茨城症候群

 

てにすぶ!

  • 2009年8月 8日 03:47

私は本当にテニスというものが大嫌いで大嫌いで仕方がなかった。どれくらい嫌いかというと、あのしゃもじの太くなっている部分をくりぬいて糸を張ったようなラケットを見るだけでもう鳥肌が立ってめまいがしてきたり、ボールを打ち返す音を聞くだけで頭の中がその音の響くので一杯になってそのうちほかほかのよだれを垂らして失神してしまうくらい。ということは実際にはなかったが、日常ではテニスに関係あるものからは最大限に避けるようにして過ごしている。

私がこんなテニス嫌いになったのは、これまでの私とテニスとの接点にある。それはたぶん、悲劇と言ってもいい。

まず私は生まれてからもう数ヶ月後に、そのふにゃふにゃの柔らかい手に無理矢理テニスラケットを握らされた。もともと父親がプロテニスプレイヤー志望で、叶えられなかった夢を娘の私に実現させて自分の欲望を満たすという望みを持っていて、私に幼い頃から英才教育と銘打ってテニスを学ばせて将来は一流プレイヤーとして世界を駆け回って欲しいとでも思っていたのだろう。ずいぶん身勝手な親だ。私の意向なんてあったものじゃない。その時の私にもし今と変わらない程度の物心が付いてさえいれば、私は握らされたラケットで父親を殴り殺していただろう。けれども生まれてすぐのまだ乳離れもしていない赤ん坊にそんなこともできるはずもなければ親の言うことを拒否することだってできない。だから私は言われるままにラケットを握り、父親の投げるボールを言われるままに打ち返すしかなかった。

それだけなら微笑ましいテニス親子として映るからまだいい。ただ、父親はプロテニスプレイヤー志望だったにも関わらず大の付くほどの下手くそで、また下手くそにも関わらずやけに教育熱心だったからたちが悪かった。私がボールを打ち返し損じただけで、怒鳴り散らしながら殴る蹴る殴る蹴るの繰り返しだ。それで私が体中の痛さに泣き喚くと、また殴る蹴る殴る蹴る。父親はしつけのつもりだったのかも知れないが、これだけは絶対にしつけとは違う。暴行を受けた私本人が言うのだから、違うと言ったら違う。ただの虐待だ。

母も母で、私の体があざだらけなのを見てどうしたのかと問うて返ってきた父親の「練習で転んですりむいて大変だったアハハ」というふざけた答えをまるっきり信じてそれっきり何も言わない。もしかしたら本当は父親の暴行にうすうす気付いていたのかも知れないが、そうだとしても見て見ぬふりをして何も言わないのはひどい。

私は幼心にテニスを恨んだ。もちろん両親のことも同じように恨んだが、まずテニスがあることで私は苦しめられている。テニスがなければ、私はこんな目には遭うことはなかった。だから私を苦しめる全ての根源たるテニスというスポーツそのものを呪った。もうこれで私のテニス嫌いの土壌は完璧にでき上がってしまった。いずれテニス嫌いが大きな実になることは自然なことだった。

それから数年間同じような日々が続いた。けれども不思議なことか当然なことか、テニスを嫌うのに反比例するかのようにして私のテニスの実力は付いていった。

そして小学生のときのある頃には、テレビ局が“天才テニス少女”の取材ということで当時私が入っていた地域のテニスクラブまで来たこともある。その時に私は屈辱的な思いをした。取材に来た太った禿頭の中年から、「テレビで映るから」と作りたくもない笑顔を作るように注文されたのだ。

もともと好きでやっていないテニスだ。好きでないものに笑顔なんか作れるわけもない。だから「笑って笑って」と今にも泣き出しそうな顔で懇願する禿頭を前にしても、私はどうしようもなく突っ立っていることしかできなかった。すると、突然私の体は横になぎ倒された。父親に蹴り飛ばされたのだ。背中に鈍い痛みを感じながら顔をしかめていると「こいつはこうすると笑うんですよ」という父親の嬉しそうな声が聞こえた。もうその時は笑うしかなかった。笑わなかったら、私が血を吐くまで父親は蹴り続けるに決まっていた。いや、血を吐いてもまだ蹴り続けたのかも知れない。私が立ち上がって笑い顔を無理矢理作って禿頭を見た時のぽかんとした顔は、今でも記憶に焼き付いている。

中学校に上がると、テニス部に無理矢理入らされた。父親が勝手に入部届を学校へ提出してしまったのだ。もう私はテニスからは一生離れられないと諦めていたから、特に反発することもなくそのままテニス部へと入部した。

