茨城症候群

 

御花見

「ほら見て靜子さん、櫻がこんなに綺麗」

公園に著くと、山本さんはその細く白い腕を一杯に伸ばしながら周りの櫻の木々を指差し、顏を輝かせ嬉しさうに燥いでさう言つた。彼女の言ふやうに公園の櫻の木の花はどれも皆、滿開に咲いてゐた。

「本當に綺麗ね。丁度今が御花見時、と言つても好い位」

櫻は、慥かに綺麗だつた。しかしそんな綺麗な櫻に無邪氣に喜んでゐる山本さんの顏も、同じやうに慥かに綺麗に見えた。寧ろ私には、そちらの方がより美しく感じられさへした。

その二つ、背景に咲き亂れる櫻の花と山本さんの華奢な姿とを重ねて見ると、まるで映畫の一シーン、あるいは一枚の繪畫を眺めてゐると云ふ錯覺に囚はれた。それは全く奇妙なことではなく、この目の前の同じ光景を見れば誰もが私と同じやうに感じるであらうことが當然のものとして思はれた。それほどに、この櫻の花と山本さんとはぴつたりとした調和を見せてゐた。

心を奪はれた私がぼうつとして眺めてゐると、山本さんは惡戲つぽい笑顏をこちらに向けて言つた。

「ね、靜子さん。やつぱり來て良かつたでせう?」

「ええ。こんな綺麗な……、綺麗な櫻が見られたんですものね」

私はさう言ひながら、周りへと目を遣つた。私たちの他にも御花見に來たであらう花見客が多くゐて、それぞれが櫻の木の下や芝生の上に陣取つて酒盛などをして盛り上がつてゐる。ある者は奇妙な踊りを踏んでをり、またある者はさくらさくらなどと大聲で歌つてゐた。彼らは勿論、その周りで手拍子をしながら囃し立てる者も、皆誰もが明るい顏をしてゐた。

樂しさに賑はひ幸せに包まれる筈の時間が、そこに流れてゐた。


實を言ふと私は初め、この御花見の誘ひには余り乘り氣ではなかつた。と云ふのも、年が明けた頃から山本さんの具合が一層惡くなつてずつと床に臥してゐると云ふ報せを聞いてをり、そんな病人が無理を言ふのにわざわざ附き合つて具合を一層惡くさせては申し譯がない、と思つてゐたからであつた。

だから私は一旦、架空の事情を附けてその誘ひを斷つた。山本さんの具合の惡くなつたのは知つてゐたけれども、それを理由としては挙げられなかつたから、私は彼女に噓を吐いたことになる。斷つた時の心苦しさと言へば、それは最う堪えきれないほどのものだつた。

しかし、山本さんにはそんな御粗末な噓は通じなかつた。それどころか、彼女は私の胸の内——山本さんを心配する餘りに誘ひを斷らうとしたこと、それを適確に見拔いてすらゐたから私は驚いた。そして同時に、自分を恥づかしく思つた。

瞞すつもりはなかつたと釋明し謝る私に、山本さんは怒ることもなく大きく笑ひながら、具合を氣遣つてくれるのは有り難いが自分の身體は健康そのものだから心配は無用だと言つた。そして他の誰でもなくこの私と御花見に行きたいとも言つた。

山本さん本人が心配要らないと言ふのだからわざわざ他人が心配する必要はないのだらうが、私は猶も彼女の身體の具合が氣掛かりで仕方がなかつた。だからそれについて訊いてみると、床に臥してゐたのは別に普段の持病が惡くなつた譯ではなく、ただ季節に流行の感冒に罹つたからだと云ふ。お醫者からはごく輕い感冒だと言はれたので隨分甘く見て寢ずに過ごしてゐたら、案の定餘計に拗らせて仕舞ひ、それで長い期間寢込まざるを得ない羽目になつたらしい。

それも最う完治して何處へ行つても身體に差し障りがなくなつたから、滿開になる櫻の花を見たいと思ひ、御花見に行かうと私を誘つたのだと云ふ。

山本さんの言ふことには、噓も僞りも感じられなかつた。誤解として受け取つたとは云へ逃げやうとした私を非難することもなく、彼女は先程と何一つ變はらない顏をしながらあらためて私を誘つた。勿論今度は、私はその誘ひに快く應じてゐた。

