじゃ、オムライスあります?」

彼らはまだからかいを止めないつもりらしい。こんな彼らを受け入れる方法は、私には思い付かなかった。ただ私は、この店内の平穏に保たれている空気をできるだけ乱さぬように、彼らの明らかにふざけた問い掛けに対して淡々と答えていくことだけしかできなかった。

「……それもないねえ」

「えーと、じゃあ、お好み焼きは?」

「それもありません」

周りの客の耳には、間違いなく私と彼らのやりとりが入っていたのだろうが、誰一人として関わろうとする客はいなかった。もちろん、店主である私が客に助け船を期待するのも変な話なのだが、客のうち誰かが立ち上がって私の代わりにこの悪戯学生たちを叱っては貰えないかと期待してしまうほど、実際私は困っていた。

私は、まるで客が人物画として描かれた絵を背景に、この学生たちと対峙する内容の演劇舞台に立たせられている気がしてならなかった。

学生たちは、私が困った表情を浮かべていることに気付いてますます調子付いたのか、さらに続けた。

「もんじゃはありますかあ?」

「そんなものもないよ」

「じゃあさ、焼き肉。焼き肉でいいですよ」

「ありません」

「俺、鮎の塩焼きでお願いします」

「ないよ」

「うな重一丁!」

「だからないんだよ」

もうだめだ。私はもう限界だ。いくら子供の悪戯とはいえ、これは度を超えている。大人も子供も関係ない。本物の営業妨害だ。堪えきれない。

気付くと、私の全身は細かく震えていた。硬く握られた拳は、今にも勝手にカウンタへと勢いよく叩き落ちそうだった。しかしそうなれば、今まで保たれていた平穏が一瞬で破られてしまう。この私自身の手によって、私自身の信念が崩れてしまう。

腹からぐいぐいと昇りつつある怒りを必死に抑えたが、しかし、私の口はもう抑えきれなかった。

「あんたたち!いい加減に……」

「ギョーザお願いしまーす」

私の怒声にかぶさって遮るように、彼らのうち一人が大声でそう言った。怒声は聞こえていたはずだったが、それは何の効果もなかったようだった。

どうやら彼らは、私に怒られようが怒られまいが、彼らが飽きるまでからかいを続けるつもりらしい。しかし、これ以上彼らの遊び道具となって遊ばれるのは勘弁だ。店の平穏や信念なんてもう関係ない。私はとうとう、彼らを店からつまみ出すより他になくなった。

ヘラヘラと笑っている彼らを鋭く睨みながら、私は割烹着を脱いで、カウンタを挟んだ彼らの側へ向かった。

彼らは私の顔を見て臆することも当然のようになく、むしろ面白がるように、さらにそのヘラヘラ具合を高めていた。

「何すか?ギョーザ、早くお願いしますよお。中国産じゃないやつで」

「それともギョーザもないんですか?じゃ俺、クリームシチューでいいですよハハハ」

ギョーザがないならシチューがあるわけがない。どこまでもこいつらはふざけている。一体どんな教育を受けてきたと言うんだ。もう、我慢ならない。

私は彼らをつまみ出そうと腕をつかもうとした。その時、周りの客の視線が一斉にこちらへ集まっていることに気が付いた。

もう何十度と来ている客も、昨日新しく来て今日も来てくれた客も、みんな私を見ている。その前で、子供の悪戯に怒って手を出すなんて、だめだ。やっぱり、いけない。

そんな考えが頭をよぎり、私は溜め息を吐いて手を引っ込めた。どうやら私にとっては、店の潤滑な営業や自分の信念よりも、客の目、世間の目の方が大事なものだったらしい。

結局私は、このふざけた高校生たちにも自分自身の信念にも勝てなかったのだ。そう思うと、全身から一気に力が抜けていった。そのままふらふらと私は調理場へ戻ろうとした。

そこへ、店の隅の方からぼそぼそとしたつぶやきが聞こえた。

「ギョーザ、あるじゃん」

ギョーザ?……ギョーザだ。ギョーザだ!

多くのラーメン屋が出しているように、この店でもギョーザは単品で出している。高校生たちの悪質かつ執拗な悪戯に冷静さを失ったあまり、私はそんな単純なこと、自分の店で出している品目すら忘れてしまっていたのだ。

私はにわかに気力を取り戻し、調理場へ戻って割烹着を着直した。そしてカウンタ越しにヘラヘラしている高校生たちへ、普段の客へ向けるのと同じ笑顔を向けながら、静かに訊ねた。

「……ギョーザでいいんだね?」

すると、彼らの憎たらしい笑顔がそのまま凍り付くのが見えた。そして氷が溶けていくようにだんだんと笑顔も溶けていき、何が起きたのか理解できないといった顔をしながら、互いに顔を見合わせていた。

どうやら彼らは、ラーメン屋がギョーザを扱っていることを知らなかったらしい。怒りの中で自分の店の品目を忘れていた私が言うのもおかしな話だが、彼らはこの悪戯をするには子供過ぎたのだろう。