入部したての頃に、遊びで試合しようと言った三年生を軽々と下してしまったものだから、とうとう三年生が本気になって私の相手をしたけれどもその全員も負かして悔し涙を流させたことがある。さらにその少し後に出た市内の大会では、一年生ながら準優勝してしまった。

それから私はテニス部の未来の大ホープと持てはやされて、優しい部長に大いに気に入られた。新聞部の発行する校内新聞でも大きく取り上げられた。けれども全然嬉しくも何とも感じなかった。私と他の一年生との間には目に見えない大きな溝ができたような気もしたし、上級生からは羨望と嫉妬の中間の視線が絶えず私を突き刺している思いがしたからだ。

私はできることなら、ただ普通のテニス部員でいたかった。普通の中学生でいたかった。しかしそれはもう叶わないことだった。私は父親の元に生まれたときから既に、こうなることが決められていたのだ。そしてこの先もずっと、私はテニスから逃れられない。それからはヤケになるようにしてテニスボールを夜まで打ち返し続けた。

けれども中学一年の秋に、そんなテニス漬けの暮らしからとうとう解放された。父親が突然、死んだのだ。

死んだ後で聞かされた事実だが、父親には繁華街にある水商売の店に足繁く通うという家族には決して見せない裏の顔があったという。おまけにその店のあるホステスに何百万円という単位で金を貸していたそうだ。年収近くを貸した頃になって父親も馬鹿なりに気付いたのか、そろそろ金を返して欲しいとそのホステスに言った。どんな風に言ったのか知らないがそこで逆上され、灰皿で頭を何回も殴られて殺された。身内ながら本当に馬鹿な父親だと思う。

父親の亡骸は、その頭の右片方がカルデラ湖の中心のように頭蓋骨を大きく凹ませていて、その奧には乾いて固まった血が黒くこびり付いた白い脳みその表面が見えた。顔は右側を若干下に落ち込ませるように歪んでいて、どこかのお化け屋敷で見たようなお化けと同じような無様な表情を浮かべていた。私はそんな父親のみじめな亡骸を見ても、涙の一粒も出なかった。今まで私を殴ってきた分だけ父親は殴られて、頭を潰されたのだ。そうとしか思えなかった。

父親は葬式の後に焼かれて白い骨になった。台車の上に散らばって鈍く光っている骨を見て、私は初めて心の中にすきま風が吹いているのを感じた。気持ちの良い風ではなかった。心に空いた穴を通って体中の穴から少しずつ吹き出ていくような、どこか冷たい風だった。あれほどテニスを通じて私に許しがたい暴力を振るったとは言え、やっぱり私の父親だったのだ。骨を母と拾って骨壺に納める間、私は何も喋ることができなかった。父親がたまにその顔に浮かべた笑い顔を、私は自分の頭の中に蘇らせていた。

父親が死んでテニスの地獄から解放され、私はそれからラケットを握ることはなかった。テニス部も「テニスが好きだった父親が亡くなって気持ちの整理が付かないから」という理由を付けてあっさりと辞めた。私を気に入ってくれていた部長や上級生同級生の何人かは、私をしつこく引き留めた。確かに私にとっても部にとっても、そのままテニスを続けることが最善の道だったのかも知れない。ただ私を引き留める先輩の後ろで冷たい横目をしながら私を睨んでいるだけの先輩もいて、その姿を見て私はもうテニスはこれっきりにしたいと決断した。

テニス部を辞めた後は、テニスとは全く何の縁もないオカルト部に入った。もともと私はテレビの特集や子供向けの本で見たUFOやUMAなどの話に興味があったし、外見とは違って性格的にも実は内向的な面があったから、偶然か必然かそういう人の集っていたオカルト部での活動は楽しかった。何より、私とテニスとの関わりを知らない上に詮索もしてこない人たちの中に交じることで、本当の意味でのテニスからの解放を感じて身が軽くなる思いがした。

私はそのオカルト部で、生まれて初めてと思えるくらいに気の合う同級生の友人ができた。それが山本さんだった。

市松人形のような長い髪に変化に乏しい表情という、一見して垢抜けない暗く冷たい雰囲気をまとっている山本さんは、UFOの話題になると途端に感情を露わにして饒舌になる。彼女はUFO専門家と言ってもいいくらいにUFOの情報に通じていた。UFOの形状から種類、歴史まで、私が普通に生きていれば知ることのなかったであろう情報は全て彼女の頭の中に網羅されているようだった。UFOについて私が知らないことを彼女に訊ねる。するとまるで事前にその質問がされるということを知っていたかのように、すぐに難なく適切な答えを出す。私が感心してさらに別の問い掛けをすると、それにも同じように詳しく答えてくれる。まさにUFOの生き字引だった。

