茨城症候群

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月の女

月は沈み、文月が始まる

「見てご覧、月が沈んでいくよ」

かわたれ時に、僕は西の方へ沈む月を見た。ほんの少し前までは、あんなに上の方にあって輝いていた月が、今ではもう光を失いかけて、空の向こうへ消えようとしている。

代わりに東の方には、力を取り戻したかのように光を放つ太陽がだんだんと空へ昇る様子が見える。久し振りに見掛ける、真っ白で真っ直ぐな、力強い光だった。

「白い月の女なんて居なかったんだな」

ベランダの椅子にちょこんと乗っているシロが、少し残念そうな顔をして言う。

「うん、きっと誰かが悪い夢を見ていたんだろう」

僕はそう言って、シロの頭を撫でる。シロはにゃあと鳴くと、部屋の中へ入っていった。

シロに続いて、僕は部屋へ戻る。戻り際に西の空を見ると、もうすぐ月が消えるところだった。僕は月が沈み終わるのを見届けず、部屋へ入っていった。

「もう今年も、半分が終わったんだね。もうこれからは、夏だよ」

「夏か。おいらは、夏なんて嫌いだ。暑いからな」

シロは、お気に入りの場所なのだろう、いつものテーブルの上へ乗って、次第に明るくなる日の光を浴びながら、前足で顔を洗っていた。

「今年はクーラーがんがんで頼むよ」

「猫は猫らしく、部屋の中じゃなくて、外の車の下で涼んでいればいいさ」


七月が、始まった。

幸せの空

もう六月の月は沈んでしまったけれど、私はこうして、青い空の下で大きく背伸びをしている。心地良いそよ風の吹く丘で、少し強くなった太陽の光を身体一杯に浴びながら、背伸びをしている。

もうあの白い服を無理矢理着せられることもない。私は私の思い通りの服装をして、ここに立っている。それが、全て。

幸せ、と言われればその通り幸せなのかも知れない。けれど、私はそんな幸せの中にもどこか寂しさが感じられて仕方がなかった。

それはとてもとても小さいのだけれど、底のないような得体の知れなさを窺わせる、どっしりとした重みのある寂しさ。イメージとしては光りをも吸い込むという真っ黒なブラックホールと似ているのだけれど、私の中のこの寂しさからは真っ白い重さという感じを受ける。

だから私は、今の私が円満な幸せの状態にあるとは思えない。それどころか、何か掛け替えのないものを失ってしまった感じがして、その点に悲しみにも似た気持ちを抱いている感すらある。

確かに私は、六月の月に心を囚われた挙げ句に脅かされていた。毎日白い服を着せられて、迷いという歪みの生じた心を持つ人々に"音"を伝えるように強いられていた。

どうしてそんな人々に"音"を伝えなければならないのかは私自身は理解していなかったけれど、とにかく私はそうしなければならなかった。もしもその役目に背いたなら、六月の月は私という存在を一瞬にして闇の彼方へと消し去ってしまう、と言われていたから。

けれどそれも、そもそもは私が六月の月に魅せられたのがことの始まり。六月の月に心を囚われることがなければ、私は彼が沈んで見えなくなるのを待つこともなく、とっくのとうに月の下から逃げ出していたに違いない。

そうしなかったのは、私が本当に六月の月の放つ光の妖しさに惹かれていたから。心の底から、彼に惹かれていたから。

だから私は、六月の月に大人しく従っていた。そうすれば、私もいつか彼の隣、いや、彼と一つになれることもあり得るかも知れない、と思っていた。むしろ、期待すらしていた。