それから高校生たちは、神妙な、あるいは何かを失ったかのような暗い面持ちになって、もうヘラヘラとした様子を見せることはなかった。結局そのままの顔でギョーザを食べ、会計を終えて、店を出て行った。

「……ごちそうさまでした」

「……ギョーザ、美味しかったです」

彼らが帰り際にそう言ったのを、たぶん、私は一生忘れない。

 

師走

  • 2008年12月 3日 03:05

今日昼寝をしていると、こたつの中から変な声が聞こえてきたんです。

「ねえ、ねえ。ねえ」

私は最初、飼っている猫のカンスケがまたこたつの中へ潜り込んでいるうちに息が苦しくなって、ただこたつから出ればいいものを分からずに助けを求めてにゃあにゃあと鳴いているのかと思いましたが、カンスケは日差しの良い窓際でスースーと寝息を立てて寝ていました。カンスケが寝言を言っているのかとも思いましたが、普段は寝言で鳴いたりもしませんし、それに声はこたつの中から聞こえてくるんです。

間違いなく、声の主はこたつの中にいる。私はそう確信して、こたつから体を出し、恐る恐る布団をめくってこたつの中を覗きました。

「ねえ、12月になっちゃったよ。12月になっちゃったよ」

そんな言葉を聞きながら私が見たものは、先がとんがった帽子をかぶり、ピーターパンと同じような服を着た、人間をそのまま手のひら大に小さくした人形のようなものでした。オレンジ色に染まるこたつの中のど真ん中、ちょうどランプの間下の場所に、その人形のようなものが全身を大きく跳ねさせながら、そして大きく笑いながら、朗らかな声を出していたんです。

「12月だよ、12月。もうすぐ、1年が終わっちゃうよお」

まだそれは何かを言っていましたが、私はめくっていた布団をすっと降ろして、考えました。

私はたぶん、寝ぼけているんだろう。寝ぼけているから、あんな変なものを見てしまった。そうに違いない。そうに違いない。

そうして私はまた横になることにしたんですが、声はまだしつこくも聞こえてきました。

「ねえ、ねえ。ねえったら」

私は、寝ぼけの産物のこの声もどうせすぐに聞こえなくなるだろう、と思っていましたが、それはどうやら見当違いだったようで、一分経っても、五分経っても、十分経ってもまだ「ねえ、ねえ」と聞こえてきたんです。

いくら寝ぼけの中に見た幻であっても、こうしつこいと私も苛立ってきます。どうにかしなければ、こののんびりとした優しい午後が台無しになってしまうんですから。

「ねえ、ねえ。ねえ」

私はこたつの布団を再びめくり、忌まわしい声の主の姿を確認すると、睨み付けました。

「ほら、12月になっちゃったよ。12月。もういくつ寝るとお正月だよ」

先程と同じように、それは跳ねて笑いながら言っていました。まるで私の睨みなど全く気にしてもいないようだったので、言葉で言って聞かせるしかないと思い、私は怒鳴りました。

「うるさいから、黙ってて!」

「だって、12月だもん。もう12月になっちゃったんだ。2008年もお仕舞いなんだよ」

「そんなの知ってるから、いちいち言わなくてもいいよ、このバカ」

「やだなあ、僕はバカじゃないよお。妖精だよ。12月妖精だよ。よろしくね」

怒鳴って懲らしめるつもりが、逆に恭しくも自己紹介などされてしまったから、私は戸惑って、そして心のいらいらがさらに大きくなりました。

人間というものは、その苛立ちが頂点に達すると突発的に何をするか分からないと言いますが、私もその例外ではなかったんでしょう。

私は12月12月となおもうるさく言い続けるその自称12月妖精を手でつかみ、こたつの外へと取り出しました。

「あはは、寒い寒い。こたつの中に戻して欲しいなあ。でもね、こんなことしてる時にも、ほら、12月はどんどん過ぎていくんだよねえ」

私の手の中に握られながら12月妖精はそう言いました。

けれど私には、なぜこの妖精が12月をことさら強調して言うのかは分かりませんでした。12月妖精と自称するだけあってその必要があったのかも知れませんが、それならなぜ他の月に関する妖精、例えば11月妖精や10月妖精は私のもとへ現れなかったんでしょうか。そもそもなぜ、この自称妖精が私のもとへと現れたのかも分からないんですから。

「急がないと、12月が終わっちゃうよ。ほら、急いで、急いで」

私には、その12月妖精の笑顔がとても憎たらしく思えてきました。それは、まるでその笑顔が私の一年間を嘲笑っているかのような気がしてならなかったからです。

確かに私はこの一年、学びもしなければ稼ぎもせず、ただだらだらと過ごしてきたことには違いありません。こんな生活が続くようでは仕方がない、それは自分でも分かっているんです。分かっていながら、私は一年間それを続けてきた。そのことを、この12月妖精は馬鹿にしながら笑っている。そう思えてしまったんです。