山本さんの方でも私の下らない質問に答えることは苦痛ではなくてむしろ楽しかったらしく、質問しては答え質問しては答えの掛け合いの中で私たちは自然と親しくなっていった。親しくなって初めて分かったのだが、彼女には恥ずかしがり屋の面が強くあって、初対面の人間には無意識ながら冷たく当たってしまうことがあるようだった。一方で互いに打ち解けると、初めは見せなかった面を徐々に表し始めて、実は温厚で明るく他人の気遣いのできる人物なのだと知ることになる。いわゆるネアカという種類なのだろうが、第一印象で損をすることが多いのだろうな、と私には感じられた。私との間にはUFOの話題があったから、これだけ距離を狭めることができたのだろう。

山本さんとの付き合いはオカルト部の中だけでは留まらず、夏休みには長野の菅平高原に二人きりでUFO合宿をしにいったこともある。UFOが間に挟まれば私たちは師弟の関係にあったと言ってもよかったが、それ以外の場においてはお互いに口にこそ気恥ずかしくてしないものの、間違いなく唯一無二の親友と呼べる仲だった。

そして気付けば中学の三年間はあっという間に過ぎ去って、私と山本さんは同じ公立高校に入学していた。別にお互いに話を合わせて進路まで一緒の道を歩もうとしたわけではなくて、オカルト趣味も近ければ学力も家の経済力も同じ程度だったから、たまたま進路が重なったというだけだった。進路がよりどりみどりの都会とは言いがたい地域では割と良くあることだ。

進学する高校がお互いに同じだということを知ったとき、私たちは顔を見合わせてから手を取り合って喜んだ。そして「高校でも一緒の部活に入ろう」という約束を交わした。

中学卒業間近になって、進学先の高校のテニス部の部長と名乗る人物から家へと電話があった。どこから聞き付けたのか、私が中学校のテニス部へ入部してすぐの大会でいきなり準優勝を飾ったという話を知って掛けてきたという。そして高校では是非テニス部へ入って欲しいということを告げて、私の方の是非は聞かれることもなく電話は切られた。

私はもうテニスとは縁を切ったつもりでいた。父親が死んでからラケットもシューズも処分してしまったし、一生テニスとは関わることがないと思っていた。そこにその電話だ。うんざりした。父親があの世でも、私がテニスを続けるように何かの手回しをしているのではないか、そう思いさえもした。

高校ではもう入る部活を決めていた。もちろんテニス部などではない。テニス部に入らなければならないくらいなら、学校の階段からわざと転げ落ちて、誰に何と強制されようと一生テニスのできようのない体になってやる、といった不謹慎なことを思うくらいテニス部に入る気はなかった。

高校に入り、私と山本さんは中学のときと同様に別々のクラスになった。私たちはどうしても同じクラスにはなれないように運命付けられているのかも知れない。けれども同じクラスにいて長い時間の付き合いをしないことで、かえって親密な仲を保つことができる、そういうことを実際に中学からの付き合いの中で感じていた。これからもきっとそうなのだろう。

入学後しばらく経ってから新入生が体育館に全員集められ、部活動のオリエンテーションが行われた。文化系の部活から体育会系の部活まで、全ての部からの代表が何人かで各々の部の紹介をするというものだった。どの部でも部員を確保しようと必死なのか、ユーモアに溢れたアピールが目立っていた。酷いものになると、一人で壇上に登場してきて「部員がいないんです。部員は僕一人だけです。入って下さい」と言っただけで退場して爆笑を誘った地図部といったようなものもあった。

しかしその中でも、テニス部の紹介は目立っていた。ユニフォーム姿の部員が三人登場する。そのうちの二人が両端にボールとラケットを持つ。その二人の間に、もう一人がラケットを持って立つ。両端の二人がラリーを打ち始める。その間の一人が、真ん中でラケットを持ちながら引っ繰り返ったり横になったりというブレイクダンスを踊り始めた。しかしこのダンス、ラリーとは何の関係もないものと見せかけて、実は両端から受けるボールをダンスをしながら連続で返しているというものだった。ただダンスをしているようにしか見えないものが、難なく素早く二つのラリーを返しているという曲芸に、新入生の間からは自然と大きな歓声と拍手が上がった。この日でこのテニス部の紹介が、もっとも歓声を浴びたものだっただろう。この曲芸としてのテニスは、私も面白く感じて目を見張った。それでもいくらこの曲芸がすごかろうと、テニス部に入るつもりはなかった。

「すごかったね」「うん、すごかった」

けれどもオリエンテーションの後に、誤算が起きたことに気が付いた。世紀の大誤算だ。まずこの高校には、オカルト部などという部は存在しなかったということ。そして、山本さんがどうしてもテニス部に入ると言って聞かなかったということだ。