けれど結局、それは叶うことがなかった。叶わないまま、六月の月は自らその身を消して去っていった。私を置いて、消えていった。

六月の月への想いが募る一方で、心のどこかで彼への畏怖があったから、私はこうして表向きは幸せな七月を迎えているのかも知れない。

平穏な日々は、寂しさの代償。きっと、そうなのだろう。


「おーおつーきさんっ。何やってるの?」

その声に後ろを振り向くと、月、じゃない、同じクラスの友達、山本さんがいた。

「ううん。……綺麗な青空だと思って、少し眺めていたんだ」

雲一つない、青い空。当然、六月の月も見えるはずもない、ただ青だけが一面に広がる、透き通った七月の夏の空。

それは確かに私自身が言った通りに綺麗な空ではあったけれど、そんな綺麗なだけの空では、やっぱり私の中のどこか寂しい気持ちは拭えなかった。

「大月さん、なんか寂しそうだね。何かあった?」

「ううん、何もないよ。ただ、ただね……」

「ただ?」

山本さんが横から私の顔を覗き込む。私は溜め息を一つ吐いて、青空を見ながら言う。

「……もう六月の月は、沈んでしまったんだなあ、って」

それが山本さんに通じたのか通じなかったのか、きっと通じなかったのだろうけれど、彼女は笑顔になって返す。

「何だかちょっとセンチメンタルになってるんだね。そういうこと誰にだってあるもん」

誰にだってある。果てしてそれは本当なのだろうか。私には、そうには思えない。山本さんが月に魅了されて、その月から下された役目を以て人々を狂気に陥れる。そんな体験をすれば、決して"誰にだってある"なんてことは軽々しく言えなくもなるだろう。

けれど私には、彼女を責めるつもりもない。彼女は何も知らないのだから。何も知らないことは罪ではないけれど、何も知らないことをただ詰るのは罪。私にはそんな罪を作ることはできない。

「さっ、帰ろっ。日が暮れちゃうよ」


そして私は、ずっと後で知ることになった。この山本さんと、彼女の一族を取り巻いている運命を。

「今日といい昨日といい、無闇に暑いな」

「うん、暑いね」

暑さにうんざりした様子で地面にべったりとへばり付くように寝そべっているシロに、僕はうちわをぱたぱたと扇いでやる。うちわの上下の動きに従うように、シロの白い毛と髭がそよそよとなびく。

「それに最近、地震が多い」

「うん、多いね」

シロは寝そべりながら、目を閉じ、顔も体も動かさずに話している。こんな様子のシロは、いつも大抵何かを考えている。きっとまた、おかしなことを言い出すに違いない。

「……これは多分、地の底の大鯰が動き出したんだろう。そうに違いないぜ」

「うん、そうだね」

ほら、来た。僕の予想通りだ。何年も生活を共にしていると、二口目には何を言うかすら分かってしまうものなんだろう。

シロは何処から知識を仕入れたのかはしらないが、僕が随分前にシロを拾ってきた時には、大鯰やら月の女やら、既にそういった話に通じている程だった。

まあ、猫が言葉を話すという時点で僕は驚いたのだけれど。もう今では、そんなことは僕の中では当然になってしまっている。

「おいら、ちょっと鹿島さんの石の様子を見て来ようと思っている」

「鹿島神宮の?」

僕はうちわを扇ぐ手を止めた。するとシロはこちらをじろりと向く。どうやら扇ぐのを勝手に止めるなとでも言いたいのだろう。僕が再びうちわを扇ぎ始めると、シロはまた元通りに向こうに顔を向き直した。

鹿島神宮といえば、地震を起こす大鯰を抑えていると言われる要石が置かれていることで知られている神社だ。けれど大鯰が地震を起こすやら石で大鯰を抑えるなんて、科学的根拠もない土着の迷信というか伝承に過ぎない、と僕は思っている。

それを冗談の欠片も見せずに至って真面目に言うものだから、正直僕は戸惑った。鹿島神宮へ行く、とシロは言うけれど、まさか連れて行け、とでも言うつもりなのだろうか?

乗り換え一回で鹿島臨海鉄道に乗り換えれば鹿島神宮へは行けるものの、ここからでは二時間は掛かる。この暑い夏に、そんなのは御免だ。行くなら一人、いや一匹で行け、とでも言いたいけれど、歩いていくのは大変だから連れて行け、と実際に言われれば、きっと僕は一緒に行ってしまうことになるんだろう。

「きっと山本の所のバカ猫がサボってやがるから、石がずれちまったんだ。あのバカ猫め」

「石がずれたから、鯰の動きが活発になって地震が多くなっている、とでも言うの?」

「ああ、そうだよ。そうに違いない。そうとしか考えられないな」

シロは相変わらず寝そべってはいたけれど、横から覗いて見ると、その顔には何処か怒っている様子が見て取れた。"山本の猫"についてはシロの口からは以前から何度か聞いたことはあったけれど、詳しいことは僕は知らなかった。

「ああ!あのバカ猫をとっちめてやりたいが、そんなのは後回しだ。おいらは行かなきゃならねえ」

シロはそう言うと、のっそりと立ち上がった。そして大きく体を前後に伸びをすると、こちらを振り返って言った。

「もうおいらは今すぐにでも行かなきゃ駄目だ。しばらく留守にするぜ。月の女はまさかここには来ないとは思うが、まあ気を付けてくれよ」

月の女

真っ昼間の暑い最中、俺は玄関に寝っ転がっていたんだ。二つ折りにした座布団を枕代わりにして、冷たい床の上に半裸になってごろごろと転がってね。俺の家の玄関って北向きだから、風通しが一番いいんだよ。ドアを半開きにして、玄関の反対側にある居間の窓も全開にすると、そりゃあもう心地いい風がスースーと入り込んできてさ。