ですから私は、笑顔を絶やさないでいる12月妖精にだんだんと憎しみを募らせて、ついにはゴミ箱に勢いよく投げ捨ててしまいました。

ゴミ箱の中へ叩き付けられた12月妖精は、まだ笑いながら明るい声でこう言い続けていました。

「うひゃあ!危険なことをするもんだねえ。でも、12月は止まらないんだ。急がないと、急がないと……」

その声は心を取り乱した私にとっては、もう聞くのも苦痛な音でしかなかったんです。一刻も早くその音を取り除かなければならない。そう思った私は、咄嗟にそばにあったタウンページを手に取ると、それを丸めてゴミ箱の中に何度も突きました。何度も、何度も、何度も。

やがて、ゴミ箱の中からはあの声は聞こえなくなっていました。

猫のカンスケが騒がしい様子に目を覚ましたのか、にゃあと一声鳴きました。静かな部屋に響いたその鳴き声を聞いて私は我に返り、自分のしてしまったことに初めて気が付きました。

いくら私の心を非常に苛立たせる存在であっても、何もこんなことをせずともよかったんだ。もっと穏やかに、その存在と向かうことができたはずなのに。私は、どうしようもない。本当に、どうしようもなくて情けない人間。

私は途端に悲しく惨めな気持ちになって、手に持っていたタウンページを床に落とすと、くずおれて泣きました。カンスケも普段と違う私を彼なりに気遣ったのか、私のそばへ来てその体をすり寄せてきました。

けれど私は、しばらくして気付いたんです。自分の嗚咽に紛れて、こたつの中から何か声が聞こえることに。

「ねえ、ねえ。ねえ」

12月は、まだ始まったばかりでした。

 

美少女クローラ

  • 2008年11月23日 19:42

「……もう嫌!こんな、ネットを巡回するだけの下らない毎日なんて、うんざり。いい加減、飽き飽きしたわ!」


私はそう独り言をつぶやくと、おじ様から巡回するように言われているURLの一覧を読む手を一旦止めて、窓の外へと目を遣りました。夏ごろには全面が緑に覆われ、少し前までは色とりどりの綺麗な紅葉を見せていた裏山のブナの木も、そのほとんどが葉を落として今はもうすっかり寂しく見えました。

そしてきっとまた、私に冬が訪れるのでしょう。冬。震えるほどに外は寒くて、だけど少し温かい出来事もあって、それが私にとってはとても残酷で心を痛ませる、冬。


「クリスマスなんて、来なければいいのに」


実は、私は一度も外へ出たことがありません。物心付いた頃にはもう、今と全く同じような生活――、おじ様から命じられて一日中ネットを巡回する、そんな毎日しか送ってこなかったのです。

しかし、ネットを通じて外の様子を知ることは出来ます。新聞社のサイトやニュースサイトを巡回すれば社会でどんなことが話題となっているか分かりますし、掲示板を巡回すれば多種多様な意見を知ることも出来ます。個人サイトを見に行けば、多くの人たちが興味を持っていることも分かるようになりますし、様々な知識にも触れることが出来るのです。

きっと私は、人一倍博識になっているのかも知れません。何せ私は、文字通り一日中、いえ、一年中ネットを巡回しているのですから。


けれどそれも、所詮頭の中だけの知識でしかありません。“頭ではなく身を以て経験したことがないのなら、それは無知であるに等しいことだ”。偉い人のウェブサイトを巡回したときにそう書かれていたのを見たので、きっとそうなのでしょう。

だから私も、外へ出てみたいのです。外へ出て、色々な場所へ出掛けて、色々な人と出会って、色々な経験をして……。とにかく、普通の女の子が毎日を送るように私も生きてみたい。そう思っているのです。


私が特に強くそう思うのは、同世代の女の子たちのブログを巡回するときです。

『今日、〜〜があって〜〜した。すっごく楽しかったデスvv』

たったそれだけの文章であっても、私にとっては、そう、深くて真っ暗な憎しみさえ覚えてしまうほど、羨ましいものなのです。

彼女たちと私は全く同じ時間の中で生きているはずなのに、一方は“すっごく楽しい”と言うほどの経験をしている、また一方は一日中単調な作業を何の感情も持たずに続けている。

こんなの、理不尽だとは思いませんか?私も、彼女たちと何ら変わりのない女の子なのです。奴隷でもなく、召使いでもない。私にだって、彼女たちと同じような普通の生活と楽しみを受ける権利はあるに違いないのです。


それなのに、おじ様は私をこんな狭い部屋へ閉じ込めて、逃げられないようにご丁寧にも部屋の外から鍵まで掛けているのです。一日に一定のノルマを果たさなければご飯も食べさせて貰えませんから、逃げ出すことを考えるよりもまず目の前の仕事をこなしていかなければなりません。