オカルト部が存在しないのは仕方がない。ないものはないからだ。しかしまさかUFO好きの超文化系の山本さんが、体育会系の総本山とも言うべきテニス部を志望するとは思いも寄らなかった。おおかた先ほど熱演していたテニス部の雰囲気に呑まれて、それだけで決めてしまったに違いない。一種の洗脳だ。

だから私は山本さんに言った。テニス部は、テニス部だけは駄目だ、と直接言うことははばかられたので、それとなしに何となく考えを変えるように言ったのだ。

「ねえ、言いにくいんだけどさ」「何?」「他の部活にしようよ」「えー何それ。部活って言ったら青春でしょ。青春って言ったらテニスでしょ」「私テニス嫌いなの」「そんなの知らないよ」「知ってよ」「知らないよ」「オカルト部は?」「オカルト部なんてこの高校にないじゃない」「作っちゃえばいい」「面倒じゃん」「じゃあ私が作るから入ってくれる?」「やだ」

そして山本さんは先に一人でテニス部へ入ってしまった。「待ってるからね」。そう軽快に笑いながら言い残してテニスコートへと走っていった山本さんのジャージ姿が、まぶたの裏に焼き付いて鈍い痛みを感じるほどだった。

学校の階段からわざと転げ落ちて一生テニスのできない体になる。そんな考えはもう頭にはなかった。

 

新宿駅で踊る

  • 2009年7月27日 15:28

新宿駅の大迷宮を行き交う人々の真ん中で、汚らしい服を着た汚らしいチンピラみたいな奴が汚らしい長髪を振り乱して汚らしく踊っていた。一見すると身の上に何か悪い出来事が起きて気の触れてしまったような可哀想な奴にしか見えなかったけれど、少し時間を割いて見ていると、タン・タ・タン・ラン・タ・タン・タン・タ・タン・ラン・タ・タン、とある一定のリズムに則って足を踏んだり手を舞わせたり腰をくねらせたり引っ繰り返ったりしながら踊っているのが分かった。でもそいつの踊りに合わせて音楽が鳴っているわけでもなかったから、リズムをつかみながら踊りを見る人なんてほとんどいないだろう。そういう大多数の人にとってはやっぱりただの可哀想な奴だ。

あいつは内心で今の自分をお洒落だとか思ってるんだろうか? 俺にはお世辞にもそいつの踊りがお洒落だとは言えないし思えない。ダンスの専門家かなんかからして見ればもしかしたら一流の踊りだとかいう評価が付くことが万が一にもあり得るかも知れないが、この目の前で繰り広げられている踊りは一般人にとっては理解しがたいを越えてわけが解らないもの以外の何でもない。何より他人のそいつに対する態度がそいつの存在とそいつの踊りを思いっきり否定していた。

「うわダッセ」「ちょっと邪魔あ」「気持ち悪い」「意味解んない」「くっさあい」

そいつに向けて、ひそひそとはばかるでもなく非難の罵声が容赦なく投げ掛けられる。中には言葉だけでは飽き足らず、わざわざそいつの目の前で立ち止まってから鼻をかんで使ったティッシュを投げ付けるなんていう酷いおっさんもいた。そういう行動に出る人の気持ちも絶対に何が何でも解らないということでもない。なぜならこいつの踊りは、ほんとにダサくて邪魔で気持ち悪くて意味が解らなかったからだ。最後の臭いは分からなかったが。

それにも構わず、そいつは踊りを止めなかった。俺は暇だったしそいつのことが気になったからちょっと離れた場所から携帯電話をいじくる振りをしながら踊りを見ていたんだけれど、通行人に暴言を浴びせられたりゴミを投げ付けられたりしているのがまるで自分とは関係ないと思っているように、踊りの内容も質も変えずに続けていた。実際に、そいつに向けられる非難と踊っていることとはそいつにとってはそんなに関係がなかったのかも知れない。

タン・タ・タン・ラン・タ・タン・タン・タ・タン・ラン・タ・タン

踊りを無視して冷たく通り過ぎていく人たちの作る川を渡って、俺はそいつに近付いた。だんだんとファストフードで売られているジャンクなフライドポテトの油臭い匂いが辺りに満ちてくる。そいつの踊りで身体が動くのに従ってその匂いは拡散しているかのようだった。おそらくこいつがポテトの匂いの元凶だ。「くっさあい」とはまさしくこれだったのだ。確かに臭い。思わず鼻で息をするのもはばかり顔をしかめてしまうほど臭い。よっぽど汚れた場所から来たか浮浪者なのか分からないが、何日間も身体を洗っていないんだろう。