そんなことをしていたら、ドアの向こうから声が聞こえてきたんだ。か細い、弱々しい声がね。

「こんにちは……」

ああ、俺は驚いたよ。驚いたというより、怖かった。だってさ、チェーンを付けていたからといって、ドアを半開きにしていたんだから、間違いなく覗かれていたんだよ。玄関で横になっている半裸の俺の姿をさ。

正直、止めて欲しいよな。こういうプライバシーって言うのかな、私生活をみだりに見ることはさ。俺はそう思ったから、慌てて飛び起きてTシャツを来て、半開きのドアの隙間越しに外を見た。内心怒りを抱えながらね。

「こんにちは……」

声の主だろう、そいつがドアの隙間にひょこっと顔を出すと、さっきと同じ言葉を言った。一度言えば分かるんだよ、馬鹿野郎。

隙間から見えた声の主は、俺と同い年くらいに見える若い女性だった。そいつは微笑みを顔に浮かべながら細くなった目で、俺を見ていた。

ふん、そんな偽善的な笑顔をよくもまあ堂々と晒しやがって。どうせ宗教かなんかの勧誘だろう。あいにく俺は無神論者だ。宗教のしの字でも出してみろ、問答無用ですぐにドアをぴしゃんと閉めて鍵を掛けてやるからな。

「何かご用ですか?」

ドア越しに俺がわざと不機嫌そうな低い声で問うと、その若い女は表情を変えずに答えた。

「こんにちは……」

またそれか。何度言えば気が済むんだ。お前はこんにちは星人か。それともただの冷やかし魔か。俺は涼むのに忙しいんだ。こんにちは星人でも冷やかし魔でも、構っている暇なんてないんだよ。

「こんにちは……」

なおも女は同じ表情で、同じ言葉を繰り返しやがった。これはおかしい、と俺は思い始めた。一二度ならず、四度も「こんにちは」だぜ。突然、俺は背筋に走る寒気と共に一抹の不安に襲われて、この女が不気味に思えてきた。

不幸にも、この俺の不安は当たってしまったようだった。

「こんにちは……」

女は、こちらが問い掛けてもいないのにも関わらずに、また同じ調子で挨拶をする。その顔と声は、俺にはもう不気味としか感じられなくなっていた。おい、一体何なんだ。どうしてそんな笑顔で「こんにちは」を俺に掛け続けるんだ。止めてくれよ、止めてくれ。

俺は何だかもう怖くなって、急いでドアを閉めて鍵を掛けた。おお怖い。きっとあいつは幽霊か何かに違いない。こんにちは幽霊だ。しかし幽霊が真っ昼間に現れるものだろうか?いやそんなのはどうでもいいい。問題なのは、今俺の目の前に、この未知なる存在が迫っているということだ。

「こんにちは……」

ドアを閉めても、その向こうからまだその声は聞こえてきたんだ。そしたらもう不気味どころじゃない、命の危機に準じるような程の恐怖を感じて、俺の全身が震え上がっていた。俺はへなへなと玄関の床に座り込んだ。気付くと、変な汗で身体中がびしょびしょになっていた。言っておくけれど、お漏らしじゃない、汗だ。それも暑さのせいじゃない、恐怖のせいだ。俺はもう今までに経験したことのない恐怖に襲われていたんだよ。

「こんにちは……」

まだ声は聞こえたから、ああ俺はもうだめだ、こんにちは幽霊に呪い殺されるんだ。そう思って、自分の部屋に戻って万年床の布団の中に潜り込んだ。

それでもだ。俺の耳元で囁いているかのように、あの声は聞こえてきやがったんだ。

「こんにちは……」

だめだ。だめだ。だめだ。布団の中もだめだ。きっとトイレに行ってもだめだ。どこへ行ってもだめだ。あの声は俺を追い掛け続けるつもりだ。俺を殺すまで、いや、下手をすると俺を殺してもなお俺を追い続けるのかも知れない。

俺はもう冷静な思考もできなくなって、ぎゃーと叫んでベランダから飛び降りた。それっきりさ。

幸いなことだけど、今俺はここに来て、もうその声は聞こえなくなった。本当に良かったよ。助かった。俺は助かったんだ。

ただまあ、こんな小さい猫になるとは予想外だったな。婆さんに近付いてニャーニャー言っていれば煮干しやらを沢山くれるから、案外暮らしやすいけどさ。君ももしかして、こんにちは幽霊に襲われたのか?