おじ様は私を閉じ込めこそすれ、これまで私に暴力を振るったりすることもなく、言うことに従っている限り優しく振る舞ってくれています。けれどその温厚な顔の裏には、きっとおどろおどろしいほどの醜い顔が隠れているのではないかと思うのです。

もしも私がおじ様に逆らって、その顔が本性として現れたとしたら……。私は、怒るおじ様を想像すら出来ませんでしたから、恐怖というよりもどんよりとした底の見えない不安を覚えました。

おじ様を怒らせたとしても、体格も力も劣っている私が敵わないことは明らかです。逃げ出そうとして失敗すれば、当然おじ様を怒らせてしまうでしょうし、確実に逃げ出せる手段なんて思い付きません。

万が一逃げ出せたとしても、私は生の世間というものを全く知りません。ですから、どうやって生きていけばいいのかすら分かりませんし、生きていける自信もないのです。

結局、私はこのままずっとネットを巡回する毎日を過ごしていくしかない。けれども、外の世界が恋しい、外へ出たい。そう思うと、心が締め付けられるようなもどかしさすら感じました。


色々と思いを巡らせるうちに、私は複雑に絡み合った気持ちが心の底から噴き出して抑えられなくなっていることに気が付きました。そして私の手は、行き場のない感情に乗っ取られて、勝手にマウスを放り投げていたのです。

「あっ」

いけない、と思った時にはもう遅く、勢いよく投げられたマウスは大きな音を立ててドアへ当たると、いくつかに割れて床へ落ちました。

私は慌てて椅子から立ち上がってマウスの状態を確かめに行きましたが、散らかった部品を一つ一つ詳しく見る必要もなく、マウスはもう二度と使うことは出来ないということは明らかでした。

「おじ様に怒られちゃう……」

マウスが無くてもネット巡回の作業は出来ますが、効率は非常に落ちてしまいます。ですから、新しいマウスをおじ様に頼まなければなりません。

ああ、どうしよう、どうしよう。どう言い訳すれば、怒られずに済むのかしら。落としたマウスを拾おうとして思い切り踏んでしまった、大きな辞書をマウスの上に落としてしまった、ディスプレイが突然傾いてマウスの上に倒れた……。そんな言い訳、信じてもらえるかしら。

もっと通用しそうな言い訳を探さないといけない。私はそう思い、良い考えが浮かぶようにまず落ち着きを取り戻そうとしました。

けれども、その必要はありませんでした。

「おやおや、何事ですか」

ドアの向こうから、おじ様の声が聞こえてきたのです。私が応える間もなくドアは開き、おじ様が部屋へ入ってきました。

おじ様はいつものように微笑みながら、私とばらばらになったマウスとを交互に見ていました。そんなおじ様を、私は不安に思いながら見上げました。

「あの、おじ様、違うんです。これは、あの、ちょっとマウスの調子がおかしかったので振ってみたら、あの、つい手から滑って飛んでいってしまって……」

「それは面白い、ハハハ」

そう言うとおじ様は、珍しく外にも聞こえるほどの大きな声を出しながらしばらく笑い続けていました。

私は自分のとっさの言い訳が特別面白いものには思えませんでしたが、おじ様には笑いのつぼにはまるほど可笑しい話だったのでしょう。おじ様の笑いに付き合うように、私は小さく声を出しながら愛想笑いを浮かべました。

ところが、おじ様の表情はそれからすぐに一変したのです。満面の笑みはふっと消えて、怒りも悲しみも何の表情も読み取れない、まるで作られた仮面のような顔になりました。

そしておじ様は静かに言いました。

「下手な嘘をついちゃいけません。“下らない”だの“うんざりした”だの言って、仕事もマウスも放り投げたんでしょう?ちゃんと、分かっているんですよ」

おじ様のその言葉を聞いて、私は身がすくむ思いをしました。何故なら、私が誰に聞かれるとも思わずにつぶやいた独り言を、おじ様がまるでその場で聞いていたかのように繰り返したからです。私は、一気に心臓の鼓動が早くなっていくのを感じました。

何も言葉を返せずにいる私に、おじ様はなおも静かに続けて言いました。

「あなたはただ、課せられた仕事を大人しく片付けていればいいんです。明日も、あさっても、その次の日も、ずっと、ずっと。その代わり、あなたには毎日の生活が保障されている。私が、保障しているんですよ。私が保障しているから、あなたは衣食住に心配することなく生きていけるんです。日々満足に食べられない人もいるこの世界で、あなたはこれ以上何を求めると言うんです?求めるとすれば、それはただの下らないわがままでしょう?」

“下らないわがまま”。確かに、そうなのかも知れません。

私はおじ様に生活の全てを依存しているのです。おじ様のおかげで、私はこれまで生きてこられたに等しいのです。それは、ネットを巡回するだけという私の仕事に対して、十分すぎるほどの対価に違いありませんでした。

