茨城症候群

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ガードレールの猫

  • 2010年4月 3日 23:53

今朝、歩道のガードレールの上を猫が歩いていたんです。真っ白い猫でした。

猫がガードレールの上を歩くなんて珍しいじゃないですか。歩くなら歩道を歩けばいいものを、どうしてわざわざそんな歩くのにも足の先が痛そうな細い場所を歩こうとするのか解りません。ですから私はちょっと面白いと思って、携帯電話で写真を撮ろうとしたんです。話の種にもなりそうでしたし、私はネット上でブログをやっていましたからそこに載せればコメントが沢山付いて注目を浴びるかも知れない、そう思ったんです。

そしてちょうどバッグから携帯を取り出そうとしたところでした——その猫が、突然こちらを振り返って恐ろしい形相で私を睨んだんです。まるで「俺を撮るな」と言っているかのように。本当に恐ろしい形相でした。ライオンが獲物を見付けて今にも飛び掛かるか飛び掛からないか、そんな時に獲物を威嚇しているかのようでした。

私はその猫の顔に思わずびっくりして、バッグから取り出そうとしていた携帯をアスファルトの道に落としてしまったんです。あ、と思った時にはもう何もかもが遅かったのでした。運が悪くも携帯は固い地面に落ちた衝撃で液晶が割れてしまい、ガードレールの猫はいつの間にかどこかへ去って行ってしまいました。

私は猫を撮ろうとして、その猫に脅され、携帯電話は壊れてしまったのです。二重の困惑に襲われて、私はしばらく慌てふためきました。

携帯には仕事上の取引相手やプライベートな友人の連絡先、思い出の写真、暇潰しに楽しんでいたゲームなど重要な情報が色々と入っていましたから、携帯が壊れているいないにしろまずそれらの情報を救うことが最優先だと考えました。そして急いで近くの携帯電話のキャリアの店へと走ったんです。店に入った時、私がどんな顔をしていたか分かりません。きっと慌てていて真っ青で今にも倒れてしまいそうな顔をしていたことでしょう。その証拠に、店員がまるで見たことのない変な生物を見るかのような表情であったことは覚えています。

店員との細かなやりとりは慌てていたせいか忘れてしまいましたが、結局携帯は落ちた衝撃で電源も入らず、その上全ての情報もろとも失われてしまったそうです。そのことを告げられた後に店員は新しい携帯の機種を勧めて来ましたが、私はショックのあまりそれを断って店を出ました。何しろ、もうあの携帯に入っていた情報は全て帰らぬものになってしまったんですから。

それから家に帰るまで、どのように帰ったかさえも覚えていません。気付けば、私は暗い部屋で液晶が割れがらくたとなってしまった携帯電話を机の上に置いて眺めていました。

どうしてこうなってしまったのか、思い返すとあのガードレールの猫が始まりでした。猫を撮ろうとして猫に睨まれ、驚いて携帯を落とした。そして携帯は壊れ、私にとって重要な情報が全て消えてしまった。あの猫さえ撮ろうとしなければ、ただ「ガードレールの上を歩く猫」という可愛い光景を見るだけにして通り過ぎさえしていれば……!

私の目には、あの猫の顔が鮮明に焼き付いています。猫を撮ろうとして携帯を取り出そうとした時の、あの恐ろしい顔。それを思い出すだけで、私は今も震えが止まりません。


その午後、不思議な電話が掛かってきました。携帯電話は壊れていましたから、家の固定電話に掛かってきたんです。

「……もしもし」と私はショックを引きずりつつ、暗い声で応えました。すると電話の向こうの相手は「ヤマモトだけど」と名乗りました。低い声でしたから、男性だったんでしょう。