「まあ、そういうことだ。鹿島さんで会った仔猫の話」

シロは僕に長い話を聞かせ終えると、ふう、と小さく息を吐いて、扇風機の前へ行き体を涼ませる。

「月の女は、その男を追い詰めて、命を奪ったんだ。しかも真っ昼間にな」

ふわふわとシロの毛が扇風機の風になびいて、シロは気持ちの良さそうな表情を浮かべる。

「それはまさか、雑音を使って?」

「……間違いない、雑音だ。月の女は自在に雑音を操ることができる」

シロは目を閉じて、顔を床に寝かせる。さぞかし風が気持ちいいのだろう。そんなシロの様子は、電気代をけちって冷房を入れたがらない僕にとって、シロへの申し訳なさを少しながら打ち消した。

「おいらが鹿島さんで会おうとした山本の猫は、もう月の女に連れ去られちまった。道理で鹿島さんの石がずれた訳だ。全ては月の女の仕業だ、畜生」

そしてシロはぎょろりと鋭い目を僕へ向けて、こう言った。

「くれぐれも月の女には気を付けろ。あいつはいつ、何処にでも、どんな形でも現れる。神出鬼没だ」

気象情報

『……東北から東海地方に掛けて、上空の大気は非常に不安定な状態が続いており、今週いっぱいは突発的かつ局地的な豪雨に注意が必要でしょう。ただいま県全域には気象庁より、大雨洪水警報、雷注意報及び竜巻注意情報が発表されております。また県南部では、一時間に百ミリを越える雨量が観測され、記録的短時間大雨情報が発表されました。県南西部では土砂災害警戒情報も発表されております。今後の気象情報に十分ご注意下さい……』

「……」

シロは珍しくテレビに見入っている。まるで何かに取り憑かれたかのように、テレビの真正面に体を据え、天気キャスターの告げる言葉に耳をピンとそばだてたままぴくりとも動かさず、鋭い目を大きくさせて、何も言わずに画面に食い入っていた。

シロがこれほどまでに熱心な態度を見せたのは、久しぶりだった。そう、確か僕がマタタビを買って帰ってきた時、二年も前のこと以来だ。


その頃の僕は、猫はマタタビが好きだということを知っていたものの、実際に猫がそれをどう好むものなのかは知らなかったから、物は試しとばかりにペットショップで見付けたマタタビを買ってきたのだった。

家へ帰り、袋をビリビリと破いて中のマタタビを取り出した途端、シロの様子が一変した。それまで窓際のお気に入りの椅子の上でひなたぼっこをしていたのが、匂いに敏感に反応したのか、むっくりと立ち上がってこちらを睨んだ。「おいそれは何だ」とシロは訊くから、僕が「マタタビだよ」と答えると、シロは突然表情を一変させて「寄越せ、寄越せ」と気が狂ったかのように何度も大きく叫んで僕に飛び掛かってきた。

あまりにも突然シロが攻撃的になったものだから、僕は驚きのあまり腰を抜かしてしまうほどだった。僕が後ろに倒れた隙にシロは僕の手からあっという間にマタタビを奪い取り、次の瞬間にはハアハア言いながら床で転がっては腹ばいになったりしてマタタビとじゃれていた。

いくら声を掛けても全く反応しないほど熱心にマタタビとじゃれ続けるシロを見ながら、ははあこれほど猫はマタタビが好きなのかと思って感心した。けれども僕は同時に、尻餅を付いた場所の痛みがだんだんと増してくることに不安な違和感も感じていた。

座ればいちいち鋭い痛みを覚えるようになってから渋々病院へ行くと、結局尾てい骨にひびが入っているということだった。診断で痛みは消えるわけもなく、続く痛みを抑える為におかしな歩き方のまま家へ帰ると、シロはまだマタタビとじゃれていた。

その出来事で、猫がどれほどマタタビを好きなのかを実感することはできたのだけれど、その代償は大きかった。言うまでもなく、僕はそれ以来、マタタビを買うことは控えている。


