茨城症候群

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嘘吐きの行く末

  • 2010年4月 5日 21:25

「おい、何か臭くねえ?」

その日の高校の授業の二時間目は、担当教師が腹痛だという理由で自習時間になっていた。もちろん自習時間に真面目に自習をするような奴はこのクラスにはいない。みんなこの時間が何の時間なのかを本心から忘れて勝手に騒いで、携帯電話をいじくって遊んでいるような奴さえいたくらいだった。

その騒がしい空間に何の前触れもなく突然起きた騒動だった。

「マジだ。何か臭えぞ」

俺の前の席の山田が気付いて言ったのを皮切りに、周囲の席の人間からは臭い臭いと言う声が次々と上がった。もちろん、俺もその中の一人だった。

「臭えなあ。あの匂いっぽいな……、ウンコ」

俺が何となく思ったことをそう言うと、周りからは俺の意見に同意する声が上がった。「それだよ、ウンコだな」「間違いない、ウンコだ!」

確かに、間違いなかった。臭さを漂わせているのは、誰もが毎日自分のものを嗅ぐことがあろうウンコの匂いだった。しかし自分のものと他人のものとでは、臭さに対する嫌悪感は違う。自分のウンコの匂いは鼻に入って当然だが、他人のものの匂いが鼻に入る機会は衛生環境が向上した最近では普段はないことだ。誰もが他人の匂いに対して感覚的にも心理的にも敏感になっているのは当然のことだった。

「おいおいおい、まさか誰か漏らしたんじゃねえのお?」「うっそお、信じらんない」「教室で漏らすなんて、最低」

男子からも女子からも関係なく、“犯人”に対しての非難の声が上がった。俺も「最悪」と苦い顔をしてその中に混じっていた。

それから始まったのは、もちろん犯人探しだった。ウンコを漏らした奴は誰だ、探し当てて吊し上げて晒し者にしてやる。辺りにはそんな恐ろしい空気が広まっていた。

俺も周りに混じって犯人を探し出そうとしていた。高校生にもなって学校でウンコを漏らす奴なんて縁が切れても一生馬鹿にしてやる。周りの奴らもそう思っていただろう。同じように、俺もそう思っていた。

そんな中でふと隣の席を見ると、そこには周りの空気とは違う空間があった。普段から物静かで綺麗好きそうな山本さんが、何か必死に耐えているような、あるいは場の雰囲気から逃れようとしているような、そんな態度を取っていることが俺には見て取れた。

まさか、山本さんが……? 俺は思った。いや、まさかだ。普段淑やかそうに振る舞っている人間に限って、こういう行いをしてしまうことがある。それが意図的でないなら、なおさらのことだ。彼女がウンコを漏らしてしまったとしても、不思議ではない。

鼻を利かせて匂いの根源を辿ろうとすると、山本さんの方から漂っているように感じた。さりげなく気付かれないようにして身体を傾けて山本さんの席に近寄ると、非常に臭い匂い、紛れもなくウンコの匂いが鼻を突いた。

俺はここで確信した。確信してしまったのだ。ウンコを漏らしたのは、山本さんだということを。あの山本さんが、ウンコを漏らしていたのだ。

もう一度山本さんを横目で見る。彼女は机の上に教科書を開き、何かに気付かれまいとしているのかうつむいている。周りの騒がしさとは対照的だった。ただ、心なしか動揺しているかのようにまばたきの頻度が多めに見えた。その長く黒い髪の毛が、周りの環境を断ち切って逃れたいとしているかのように白く綺麗な顔を隠していた。

それを目にした俺は何故か耐えられなくなった。こんな不潔とは全く無縁の女子がウンコを漏らしてしまうとは、一体なんという罪だろう! そして彼女は一生それを十字架のように背負い、生き続けなければならないのだ。何年と、何十年と、そして未来永劫その魂が生き続ける限り!

俺は決意した。もう山本さんを見ることはなかった。周りの喧噪に気を合わせることもなくなった。

立ち上がって、俺は言った。

「……みんな、悪い」

誰がウンコを漏らし悪臭をもたらしたかで騒がしかった教室内が、一斉に静かになる。そこで、俺は笑顔を浮かべてぽつりと打ち明けたのだった。

「漏らしたの、俺なんだ」


それからは俺は“ウンコ”と呼ばれるようになった。学校中で、ウンコウンコと陰口を囁かれ後ろ指を指されるようになった。朝登校すると、机の上にウンコと書かれていたこともあった。時には誰かが懸命に運んできたのか、実際の犬のウンコが置かれていたこともあった。誰かに話し掛けると「ウンコ臭え」と言われるだけで、全く相手にもされないこともしばしばだった。

確かに俺は自分で冤罪を進んで被り受けた。だからこうしてウンコと呼ばれたり蔑まれるようになったのだろう。

しかしそれでも構わなかった。何しろ俺は一人の女子の運命を守ったのだから。そのお陰で彼女はウンコと呼ばれる代わりに、輝かしい未来を失わずに済んだのだ。山本さんが隣の席で一生懸命に板書をノートに写している姿を見ると、俺は嬉しさを感じられずにはいられなかった。同時に、彼女に対してある種の愛おしささえ感じていた。

ある日の放課後、俺は一人で教室の掃除当番をしていた。本当は班の奴らと全員で教室の掃除をするはずだったが、「ウンコと一緒に掃除当番をしたくない」というふざけた理由で奴らは先に帰っていった。

夕日の差し込む教室で、俺は一人で黙々と掃除を行っていた。ウンコと掃除をするのが嫌なのに、ウンコに掃除されるのはいいのか。誰もいない教室で、俺はどうにも矛盾した言い訳を鼻で笑っていた。

そこに、誰かが教室へ入ってきた。山本さんだった。何か忘れ物をしたのだろうか、教室に入るなり自分の席に歩み寄って机を何やらごそごそと探っていた。

山本さんも俺がいることに気が付いているようだったが、特に挨拶をするなどの反応はなかった。山本さんと二人きりの教室。俺は今しかないと思った。

「……山本さん」

声を掛けると、山本さんはびっくりしたかのように動きを止め、こちらを見た。

「今度さ、一緒に映画観に行かない? 俺、映画好きなんだ。面白い映画なら自信あるからさ」

しかし山本さんの応えはそっけないものだった。彼女は顔を背け、何事もなかったかのように探し物の続きをしながら、ほとんど感情をこもらせずにこう言った。

「……悪いけど、私、嘘をつく人は嫌いなの。それに、“ウンコの彼女”なんて呼ばれたくないから……」

彼女は走って教室を出て行った。俺はこの時の彼女の走り去る後ろ姿をただ見ていることしかできなかった。彼女の姿が見えなくなってからも、俺はしばらく立ち尽くしたままだった。立ち尽くす俺の頭には、彼女の言葉が反響し続けていた。

嘘をつく人は嫌いなの。

嘘をつく人は嫌いなの。

嘘をつく人は嫌いなの。


それ以来、俺は不登校になった。みんなにウンコと蔑まれ、俺が自分で勝手に恩を売り勝手に好意を抱いた山本さんには振られ、もう学校に俺の居場所はなくなっていたのだ。

結局俺のしたことは、俺の自己満足に過ぎなかったのだ。俺は何をしたのだろう。俺は彼女を、山本さんを守ったのではなかったのか? しかし山本さんはそれは違うと言った。俺は何という馬鹿なことをしたのだろう。あの時、何もしなければ良かったというのだろうか。しかし何を思っても、もう取り返しは付かなかった。俺は正真正銘のウンコになってしまった。

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