俺が近付いて来るのに気付いて何か考えたのか、あるいは単にたまたまタイミングが重なっただけなのか、そいつは踊るのをぴたりと止めた。髪がゾンビが墓から出てくるみたいにだらんと顔を覆っているのを、頭を一気に振り上げて後ろへやった。現れた顔は目の周りの彫りが深く意外にも整った顔立ちのように思えたが、その汚らしく伸びた長い髪ともじゃもじゃの髭と無表情のおかげで大損をしている。顔の雰囲気からすると、俺と同年代か少し上という気がした。ただやっぱりここでも髪と髭と表情のせいで、それ相応の若さは損なわれていた。そいつは踊りの後のクールダウンなのか屈伸をし始めた。その上下の動きに合わせて小蝿がぷんぷんと音を立てながらそいつの周りに群がっている。ポテトの匂いはこうやって小蝿だけを寄せ付けるんだろう。

俺がそばに立ってそいつの一挙手一投足を眺めているとそいつは「何見てんだよ」と不機嫌な顔をしながら言った。何見てんだよ、って見せるために踊ってたんじゃないのかと思ったがどうやら違うようだったから反論はしなかった。俺が黙っているとそいつはそいつなりに用事でもあるのか俺を相手にしようともせずにのろのろとした動きでバッグを拾い上げるとどこかへ立ち去ろうとした。

「どこへ行くんだ?」

俺は思わずそいつに声を掛けていた。本当はこんな怪しい奴とは関わり合いにもなりたくなかったと思っていたから、この自分の行動は自分自身でも意外だった。意外というよりも、どこか俺はここに来てこいつに声を掛けることが予め決められていてそれに従って行動したかのような感覚がした。

「家へ帰るんだ」とそいつは言った。「次に踊る奴が現れたから」

「えっ?」

「よろしく頼むぜ。今からお前はここで好きなだけ踊り続けるんだ。踊って踊って踊りまくって、新宿を、東京を、日本を、世界を、宇宙を盛り上げるんだ」


新宿駅の大迷宮を行き交う人々の真ん中で、俺は踊っている。もう何ヶ月も髪を切っていないから髪は前に後ろに横にと伸び放題で、服も取り替えていないから所々破れ掛かっていた。

そして俺は行き交う人々に罵倒される。「うわダッセ」「ちょっと邪魔あ」「気持ち悪い」「意味解んない」「くっさあい」。いつか聞いたような言葉。聞いたのは、いつだっけ? もう忘れた。俺には踊るしかない。踊って踊って、宇宙を盛り上げていくしかない。

タン・タ・タン・ラン・タ・タン・タン・タ・タン・ラン・タ・タン

魅惑のステップ。だけど誰も俺を見ようとはしない。ああ、見ないでもいいさ。こんな汚らしい俺とは関わり合いになりたくないだろ? こんなのに見とれちまう奴の方がいかれてるんだよ。まともな奴はまず俺なんて見ることがないんだ。見ないで正解、大正解。

タン・タ・タン・ラン・タ・タン・タン・タ・タン・ラン・タ・タン

誰かが俺を見ている気がした。ただ見ているんじゃない、そいつは俺をじっと見ていた。やっと来たか。次にここで踊り出すのは、お前だ。

 

ブルドッグ

  • 2009年7月27日 03:01

「なんて言うか、たるいんだよ」

横の席の山本が俺の方へ目だけ向けやがってそう言った。その顔は言葉を裏切ることなく全面でたるいということを訴えていた。死んだブルドッグが間違ってこいつの面に取り憑いて間違ったと思いつつこいつの方もたるいので離れるのが嫌になりそのままになったようなそんな感じだ。

「たるい」

山本のたるいブルドッグ面はさらにブルドッグさを増してどんどんとブルドッグそのものに見えつつあった。このままこいつは近いうちにブルドッグになってしまうんじゃないかと思った。別にそうなったんならそうなっても俺の方は構わないが俺はそうなってもこいつの飼い主になんかなってやろうとは思わない。山本は一言で言うとキモい。顔は一見爽やかに見えて入学時こそは女子たちの話にも色々と噂に上げられていたそうだったが、なんというか何に付けても粘着質だからこいつはその本性がだんだんと明るみに出てからはいつでもクラスの鼻つまみ者で時々陰湿ないじめを受けていたこともあった。だから俺がちょっと可哀想になって会話の相手になってやったりしていたら自然と親しくなってしまったというわけだ。それでも山本の粘着質はことあるごとに俺を呆れさせることがあった。ブルドッグになったとしてもその粘着質は変わることはないだろう。餌一つのねだり方にしてもその粘着質は発揮されるに違いない。餌をくれ餌をくれ餌をくれとブルドッグの山本は一日中俺の足下で吠え続け唸り続けごねり続けるのだ。俺はそんなので困りたくない。考えただけでも鬱陶しいから俺は考えるのを止めた。