まあマタタビはもうどうでもいい。とにかく今のシロは、かつて自らの知覚を放棄するほどに熱中したマタタビと同じように、テレビの気象情報を熱心に聞いている。

「シロ、そんなに天気が面白いの?」

僕が笑いながらそう訊くと、シロは顔を半分だけこちらへ向けて一瞬いつもよりも鋭く睨んでから、またテレビへと顔を向け返す。まるで黙れと言わんばかりのシロのその態度に、僕はある疑問を頭に浮かべた。

――月の女。まさか、シロはここ数日の突発的な豪雨も、その月の女の仕業だとでも言うんじゃないだろうか。その為の情報収集として、こんなにも熱心に気象情報に食いついているのかも知れない。

この酷い天気の荒れようさえも月の女の仕業だなんて、そりゃいくら何でも有り得ない。もともとオカルトチックな“月の女”の話を、こんな気象の話にまで広げて絡めるなんて。

「……ねえ、シロ。もしかして、これも、月の女、が起こしているとか思っているの?」

僕は恐る恐る訊いた。すると、返ってきたのは意外な言葉だった。

「なに、月の女?」

ちょうどテレビの気象情報が終わったようで、シロは先程とは打って変わった表情で僕を振り返り見る。その目には刺して威嚇するような鋭さはなく、ただいつものように猫の目としての鋭さだけがあった。

僕はシロの表情に少しだけ安堵して、一方で戸惑いを覚えながら、訊き直した。

「この変な大雨も、月の女が関わっているの?」

「何だ、あんたも月の女にすっかり毒されちまったんだな」

皮肉っぽくシロが鼻で笑う。笑われて、僕は少し恥ずかしくなった。

シロが熱心に気象情報に見入っていたのは、気象と月の女との関連を疑っていたからではないらしい。それでは何か、月の女の他にもシロと対峙した関係にある存在がいるとでも言うのだろうか。

「月の女は天気を操るなんて手の込んだことはしないさ。あいつはもっと陰気臭い、いやらしい手を使うんだ」

「それじゃ、どうしてシロはさっきまであんなにテレビに釘付けになっていたの?」

「ああ、それはな」

シロは一呼吸間を置いてから、言った。

「お天気お姉さんの声が、あまりにも官能的だったからだ」

僕には返す言葉がすぐには見当たらなかった。シロがそんなことでテレビに見入っていたとは思いもしなかったからだ。これじゃ、まるで何処かのおじさんと同じだ。

「マタタビのように?」

「そうだ、マタタビのように」

探し猫

「あの、すみません」

突然後ろから声が聞こえたので振り向くと、僕と同年代に見える落ち着いた感じの女性が立っていた。僕はその女性を知らなかったが、日焼けをしていない白い顔にきれいに長く伸びた真っ黒な髪が印象的だった。

「何ですか?」

僕が訊くと、女性は僕に近付きながら、持っていた鞄からごそごそと何かを取り出して、僕の前に開いた。見るとそこには、“この猫を探しています”という大きな文字と一緒に、真っ白な猫の写真が載っていた。

「あの、飼い猫を探しているんです」

「飼い猫?」

「ええ。もう一週間も前に家から突然いなくなってしまって……。この子、知りませんか?どんな情報でもいいんです。どこかで見掛けませんでしたか?」

女性は今にも泣きそうな様子になりながら、必死に僕に問い掛けた。愛猫が姿を消してしまったことに、よっぽど悲しみを感じているのだろう。何とか力になれるものならなってあげられないものだろうかと思いながら、女性の差し出した紙を手に取って写真の中の猫の姿と記憶とを照らし合わせようとした。

と、僕はあることに気が付いた。

「この猫……」

「え、この子を見たことがあるんですか!?どちらで、どちらでお見掛けしたんですか!?」

「いえ、すみません。勘違いでした。ちょっとこの猫は見たことがないですね」

僕がそう言いながら紙を返すと、女性は肩を落としながら溜め息を吐いた。

「そうですか……。すみません、ありがとうございました」

女性はしょんぼりとうつむいたまま、去っていった。僕はその後ろ姿を、路地を曲がって見えなくなるまで横目でじっと見ていた。それは別に僕が彼女に一目惚れをしたからでも何でもなく、彼女に疑念を持ってのことだった。

何故なら、あの写真に写った猫は間違いなくシロだったからだ。

一年も前から毎日一緒に暮らしている猫を、僕が見間違えるはずがない。間違いなく、シロの姿を写した写真だった。

こんなことが出来るのは、彼女——“月の女”しかいない。“月の女”は、確実に僕とシロに近付いて来ている。あの女性が“月の女”本人であったかどうかは分からない。どちらにしても、これは“月の女”の挑発に違いなかった。