 

「そろそろ暖かくなつてきたね」

停留所で山本さんと二人竝んでバスを待つてゐる間中、私は昨日よりずつと暖かさを増した風が頬を撫でるのを感じてならなかつた。

山本さんは此方を見て微笑んでゐた。彼女の顏もまた、昨日よりずつと温かさを増したやうに思へてならなかつた。

「そりやあ春ですもの。暖かくなきやあ春ぢやないでせう」

山本さんの肌は、向かふまで透き通るやうな白さを見せてゐる。柔らかい春の日の光の下では、それはなほさら白く映つて見えた。

——山本さんはその幼い頃から脆弱だつた。何でも生まれ附き内臟に好くない疾患があるさうで、走り廻ることはおろか一寸した運動ですらお醫者に禁じられてゐた。

だから學校でも鬼ごつこなどは皆が奇聲を上げながら樂しさうに追ひ掛けられ追ひ掛けるのを、彼女は隅つこに獨り座りながらにこにことして見てゐた。運動會なども獨り普段著のまま、テントの下で大きな聲援を送つてゐた。

それでも山本さんは、自分の身體の弱いのを誰かに愚癡るやうなこともしなかつた。皆と同じことの出來ない不滿を表に出すやうなこともしなかつた。身體の弱さを理由にして何事を拒むやうなこともしなかつた。誰かに身體の具合を気遣はれることすらも好かなかつた。

山本さんには、開き直つて他人を突き放すやうな傲慢な頑固さはなかつた。彼女はただ、身體の弱さに決して甘えることのない、強い心を持つてゐたのである。

私の決して持ち合はせてゐない、屈強な心。山本さんは慥かに、それを持つてゐた。

けれども、おそらく私が力いつぱいその身體を押して道に突き倒せば、いくら心の強い山本さんでも、きつと——。

青い草の生える道端に目を落としながらそんなことを考へてゐると、山本さんは私の肩をとんとんと叩いた。振り返ると、柔らかく優しい笑顏があつた。

「靜子さん、やうやくバスが來たやうですよ」

その笑顏に、私は厭な罪惡感を覺えた。私は無意識の内に、私と山本さんとの間に優越なる壁を作つてゐたのである。一方の彼女には、壁すら見えてゐない。見えてゐたとしても、彼女はそれを全く氣にすることなく、私に接してゐる。

それなのに、それなのに私はその壁を、獨りで勝手に氣にして仕舞つてゐたのである。

あゝ、愚かしい。私は本當に、愚かしい人間。愚かしく、弱い人間。

「靜子さん?」


ゆらゆらと搖れるバスの中で、春の陽射しも手傳つてか私は何だかとても眠たくなつて、山本さんにもたれ掛かつてゐた。彼女はそれを払ひ除けることもなく、受け止めてくれてゐた。

 

INSOMNIA 2009

  • 2009年1月17日 20:24

insomnia

“Hé, où vas-tu...?”

“Ma petite fille, à Dieu va.”

 

ロープ

  • 2008年12月22日 19:07

「誰かが犠牲になることで誰かが幸せになるのなら、犠牲もまた幸せ」

サンタさんは笑いながらそう言って、私へ一本のロープをプレゼントしてくれました。それもただプレゼントするだけではなく、丁寧にもロープの先に輪っかを作って、窓際のカーテンレールへと結び付けてくれました。

私はサンタさんに「何に使えばいいの?」と聞きましたが、サンタさんは答えようともせずにただ笑っているばかりで、そのうち「アデュー」と明るい声を残しながら窓から飛び降りて帰って行きました。

「アデュー」

私は一人になった部屋の中で、サンタさんの別れの挨拶を繰り返しました。

そして窓際に垂れ下がっている、サンタさんがプレゼントしてくれたロープを見つめながら、私は思いました。

子供の頃は、サンタさんはこんなロープじゃなくて私の欲しいおもちゃをプレゼントしてくれたのになあ。でも、それだけでも良かったのかも知れない。だって、いつからかサンタさんはプレゼントさえしてくれなくなったんだから。