「何がたるいんだ」と俺は会話の礼儀だから相槌を打ってやる。「たるいんだ」「何がたるいんだっての」「とにかくたるい」「たるいたるい言ってちゃ分かんねーが」「全てがたるい」「全てか」「そうだ全てだ」「そりゃ困ったな」「あー困った困ったたるいたるい」

こいつは駄目だ。ただただたるいたるい言うばかりでてんで話にならない、というかまともに話もしたくないんだろう。俺のご親切な相槌にも適当に応えやがって失礼な奴だ。

「勝手にしろ」と俺は言い捨てて山本ブルドッグの方を向くのを止めた。「一生たるがってろ」

ブルブルブルブル

やることもなかったので教科書を開いて真面目くんを装おうとすると山本の席から普段あまり聞かない、というか聞いたこともないおかしな音が聞こえたのでそっちに目を遣ると、山本の姿はそこにはなかった。代わりに山本が座っているはずだった椅子の上に何かが置かれていた。ぬいぐるみのような毛に覆われたもの——ブルドッグ。

ブルブルブルブル

そいつが音を出しているのは間違いなかった。顔のパーツの全部が鼻の方にくしゃりと寄せられている黒みがかった顔、重力に抗うことなくだらりと垂れた頬、丸々と太らせた身体を支えるに相応しく生えた太い四つの足。それが椅子に座って俺の方へその大きな丸い目を向けながら、喉を小刻みに震わせて音を鳴らしていた。

「……山本?」と俺は犬に向かって問い掛ける。いや、犬に人間の言葉が通じるわけがない。俺は馬鹿か? 問い掛けてから俺は俺のしたことを反省した。しかしその場ではそうせざるを得なかったのだ。こいつは山本だ。たぶん。犬が突然山本と置き換わった形でこんなところに現れるはずがない。こいつは間違いなく山本で、山本はブルドッグに姿を変えちまったんだ。たぶん。

「ブルブルブルブル」と犬は依然として呻っている。俺は試しに問い掛ける。「ブルドッグになっちまったのか?」「ブルブルブルブル」「おい、お前は山本か?」「ブルブルブルブル」「山本じゃないのか?」「……」「山本か?」「ブルブルブルブル」「突然紛れ込んできた野良犬か?」「……」「山本なんだな?」「ブルブルブルブル」

分かった、こいつはどうやら日本語が通じる。呻ることで肯定文と否定文だけは使い分けられるようだ。犬になったら途端に賢い奴だ。

しかし一体なぜ山本が突然ブルドッグになってしまったのかは分からない。山本も山本の方で実は普段からブルドッグになってみたいという気持ちがあってそれで今回ブルドッグの神様か何かが突然舞い降りてきて願いが叶ったとかそういうロマンティックなストーリーも考えてみたがそれはいくら何でもあり得ない。いやそれを言うなら突然俺の隣にブルドッグがいるなんていうこの目の前の現実もあり得ない。山本という人間がブルドッグになったということもなおさらあり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない。俺の目の前では普通では全くあり得ないことが現在進行形、アイエヌジー形で起こっている。

周りを見渡す。他の奴らはみんな犬がここにいるということにすら気付いていない様子で紙飛行機を飛ばしたりぺちゃくちゃ喋ったり弁当を食べたりとまあ気楽でいいことだ。俺は自分だけがこんな訳の解らない状況に置かれているのが嫌だったから山本とは反対の隣の席にいた眼鏡坊主の斉藤に声を掛けた。「ここにブルドッグがいるだろ、見えるか?」

「……佐々木くん、立ち直れていないんだね」「何言ってやがる」「ブルドッグか何だか知らないけど、もう山本くんはいないんだよ」「いないんじゃない、山本が犬になったんだ」「現実を見ようよ」「あ? 喧嘩売ってんのか?」「辛いかも知れない。でも、現実からは逃げられない」

こいつも駄目だ。話がまるで噛み合わない。俺と斉藤とはお互いに別の世界にいながら懸命に声を上げて会話をしているようで疲れる。俺はこれ以上無駄なエネルギーを使うのももったいないから話を切り上げた。現に隣にはブルドッグになった山本がいて、俺とは呻る呻らないのデジタルな手段で話をしていた。そのはずだった。

山本の机の上には、菊の花の差された花瓶が置かれていた。椅子の上には、先ほどまで話をしていたはずのブルドッグの姿もたるいと言っていた山本の姿も見えなかった。

「佐々木くん。山本くんは、昨日亡くなったじゃないか」

……そうだったね。

 