一刻も早く、シロにこのことを知らせなければならない。女性が見えなくなるのを待ってから、僕は家へと駆け出した。


「……ふん、上手くかわされちまったねえ」

「ふふ、今日はご挨拶だけ。向こうに例の猫がいるのは間違いないことだし、こっちがいつどう出てくるかを警戒しているんでしょうね」

「例の猫……、シロか」

「そう。あの真っ白なかわいい子。……私の下から逃げ出した、掟を破った卑怯な子」

「あんたが音を使えば、あんな奴なんて遠くからでも簡単に消すことだってできるだろう」

「そうはいかないわ。あの子はね、私がこの手で、この手で罰を下してあげるの。もう二度と逃げられないように鉄の箱に閉じ込めて、私を裏切って私に恥をかかせたことを後悔させてあげるの。……あの子がどんなに泣いても、どんなに謝っても、あの子が私のものになるまで、音を聞かせ続けるの」

「おお怖い。女の恨みってのはやだねえ」

「恨み?恨みなんかじゃないわ。ただ罰を与えなければならないと思っているだけ。決まりを破った子に罰を与えるのは、当然のことでしょう?」

猫浚い

『“月の女”、ですか……?ええ、確かに聞いたことはあります。とは言っても又聞きの又聞きですから、参考になるかは分かりませんけど。

私が知っているのは、その、“月の女”がどうも人間に化けていて、この人間の社会へ自然に溶け込んでいるということです。これはタロウさんが教えてくれたんですよ。そこの家のタロウさん。

彼はことあるごとに呟いていました。“月の女”が怖い怖い、って。タロウさんは普段はそんなに怖がりな方じゃない、むしろ怖いものがあれば喜んで見に行くような方だったんですけど、本当に“月の女”に対して強い恐怖心を持っているようで、がくがくしながら怯えているほどだったんです。

何がそんなに怖いの、と訊くと、その“月の女”、猫をさらうんですって。それが怖くて、タロウさんは夜もろくに寝られないそうです。目が真っ赤だったので、本当に眠れてなかったんでしょう。

よく“猫は自分の死期を悟って飼い主の下から去っていく”、なんて言いますけど、あれは嘘なんでしょうね。本当のところは、タロウさんの言うように、彼女が、“月の女”が、自分の気に入った猫を誘って連れ去っているんですよ。

よく考えたらそれもつじつまが合ってるんです。ここ最近、私の知ってる猫が何匹もいなくなってるんですよ。原発の近くの森、育ちの悪いのもいくらかいるんですけど、そこの野良猫も数匹の姿が見えなくなった、なんて噂も聞いたことがあります。

こんなに短期間のうちに多くの猫が他の地へ移住するなんて、これまであったことがないんです。だからこれは移住なんかじゃない。何らかの意図が働いて、その猫たちはいなくなってしまったんです。つまり、“月の女”がさらったんですよ。それ以外に考えられません。

さらってどうするのかは分かりませんけど、きっと酷いことをされるんでしょう。口にもできない酷いことですよ。猫鍋にされてしまうかも知れません。刺身にされてしまうかも知れません。剥製にされてしまうかも知れません。ああ、考えただけでも恐ろしい。

だから、すぐそこを通る人間全員が彼女ではないことが確かでない以上、誰も信用しちゃいけないんです。まあ、もともと人間なんて信用しちゃいけないんですけどね。人間って、自分の都合が悪くなれば平気で手の平を返すでしょう?だいたい自分たちが賢いなんて思い込んでるのがいけないんです。傲慢なんですよ。

ええ、でも中には親切な優しい人間だっていますよ。裏切るような傲慢な人間がいれば、捨て猫を拾って最期まで面倒を見てくれる人間だっているんですから。

だからこそ、余計に“月の女”の存在が怖いんです。彼女が数少ない良識ある人間に紛れて、私たちをかどわかそうとしている。これは確かなことなんですから、その一部の人間さえ信じちゃいけないことになるんです。

そんなですから、私も心配で心配でたまりません。ほら、私って頭も切れて毛並みも良くて、スマートですから。

シロさんも用心した方がいいですよ。道端でお菓子をくれる人間は一見親切そうですけど、もしそれが“月の女”だったら、お菓子と引き換えに永遠にこちらの世界に帰れなくなるんですから。

……そう言えば、“月の女”から逃げてきた猫が二匹いたということも聞いたことがあります。なんでも、全身が真っ白でつやのいい毛をした猫、それと全身が真っ黒くて金色の目をした猫だとか。