それにも関わらず、それ以上の対価を望んでいる私は、おじ様の言うように“ただの下らないわがまま”に囚われた“下らない”人間なのかも知れません。

そう思うと、私はおじ様の言うことに何も反論出来ませんでした。

しばらく沈黙が続いてから、おじ様がいつものような微笑みを顔に浮かべてから、いつものような優しい声で言いました。

「さ、下らないことを考えるのはもうお止しなさい。今日の分の作業を終わらせたら、美味しいシチューが待っていますからね」

そしておじ様はひときわ大きな笑顔を私へ向けると、新しいマウスをそっと私の手の中へ包ませると、静かに部屋を出て行きました。

ぱたんとドアが閉まった時、密やかに抱いていた小さな期待が粉々に砕かれたことを私は知ったのです。


命が尽き果てるまで、私はおじ様以外の誰とも関わることもなく、いつまでもネットを巡回し続ける。それがきっと、私の生まれてきた理由。

だから、お願い。もしも、あなたのところへ私が来ていることに気付いたら、そっと、心の中でつぶやいて。「今日も、お疲れ様」って。

 

*

  • 2008年11月17日 01:24

私がちょうどカンファレンス・ルームの前を通り掛かると、扉の向こうから言い争いにも近いような声が聞こえてきました。私は何事かと思い、廊下を誰も通り掛からないのを確認してから、扉の前に立って中の言い合いを聞くことにしました。

「……その、君の目指すものが分からないね。俺には、分からない」

「分からないだなんて、先生が仰る言葉じゃありません。実を言うと、先生。僕が何を目指しているのか、僕自身にも分からないんです。ですから、僕は今こうしてここに、先生に相談しに来てるんです。僕が何を目指しているのかを相談しに」

会話の内容と声の様子から推し量ると、部屋の中には上下関係にある男性が二人おり、立場が下の人が“先生”の側の人に人生相談でもしに来ているようでした。

「あのねえ、君。困るよ。俺に相談された所でどうしようもないんだから。何処へ行くのかが分からないのに交番へ駆け込む人間がいたとして、いくら優秀なお巡りさんでも何の助けにもならないだろう?それと全く同じなんだよ、君のやっていることは」

「それは違いますね。ここは交番でもなければ、先生はお巡りさんでもありません。だいたい、行き先が分からない人間は初めから交番へなんて駆け込みませんよ。僕は、行き先なら分かってるんです。それははっきりとしています。ただ、そこへの行き方が分からないんです。どうすれば、僕がそこへ辿り着けるのか。それが分からないんです」

「さっきは、何を目指しているのか分からない、なんて言っていたのに、行き先なら分かってる、だなんてまるで大違いじゃないか」

「いいえ、大違いじゃありません。行き先と道標は違うんです。僕は行き先は分かっています。けれど、道標が見えないんです。僕の行きたい場所への道標、つまり、何を目指せばいいのか。それが分からないと言ってるんです」

「だから、俺は訊いてるんだよ。何度も何度も、俺は君に訊いたはずだよ。君の行きたがっているという、行き先をね。でも、君は話を逸らすばかりで全く答えてくれない。だから俺は困ってるんだよ。君の言う行き先ってのは、一体何なの?行き先と目指すものは、君にとっては違うものなの?」

「例えばの話です、先生。ある歌好きの女の子が『歌手になりたい』と思っていたとします。毎日毎日、テレビでは音楽番組しか見ず、本も音楽雑誌しか買わないほどの歌好きの子です」

「ほら、そうやってまたすぐ話を逸らすんだよ」

「いいえ、取り敢えずお聞き下さい。その子は、歌手になるために懸命に頑張ることにしました。学業も友達付き合いも家族も何もかもを犠牲にして、生活のほとんどを歌のレッスンや勉強に費やしました。友達も出来ず方程式も解けなくたって、歌手になれればそれでいい。女の子はそう思いながら、歌手になれるその日を夢見て、いえ、歌手になるという確信の下に頑張ったんです。当然実力はどんどんと付いていき、地元のライブハウスで歌った所、その高い歌唱力が話題になりました。そして評判が評判を呼んでいくうちに、遂に女の子は大手のレコード会社と契約し、念願の歌手となることが出来たんです」

「めでたしめでたしじゃないか」

「ところが違うんです。確かに女の子は歌手となってCDデビューも果たしました。十代前半でありながら高い歌唱力を持っていることが評価され、リリースされた楽曲のCDは売れに売れました。けれど、それも初めの一年まででした。一年を過ぎて、彼女のリリースされたCDはどんどん売れなくなっていったんです。彼女は悩みました。何故CDが売れないのか、つまり自分の楽曲が評価されないのか、と。そして歌手になって以来目を通していなかった音楽雑誌をふと手に取って読みました。雑誌の批評欄には、彼女を評して『歌唱力は抜群だが、何故か心に響かない(笑)』などと書かれていたんです。その時初めて、彼女は気付いてしまいました。歌いたいもの、歌を通じて伝えたいことなんて自分には何にも無かった、ということに」