捕縛、妄想の終焉

月の女の子宮の中は、確かに温かかった。温かくて気持ちが良くて、このままここで横たわっていれば身体も意識もまるごとどろどろに溶かされてしまって、僕という存在が僕の知っているありとあらゆる空間から消えてなくなってしまうんじゃないか、そんな予感さえ覚えるほどだった。

けれどこのまま僕が消えるのは御免だ。僕はまだ消えるわけにはいかない。死ぬわけにはいかない。まだ20そこらの年齢で死ぬには早すぎる。それに僕にはやるべきことがまだある。シロと一緒に、月の女の企てを防ぎ妨げなければならない。その前にこの月の女の胎内で、消されるわけにはいかないのだ。僕はここから、脱出しなければならない。脱出して、再び月の女の企てに立ち向かわなければならない。

そこまで思ったところで、僕はふと気付いた。気付いてしまった。

——月の女から守る。……何を?一体何を守るために、僕はシロと一緒に月の女と対峙しているんだろう?そもそも、月の女の企てとは何だろう?何の目的で僕たちに付きまとい、脅かすような出来事を起こしたりしたんだろう?そして果てには僕を浚い、自分の胎内に閉じ込めたんだろう?

シロは、確かに月の女に狙われていた。そしてシロと同じように何の罪もない猫たちが狙われ、おそらくは月の女に浚われて消えた。

けれどもそれは、そもそもの話僕とは何の関わりもないことだった。どれもこれも、僕がシロを拾ってから起きた出来事だった。つまり僕がシロと出会わなければ、僕がそのような出来事を知ることもなかったし、月の女の存在を知ることもなく、関わることすらもなかった。きっと今も、月の女の子宮に閉じ込められるなんて滑稽な事態にもならなかっただろう。

「あの雨の日に、人間の言葉を喋る不思議な白い猫に出会ってさえいなければ、僕はこんな面倒な目に遭うこともなく、ずっと平穏な毎日を送っていられた筈なのに」

そうかも知れない。と僕は、僕のものではない声に同意をする……、いや、するわけにはいかなかった。何故ならそれは、この壁を通じて聞こえる声——月の女の声だったからだ。

「そう思っているんでしょう?」と、月の女は語り掛けてくる。それは穏やかなものでありながら、挑発的な感情が込められているようにも僕には聞こえた。

僕はそれに答えることなく、月の女に問い返した。

「教えて欲しい。一体どうして、僕をこんな所に閉じ込めたんだ?」

「何故ならそれは、貴方には足りないから。全てが、足りないから。貴方にはその中途半端な全てを忘れて、再び育ち直すことが必要だから」

「足りない?中途半端?……意味が解らない」

「意味が解らない?本当は、解っている筈。全てにおいて足りない自分のことを、誰よりも貴方自身が解っている筈」

解っていた。もう、否定のしようがどこにもなかった。

月の女は、僕の心の内を全て知り尽くしている。僕がいかに自分の能力の乏しいことに劣等感を抱いているか、そしてまた僕が今しなければならないことは何なのか。その全てを、月の女は間違いなく、僕と同じように知っていた。

今の僕は、月の女と対等に向かい合う力を持ち合わせていない。僕がどんなに本気で力を出そうとも、月の女の前では全てが無力であるに等しかった。

「僕はここから、出られるのか?」

「眠りなさい、か弱い子。暫くの安らぎを、貴方に与えてあげる。私も、忌まわしい猫も、UFOもいない、穏やかな安らぎの時を、あなたにあげる」

そして、僕は“安らぎ”という名の眠りに落ちていった。


月の女が孕んだ僕がこの先、心も体も未熟なまま堕とされるのか、再び外の世界に産まれ出でるのか、僕には分からない。そして例え同じ世界に還ってこられたとしても、そこに以前と同じ生活があり、シロがいて、また月の女との対峙が待っているのか、それも分からない。

「全ては、貴方次第……」

意識が遠のく中、かすかに月の女の声が聞こえた。いや、それはただの雑音だったのかも知れない。

 

御花見2

それから私と山本さんは、公園を一周してゐると云ふ遊歩道を竝んで歩いた。きちんと整備された遊歩道は、薄く桃色に染まつた櫻の花々に圍まれてゐる。それは丁度、トンネルのやうになつてゐた。

その下をくぐるやうに通り拔けながら、私たちは色々な話をした。昔の學校の思ひ出話から、今のお互ひの暮らし。幼馴染みであるだけに、私たちの会話はトンネルの向かうに見える噴水から水が噴き上がるのと同じやうに次から次へと湧いて出て來て、止ることを知らなかつた。