一体、どうやって逃げてきたんでしょうね?もしも“月の女”に捕まったときのために、逃げる方法を聞いておきたいくらいです』


「その話をしてくれた彼女は、翌日忽然と消えてしまったんだ」

シロはお気に入りの椅子の上に乗って、窓の外の雨空を見上げながら言った。その後ろ姿が、僕にはとても寂しげに見えた。

「凛々しいシャム猫だった」

「……その猫も、“月の女”にさらわれたのかな」

「そう考えるのが、自然だろうな」

シロはそう言うと椅子を降り、テーブルの下へ向かった。少しの間テーブルの脚に向かい合った後、突然がりがりと音を立てて勢いよく爪を研ぎ始めた。

「くそっ!奴は、“月の女”は、おいらを挑発しているんだ!畜生っ!」

いつになく激しい爪研ぎは、テーブルの上に置かれたコップを大きく揺らすほどだった。いつも冷静なはずのシロがここまで感情を剥き出しにしている様子は見たことがなかったから、僕は爪研ぎを止めるように言い出すことさえできなかった。

水無月の囚人

何だか心地良いふわふわした場所。オレンジ色だかピンク色だか何と言ったらいいかよく分からないけれど、とにかくそういった気持ちの良い暖色系の空間がぼんやりと見えて僕は目が覚めた。

目覚めの良い朝。爽やかな空気。……違う!僕の周りには爽やかな朝なんてやって来ていない。朝が見えるはずの窓もない。窓どころじゃない、ここは電灯も机も扉もテレビもベッドも何もない、ただ暖色の壁がどこまでもどこまでも続いているように見える、すっからかんの場所だった。

僕はどうしてこんな所にいるんだろう?ここは何処?私は誰?……いや私は僕だ。それは分かる。でもここが何処かは分からない。どうして僕がこんな場所にいるのかも分からない。周りを見渡しても、僕の他には誰もいない様子だった。僕は一人。一人で、こんな場所にいる。

考えている内に何だか僕は寂しくなってきた。自分が寂しいと感じ始めていることに気付くと、頭の中が寂しさで一杯になった。きっと核分裂が連鎖して起こるときもこんな感じなんだろうな。ああ寂しい寂しい寂しい。そのうち僕はとても居ても居られなくなって臨界爆発する。どかーん!

「おーい!」

別に誰かを探すためにその居るべきであろう誰かに向けた叫びじゃない。こんな孤独に僕はただ耐えられなかっただけだ。だって考えてみて欲しい、突然気付いたら見慣れた場所じゃなくて、奇妙奇天烈変てこりんな知らない場所に一人で居る状況。誰だっておかしくなるに決まってる。

だけど僕の叫びは虚しく反響することさえもなく、周りのふわふわに吸い込まれて消えていった。何だこのふわふわ。初めこそ心地良い気持ちの良い場所だと思っていたけれど、何の意味があって僕がこんな場所に居るのか思うと気味が悪くて悪くて仕方がなく思えてくる。

いや待て落ち着くんだ、落ち着け。心臓を今までにないくらいに早く鼓動させている自分自身に言い聞かせて、この状況を何とか受け容れる。僕がこんな場所にいるのは事実だから仕方がない、その事実に至るまでの過程を考えなきゃいけない。

そうして僕は僕の意識を遡る。えっと、眠りに就く前に僕はいつもの通りにベッドの上へ横になった。その前にシロに餌をやり、その前に飯を作って食べ、その前にスーパーへ寄り、その前に大学で講義を受けて……。

……そうだ。“人体解剖学II”。僕はあの講義中に突然睡魔に襲われてその気持ちの良い誘いに抗い切れずに居眠りしたんだ。眠りの中で頭をぽかぽかと叩かれて目を開けると頭の禿げ掛かった講師が目の前にいて僕を睨み付けていた。「おはよう」と言いながらその手に持った箱を僕の顔の真ん前に置いてにやにや。そうやって僕は禿講師の期待通りに驚きの声を上げた。腹をかっ捌かれて内臓を露わにしてホルマリンの海の中に浮き無常を悟ったかのような表情を浮かべるウサギを見ながら。

あの時にきっと時空間に歪みが生じて、現実世界とウサギの内臓とで空間が繋がったんだ。それで僕は今、あのウサギの内臓の中にいる。ほら、よく鼻を利かせれば、あの独特のぷんぷんしたホルマリンの臭いがつんとする、このままじゃシックハウス症候群で倒れちゃう、そんな気さえしてくる。