「そりゃまだ若いんだから仕方がない。経験を積めば歌に深みも出て来るんだろう」

「何を仰るんです。彼女が幼い頃から強く抱いていた夢は、もう既に果たされてしまったんですよ。それまでその夢を叶える為の代償として普通の生活を切り捨てて生きてきたんですから、夢を現実のものとして手に入れた後の彼女に、一体何が残りますか?何も残りやしないんです。願いが叶ったその時点で、彼女はもうすっからかんになっていたんですから。希望すらも残りません。何も残らない代わりに彼女に重く重くのし掛かるのは、転落と挫折、そして絶望なんです。真っ暗闇の中に、彼女は取り残されるんです」

「それで?その例えばのお話を通じて、君は何を言いたいの?それこそ、俺には全く伝わって来ないね」

「お分かりになりませんか、先生。まあ先生は挫折なんてしたこともない優秀なお方ですから、仕方がないんでしょう。いいですか、先生。順調に行けばこのまま何処までも続くかのように思われた道が、突然、途切れてしまっていたとしたら。よっぽど何も考えていない人間じゃない限り、落ち込み、そして不安になるはずでしょう。さっきの例え話で言うなら、本来なら通過点になるべきことを終着点として選んでしまったんです。それが分からないまま、終着点すら通り過ぎてしまった。だから気付いた時にはもう、前にも後ろにも道がなかったんです」

「君にもその道がないとでも?」

「いいえ、僕は今、道のど真ん中で止まっているんです。もうすぐ先には、道が幾つかに分かれているのが見えます。それらの分かれた道は、きっとそれぞれ何処かへと繋がっているんでしょう。平坦だけれど周りに何もない道、険しい山へと続く道、細く分かれた獣道。けれど、果たして選んだ道が僕の望んだ行き先へ繋がっているのかどうか分からないんです。道標の立て札すらないんですから。……先生、僕はどの道を行けばいいんですか?どの道を行けば、僕は僕の望む行き先へ辿り着けるんですか?」

彼らの一連の会話、ほとんどは相談しに来た側の人の一方的な話でしたが、それを扉越しに聞いている内に、私はいらいらしてきました。

一言で言えば、彼はただの甘えん坊です。道だの行き先だの下らないメタファを振りかざしているだけで、その話には実際何の中身もありません。空っぽの喩えの世界には、現実が見えて来ることはないのです。

とうとう聞き役である“先生”も呆れたのか黙ってしまったようで、部屋からは何の声も聞こえてこなくなりました。“先生”も彼のわがままな話を聞く内に、疲れ果ててしまったのでしょう。けれど“先生”は真面目を装った不真面目な相談者に怒鳴ることさえなく、聞き役に徹していました。きっと“先生”は穏やかな心の持ち主に違いありません。

しかし、身勝手な相談は解決することはありません。このままなら、“先生”は日が暮れるまで相談の相手をしなければならなくなるのです。それは拷問に等しいことですから、私は“先生”に同情を覚え、救い出さなければならないと思いました。

私は部屋の扉を軽くノックすると、失礼します、と言いながら扉を開けて中へ入りました。

すると入り口の正面にある長机に、若い男が一人腰掛けているのが目に入りました。白いタオルを頭に巻いて、ちょうど缶コーヒーを口に当てて飲んでいました。

他には誰も見当たりません。わがままな相談者も、“先生”も。

「何か用?」

その若い男は、こちらをその細い目の端っこから覗きながら、無愛想に言いました。

「あの、今ここで誰かが二人、話していませんでしたか?」

「ああ、今の聞いてたんだ。これだよ」

戸惑う私に男が何か冊子のようなものを放り投げると、それはちょうど表紙を上にする形で私の足元へ落ちました。

その表紙には、こう書かれていました。

“一人芝居「盗み聞きする女」”

 

お金お金お金

  • 2008年11月 1日 02:52

政府が二兆円にものぼる生活支援定額給付の実施を含む経済対策を発表した日のことでした。

母がその報道を夕方のテレビで見ていたのですが、その時突然、私にこう言ったのです。

「ねえ、あんた、早く結婚しなさいよ。できちゃった結婚でもいいから」

普段の母は、私の生活には全く口を挟まず、ましてや結婚に関しては、私が幸せなら「一生結婚をしなくてもいい」などとすら言っていたのです。それが突然そんなことを言うものですから、私はびっくりして訊き返さずにはいられませんでした。

「やだ、お母さん。何を言い出すかと思ったらそんなこと」

「いや、かえって、できちゃった結婚の方が都合がいいね。それも双子で。いや、三つ子の方がいいか。あんた彼氏いないの?まあいるわけないよね、今のあんたじゃ」

「……」

冗談にしては母の顔と口調がずいぶん真剣だったので、私は嫌な予感がしました。今にして思えば、この直感を信じて少しばかり母を諫めれば良かったのですが、それももう叶わないことです。