“話に花が咲く”と云ふのはかういふことだらう。一方の櫻の花の方はその間も勿論綺麗だつたが、私は嬉しさうに話をする山本さんの顏の方に許り氣を取られ、櫻の美しいことを思ふ餘裕を与へられなかつた。彼女の方は何うだつたかは分からないが、私は櫻の花咲く周りの空間も關係なく、ただ山本さんと二人きりの閉じた場所に居るやうな氣にさへ囚われてゐた。

そんなものだから、私は足許に段差があるのをつひ見落として足を躓かせて仕舞つた。「きゃあ」と發した時には最う遲い、私は幾分派手にすつ転び、膝から地面に落つこちた。辛うじて反射神經が働いたお蔭で手が先に出たから、顏は何うにか打たずに濟んだ。

「大丈夫?靜子さん」

直ぐに山本さんが心配さうな顏をして横に寄つてきてくれた。不可ない、山本さんに心配されるなんて。私は「ええ、大丈夫」と苦笑ひをしながら起ち上がつて、服に附いた土を拂い落とした。

その時、不意に強い風がひゆうと邊りに吹いた。突然の風に、周りの花見客からはきやあきやあと云ふ騷がしい聲が上がつた。風は帽子やら傘やら紙屑やらを惡戲のやうにそこら中に卷き上げて、そのまま去つて行つた。

「あら、迷惑な風」

風は、取つて置きの惡戲も仕出かしてゐた。周りの櫻の花を掻き亂すやうにして、散り拂つて行つたのだ。お蔭で櫻のトンネルは、直ぐに薄い桃色で一杯に溢れた。

今まで見たことのないやうな光景に、私は思はず燥いで聲を出した。

「わあ、櫻吹雪!ほら」

「……」

私の呼び掛けに山本さんは何も応えず、ただ默つてその視線を舞ひ落ちる櫻の花へと向けてゐた。

「山本さん?」

「……櫻が綺麗なのはね、直ぐに散つて仕舞ふからなの」

さう言つた時の山本さんの顏に、ふつと影が差したやうに見えた。彼女は依然として笑顏だつた。しかしその間に差す影から、裏に隱された何か深く暗いものが顏を出してゐた。それを見て私は、途端にぎよつとした。心臟が何かに強く摑まれて締め附けられるやうな氣持ちを覺えた。

「直ぐに散つて仕舞ふことをみんな知つてゐるから、分かつてゐるから、その分だけずつと櫻は綺麗でゐられるの」

何故か私には、返す言葉が見當たらなかつた。懸命に心の中を探つても、何一つ適當な單語の一缺片すらも浮かんで來なかつた。

私はただ、もどかしかつた。何も言へない自分に苛立つてゐた。

……言へる筈がなかつた。

山本さんの顏に影を見てゐた私が押し默つてゐることに氣が附いたのか、山本さんはその影を直ぐに引つ込めた。そして私の手を取ると、「ね、廣場の方へ行きませう」と明るい聲で言つた。

先程の薄暗い影が同じ顏に現れてゐたとは思へないほどの明るい顏に、私は先程の山本さんの言葉が幻の中に聞こえたものなのではないかと疑つてさへ仕舞つた。しかしそれは紛れもなく、確実な感覚に聞いた言葉だつた。

その後山本さんはあの影を見せることもなかつた。感じさせることもなかつた。だから私はあの時に一瞬覺えた困惑を忘れながら、御花見の時を樂しく過ごせたのだらう。あるいは山本さんの方も、忘れてゐたのかも知れない。


それから暫くして、櫻の花は全て散つた。

あれほど滿開に咲き亂れ人々を喜ばせてゐた櫻がまるで噓だつたかあるいは夢の中の光景だつたかのやうに、最うあの公園には春の華やかさは何處にも見えなかつた。

代はりに若々しい、しかし力強ささへ感じさせる緑の新芽が處々に吹き出してゐた。公園の噴水の周りには幼い子供たちが集まつて、強くなつた陽差しの下で甲高い聲を上げながら走り回つてゐた。

山本さんはあの時、最う自分の行く先のことに感附いてゐたのかも知れない。いやひよつとしたら、それよりもずつと前から悟つてゐたのかも知れない。それで、私を御花見に誘つたのかも知れない。さう今では思へる。

私があの御花見の時に見た笑顏は、決して華々しいだけの夢の中に見たものではなく、現實の中にこの目で見たものだつた。それは今も私の中では消えてはゐない。あの時と何も変はらず綺麗なままに、私の中で咲き續けてゐる。

そして今後もずつと、咲き續けるのだらう。

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