こんなロープ一つでも、私は貰えただけ幸せなんだろうなあ。

とは言っても、ロープが窓際に垂らされているだけではどうしようもありません。少なくとも、私にはそのままではロープの使い道が思い付きませんでした。

サンタさんがせっかく結び付けてくれたロープでしたが、私は爪を立てながらほどくと、直線上になったロープの両端を持って考えました。

何かの荷物をまとめるもの、命綱など、あれこれと用途を思い付きましたが、長さといい強度といい洗濯ロープがぴったりでした。

それから、サンタさんがプレゼントしてくれたロープは洗濯ロープとしてとても役立っています。初めこそおかしなプレゼントだと思いましたが、ものは使いようなのでしょう。

またあの時のサンタさんが来てくれたら、素敵なプレゼントをありがとう、とお礼を言いたいと思います。

 

小さな箱

  • 2008年12月11日 02:02

「狭くて暗い、箱の中から、あなたを見てる、私を虐め、痛め、苦しめ、傷付け、そして最後に殺めたあなたを」

帰宅途中、何か声がすると思い、立ち止まって後ろを振り返ると、電柱の下に小さな白い箱があった。おそらく木で作られたであろう、ちょうど広辞苑ほどの大きさの箱、それが電灯に照らされて、夜道に白く浮かび上がっていた。

「あなたは今日も、悔やむことなく、笑い続けて、わたしは今日も、悔やみ続けて、泣いていた、この、小さな小さな、箱の中で、独り、寂しく、泣いていた」

声は消え入りそうになりながらも、恨み節のような文句を途切れ途切れに吐いていた。

確かに、声は箱の方から聞こえてはくる。周りには誰もいないし、電柱の影に誰かが隠れている様子もない。箱から声が聞こえているのは間違いがなかった。

きっと悪いいたずらで、箱の中にラジオか何かが入れてあって、それが喋っているんだろう。そう思って、私は家へ向かおうとした。

すると、声が突然強い調子で怒り始めたから驚いた。

「ああ、憎い!あなたが、憎い!あなたは、きっと、もう忘れてる、わたしを、このわたしを、喜んでいたはずの、わたしを、罠の中へ、陥れ、それでも、あなたは笑顔で、奈落の底へ、落としたことを!」

念のために自分の心に訊いてはみたが、いじめたの罠だのといった言葉には心当たりがなかった。私は弱い者いじめをするほど気が変に強い方でもないし、誰かを罠にはめるほど賢い方でもない。

もちろん、万が一心当たりがあったとしても、この小さな箱からする声が私へ向けてものを言っているとは思いたくはなかっただろう。私は、もうこれ以上その声に構うのは止めて、家へ帰ることにした。

「逃げる、あなたは、逃げる、けれど、わたしは、逃げられない、この無間地獄から、永遠に、逃げることが、できない、あなたのせいで、あなたがわたしを、突き落としたから、わたしはずっと、ずっと」

箱の声は、立ち去る私にそう言い続けていた。私はそれを無視して、すたすたと早足で遠ざかっていった。

「あなたは、いつか、地獄を見る、わたしと同じ、地獄を見る、そしてあなたは、悔やむ、悔やむ、初めて、悔やむ、わたしへ向けた、あの仕打ち、酷い仕打ちを、したことを」

知らない、知らない。知るもんか。さ、早く家へ帰って寝なくちゃいけない。明日も仕事で忙しいんだから。

こんな暗い場所で、見えないはずの柩に目を奪われて、聞こえないはずの声に心を奪われて、決して消えることのない事実に後悔したとしても、私はもう仕方がないんだから。一度犯した過ちは、もう晴れることはないんだから。

「そし……、あなたは、……へ、……ちる、地獄……、堕ち……、永遠……、苦し……、……もがき、……て、わたしを、……し、……」


「ただいま」

誰もいない暗い部屋からは、当然“おかえり”の声も聞こえるはずがない。けれど私は、毎日必ずそう声を掛けている。

なぜなら、あなたが部屋の奧で待っているから。私の帰りを、待ち続けているから。

私は部屋の明かりを点けるとすぐに、あなたの前へ向かって座る。あなたは見えないけれど、確かに笑って私を迎えてくれる。

あなたに付けられるはずの名前が刻まれた、小さくて薄い木の札。私はそれを手に取って、いつものように布で綺麗に拭う。優しく、丁寧に、あなたを拭う。

これが、今の私があなたへ唯一してあげられること。

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