そんなわけないだろ。ということを僕は分かっていた。ホルマリンの臭いすらしなければ、ここはウサギの内臓の中でもない。“人体解剖学II”が僕にもたらした影響は微塵もない。明らかに、僕は分かっていた。

ただ僕は、否定したいだけだった。目覚めた時から頭に浮かんで消えることのない確信を、どうしても。

ここは、“月の女”の子宮の中だ。

僕は、遂に囚われたのだ。シロももう僕のそばにはいない。頼れるのは、自分自身だけだった。

捕縛、妄想の終焉

月の女の子宮の中は、確かに温かかった。温かくて気持ちが良くて、このままここで横たわっていれば身体も意識もまるごとどろどろに溶かされてしまって、僕という存在が僕の知っているありとあらゆる空間から消えてなくなってしまうんじゃないか、そんな予感さえ覚えるほどだった。

けれどこのまま僕が消えるのは御免だ。僕はまだ消えるわけにはいかない。死ぬわけにはいかない。まだ20そこらの年齢で死ぬには早すぎる。それに僕にはやるべきことがまだある。シロと一緒に、月の女の企てを防ぎ妨げなければならない。その前にこの月の女の胎内で、消されるわけにはいかないのだ。僕はここから、脱出しなければならない。脱出して、再び月の女の企てに立ち向かわなければならない。

そこまで思ったところで、僕はふと気付いた。気付いてしまった。

——月の女から守る。……何を?一体何を守るために、僕はシロと一緒に月の女と対峙しているんだろう?そもそも、月の女の企てとは何だろう?何の目的で僕たちに付きまとい、脅かすような出来事を起こしたりしたんだろう?そして果てには僕を浚い、自分の胎内に閉じ込めたんだろう?

シロは、確かに月の女に狙われていた。そしてシロと同じように何の罪もない猫たちが狙われ、おそらくは月の女に浚われて消えた。

けれどもそれは、そもそもの話僕とは何の関わりもないことだった。どれもこれも、僕がシロを拾ってから起きた出来事だった。つまり僕がシロと出会わなければ、僕がそのような出来事を知ることもなかったし、月の女の存在を知ることもなく、関わることすらもなかった。きっと今も、月の女の子宮に閉じ込められるなんて滑稽な事態にもならなかっただろう。

「あの雨の日に、人間の言葉を喋る不思議な白い猫に出会ってさえいなければ、僕はこんな面倒な目に遭うこともなく、ずっと平穏な毎日を送っていられた筈なのに」

そうかも知れない。と僕は、僕のものではない声に同意をする……、いや、するわけにはいかなかった。何故ならそれは、この壁を通じて聞こえる声——月の女の声だったからだ。

「そう思っているんでしょう?」と、月の女は語り掛けてくる。それは穏やかなものでありながら、挑発的な感情が込められているようにも僕には聞こえた。

僕はそれに答えることなく、月の女に問い返した。

「教えて欲しい。一体どうして、僕をこんな所に閉じ込めたんだ?」

「何故ならそれは、貴方には足りないから。全てが、足りないから。貴方にはその中途半端な全てを忘れて、再び育ち直すことが必要だから」

「足りない?中途半端?……意味が解らない」

「意味が解らない?本当は、解っている筈。全てにおいて足りない自分のことを、誰よりも貴方自身が解っている筈」

解っていた。もう、否定のしようがどこにもなかった。

月の女は、僕の心の内を全て知り尽くしている。僕がいかに自分の能力の乏しいことに劣等感を抱いているか、そしてまた僕が今しなければならないことは何なのか。その全てを、月の女は間違いなく、僕と同じように知っていた。

今の僕は、月の女と対等に向かい合う力を持ち合わせていない。僕がどんなに本気で力を出そうとも、月の女の前では全てが無力であるに等しかった。

「僕はここから、出られるのか?」

「眠りなさい、か弱い子。暫くの安らぎを、貴方に与えてあげる。私も、忌まわしい猫も、UFOもいない、穏やかな安らぎの時を、あなたにあげる」

そして、僕は“安らぎ”という名の眠りに落ちていった。


月の女が孕んだ僕がこの先、心も体も未熟なまま堕とされるのか、再び外の世界に産まれ出でるのか、僕には分からない。そして例え同じ世界に還ってこられたとしても、そこに以前と同じ生活があり、シロがいて、また月の女との対峙が待っているのか、それも分からない。

「全ては、貴方次第……」

意識が遠のく中、かすかに月の女の声が聞こえた。いや、それはただの雑音だったのかも知れない。

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