戸惑う私をよそに、母は何かが頭にひらめいたのか、勢いよく立ち上がると何処かへ電話を掛け始めました。

「……もしもし?五郎くん?ちょっと話があるんだけど」

五郎というのは、私の大叔父の息子、つまり母のいとこに当たる人のことでした。五郎さんは母と同い年でしたが、いわゆる仕事人間で、銀行に就職してから今に至るまで三十年ずっと仕事一筋で通してきたために、五十を過ぎた今も独り身でいると聞いたことがありました。五郎さんとは一度も会ったことはなく、これからも会うことはもちろん顔さえ見ることもないだろうと思っていたほどの遠い存在でした。

「うん、お見合いの話。え?相手?うちの娘よ」

私はその母の言葉に、耳を疑いました。五郎さんと“うちの娘”、つまり私を、お見合いさせようというのです。母の言葉を頭の中で何度繰り返しても、言葉は確かにその意味にしか受け取れませんでした。

もちろんそんな勝手な話を許すわけにはいきません。私は電話の横で異論を唱えようとしましたが、どうにも頭が混乱して事情を上手く把握できずにいたために、目を白黒させながら通話を聞いていることだけしかできませんでした。

「そう、次の日曜でもいい?じゃお願いね」

話は先方からは何の異論もなく進んでいったようで、二分もせずに通話は終わりました。受話器を置いた母は、穏やかに笑っていました。

「……お母さん?今の、今の電話、どういうこと?」

私は震えながら母に訊きました。すると母は、私の震えなど全く意にも介さない様子で、実に晴れ晴れしい顔をしながらこう答えたのです。

「五郎くんはいい人だから、安心してお嫁に行きなさい」

私は未だにその言葉を聞いた時の衝撃を忘れてはいません。おそらく、一生忘れはしないことでしょう。

しばらく沈黙した後、私はこの不可解な状況に怒りを覚え始めました。一生に何度とない重要な話が、私自身ではなく母の手によって勝手に進められている。とても許し難いことでした。

ですから私は怒りも頭に上って、これまでにない大声で母に怒鳴りました。

「お母さん、ふざけるのもいい加減にして!」

「……ふざける?母さんは大真面目なんだけどね!」

思い掛けず母が鬼のような形相になり、私よりもさらに大きな声で怒鳴り返しました。そんな母に、私は怒りよりも強い恐怖を感じて、体全体がすくんでしまったのです。

「高校も行かず働きもしないあんたを何とかしようと、母さんは大真面目なんだよ!ふざけているのは母さんじゃない、あんただ!」

私はもう何も言い返せませんでした。確かに、学びもしない、働きもしない今の私は、この家庭にとってはただの負担でしかありません。このままずっと、同居している祖父母や両親、兄妹に、迷惑を掛け続けるわけには行きません。それならば、いっそ私は誰か男性との家庭を持つことで、妻として夫を支えるといった生産的な活動に入ることが、私にとっても誰にとっても最良の選択なのかも知れない、と思えました。

私は黙って、母の進めた話を受け入れるより外になかったのです。


晴れて私は五郎さんと結婚し、家庭を持ちました。大々的な挙式はせずに地味な親族内の祝いの場が開かれただけでしたが、母のとても嬉しそうな顔を見ることが出来ただけでも私は幸せに思いました。

五郎さんは私とは親ほど年齢が離れていましたが、会う前の想像とは違い、俳優にいてもおかしくない顔立ちで体型がスマートなとても優しい男性でした。初めこそは私にとって不本意な巡り合わせでしたが、一つ屋根の下に二人きりで暮らしてみると、母が私に問答無用で突き付けた話がまるで私たちが繋がるべき運命だったとさえ思えてくるほど、幸せを感じるようになりました。

ですから、私と五郎さんとの間にすぐに新たな命が芽生えたのも当然のことだったのでしょう。

「本当かい?良かった!本当に良かったよ!……母さんは嬉しいよ、本当に!双子?三つ子?」

母に私が妊娠したことを伝えると、母はまるで自分のことであるかのように喜んでくれました。母のその大きな喜びようを目にして、私はあらためて自分が新たに母親になっていくということを意識しました。


それから年が明け、春も近付いてきた日のことでした。私が結婚前に同居していた祖父が、倒れてしまったのです。

兄から一報を聞き、五郎さんへ連絡をすると、私は急いで祖父が入院した病院へと向かいました。病室へ着くと、頭に包帯を巻かれて静かに眠りに就いている祖父のベッドにしがみつき、土砂崩れに遭った山のように泣き崩れている母の姿が目に入りました。

「お母さん……」

まるでいつもの気丈な母とは別人のようにひいひいと泣き続ける母に、私は静かに声を掛けました。母の肩にそっと手を触れると、ひどくむせび泣いているためか体が細かく揺れているのが分かりました。

「お義父さん……、お義父さん……」

声を掛けても、母は私がいることすら分からないかのように、泣き続けていました。

母にとって祖父が倒れたことは、よっぽどショックだったのでしょう。私は仕方なく母の横を離れました。

そこで、あることに気が付いたのです。母は悲しい様子を包み隠さず文字通り全身で表しているのですが、父と祖母と兄妹は、全くそんな様子を見せていませんでした。それよりもむしろ、悲しみにくれる母を遠巻きに、あるいは呆れた様子さえ見せて眺めていたのです。

母が特別に感情が脆いだとか、母以外の家族が冷たい性格だということはありません。何かがおかしいと思い、私は父から事情を聞きました。

「爺ちゃんな、転んで倒れただけなんだよ。それが母さんが取り乱して救急車を呼んだりするから、こんなおおごとに……」

幸い祖父は、骨折も打撲もなく、腕と額のかすり傷で済み、一晩で退院しました。


やがて春も過ぎ、夏が訪れ、太陽が照り付ける暑い日、私は出産しました。かわいいかわいい一人の女の子が、私たちの間に生まれたのです。五郎さんに似て、まん丸く優しい目をしていました。

子供が生まれたということを真っ先に伝えたかったのが、他でもない母でした。母は私が妊娠してからというもの、毎日のように電話をくれたり、時には家へ訪れてきてくれたりと、私の体調を気遣ってくれていたのです。そんな優しい母に、私は感謝の気持ちも込めて無事に出産したということを伝えたいと思っていました。

五郎さんから携帯電話を借りて母へ電話を掛けると、待ち構えていたのかすぐに母は電話に出ました。

「お母さん、子供、生まれたよ。お母さんのお陰だよ、ありがとう」

「良かったね!本当に!双子?三つ子?」

「うん、顔は少し五郎さんに似ていて、元気な女の子」

「女の子?女の子の双子?」

「やだ、お母さん。双子じゃないよ。女の子が、一人、生まれたんだ」

「……ああ、そっか、双子じゃないのか……」

母の声は、心なしか、いえ、明らかに、落ち込んだ様子に聞こえました。何か悪いことを言ってしまったのではないかと思いましたが、短い会話の中でそんなことは全く覚えはありませんでした。

落ち込んだ様子になってから、母からはまともな祝いの言葉もなく、相づちを打つ程度しか返事をしなくなり、通話は短い時間に終わりました。

多分母は何かの用事で忙しくなったのだろう、と私は納得させましたが、まだまだ母へ伝えたかったことがたくさん頭の中に残っていることを思うと、心の中に何かもやもやしたものを感じずにはいられませんでした。

それでもやはり、生まれてきた女の子のかわいい顔を見るだけで、私はとても幸せでした。

……母の企みを、この時はまだ知らなかったのですから。


生活支援定額給付の実施は、遅れに遅れて発表を十ヶ月ほど過ぎた頃に行われました。振り込みを行ったという通知の葉書が届き、娘を負ぶって銀行へ行き通帳へ記帳してみると、確かにそこには五万円ほど入金されたという履歴がありました。

一時的なものとは言え、三人家族の我が家にとって五万円の臨時収入は家計の助けになるものです。ただ、それがそのまま消費に回るかはどうかは分かりませんが。

帰宅すると、留守番電話に一件の伝言が残されていました。着信履歴を見ると、母からの電話だったようです。

母は、私が娘を出産した後に何度か家へ訪れてくれました。お七夜にも来てくれましたが、口数も少なくあまり浮かない顔をしていたのが気掛かりでした。出産前にあれだけ気遣いをしてくれたことが、まるで嘘のように思えたほどです。

それから少し母とは距離ができてしまったように感じられていたのですが、その母がわざわざ電話を掛けてきたということは、何か私に伝えることがあるのかも知れない。そう私は思い、一つ深呼吸をしてから伝言を再生させました。

『あ、もしもし?給付金入った?あんたと娘の分、三万円くらいかな、母さんの口座に振り込んでおいてよ』

母からの伝言は、たったそれだけでした。たった、それだけでした。

そしてその伝言を聞いて、私は腹の底にふつふつとあの時の怒りが再び蘇ったのです。あの時の怒り、つまり、私と五郎さんとのお見合いを勝手に決めた、あの夕方の怒りです。

私はあの時以降の母の行動を、一つ一つ思い起こしました。勝手に縁談を結んだこと、私が妊娠したことを伝えた時にしきりに子供の数を訊いたこと、祖父が転倒した時に大慌てし救急車まで呼び、さらには入院先で大泣きしていたこと、妊娠している間ずっと私の体調を気遣っていたこと、そして出産時に双子でも三つ子でもないことを知った時に落胆したこと……。

全てが、この一本の伝言を通じて私の中で繋がったのです。


それ以来、私は母と縁を切りました。もちろん、三万円を振り込んでなどいません。あの人にとって三万円が私との繋がりだったとしたら、それは高すぎる金額でさえあるのかも知れません。

けれど、私は五郎さんと娘との、新しい幸せな家庭を築くことが出来たのです。お金で繋がる関係よりも、ずっとずっと大切な関係がある。それがきっと、母からの、親としての最後の教えだったのでしょう。

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