「ヤマモトさん? どちらのヤマモトさんですか?」

「俺がどこを歩こうが俺の勝手だ。俺を晒し者にしようとするんじゃない。お前は自分の自己顕示欲のせいで、全てを台無しにしたんだ」

エイプリルフール

  • 2010年4月 4日 12:24

小学二年生の春休み、幼なじみのかな子ちゃんと二人で近所の公園で遊んでいる時のことでした。

「ねえタケシくん、今日何の日か知ってる?」

「えっ、今日?」

ブランコを大きく前後に揺らしながら、かな子ちゃんは意地の悪そうな笑いを浮かべて僕に問い掛けました。

その朝は、ニュースで桜の満開が近付いていると聞いたくらいで、日付までは覚えていませんでした。強いて言えば、春休みがあと何日残っているか、始業式までまだ何日遊んでいられるか、それくらいしか考えていなかったのです。

しばらく答えられずに宙を眺めている僕を、かな子ちゃんは鼻で笑ってから、得意げな表情で言いました。

「エイプリルフールだよ。嘘をついてもいい日」

エイプリルフール。その名前は確かに聞いたことはありました。しかしかな子ちゃんに言われるまで今日がその日であることに気付かなかったくらいですから、僕は特に意識したことはなかったのです。

「それでさ、あたしたちで大人に嘘をついてみない? すごい嘘をさ」

「でも、嘘をついたらいけないってお父さんが言ってたよ。ドロボウの始まりだって」

「エイプリルフールだからいいんだよ。嘘をついても許してくれるよ」

僕の家庭は厳格な方で、両親はいつものように「嘘をついてはいけない」と幼い僕に言っていました。その他にも悪いことをしてはいけない、嫌がることをしてはいけない、人をいじめてはいけないなど、四六時中「いけない」尽くしでした。きっと僕が一人っ子だったことも影響していたのでしょう。

しかし、いや、だからこそ、かな子ちゃんの提案は新鮮に思えました。エイプリルフールだから嘘をついてもいい。どんな時でも嘘をついてはいけないと教えられていた僕にとって、嘘をついてもいい理由をこれほど簡単に見出せ、それを利用しようというかな子ちゃんをとても賢く感じたのです。同時に、かっこいい、とも感じました。

常に教えられている規則に背くという背徳感を、今日だけは感じなくても済む。そう考えるに至って、僕は迷わずかな子ちゃんに答えました。

「なんか楽しそう。その嘘、ついてみようよ。それで、どんな嘘をつくの?」

僕が問い掛けると、かな子ちゃんはブランコを漕ぐのを止め、にこりと笑って言いました。

「あたしが悪いおじさんに誘拐された、って嘘」

「なんか本当にありそうな嘘だね」

「本当にありそうな嘘の方が面白いでしょ? どうせ嘘なんだし」

僕はかな子ちゃんが悪いおじさんに誘拐されたという嘘をついた場合に起こり得る光景を想像しました。かな子ちゃんの両親はとても心配するでしょう。警察に通報して、かな子ちゃんの家の前にはパトカーが駐まり、赤い光でうるさくなるかも知れません。テレビや新聞社の記者も来て、人だらけになるかも知れません。

そして僕は少しだけ怖くなりました。もしかすると一緒にいた僕も警察に連れて行かれて何か訊かれるかも知れません。実は全部嘘だった、と言ったら親だけからではなく警察の人からもこっぴどく怒られるかも知れないのです。

「やっぱり止めようよ……。もっといい嘘にしようよ」

「何? 怖がってるわけ? タケシくん男でしょ? そんな弱虫じゃいい男になれないよ!」

かな子ちゃんはイライラした様子で言いました。罵倒に近いものだったかも知れません。そして弱虫とまで言われたのです。こう言われてしまうと僕も怖がるわけにはいきません。何しろ僕は当時テレビで観ていた戦隊ものの番組で登場する部隊のリーダーに憧れていましたから、弱虫と決め付けられるのは腹の立つことでさえあったのです。

「怖がってなんかないよ! いいよ、じゃあその嘘やろう、やろうよ」

「なあんだ、弱虫じゃないじゃん。じゃ、けってーい」


僕は急いで家に帰ると、靴も脱がずに玄関先で母を呼びました。「お母さん! お母さあん!」

普段あまり感情を見せない僕が肩で息をしながら半泣きをしているという普通ではない様子にただならぬ気配を感じたのか、母が飛び出してきました。

「タケシ、どうしたの? 何で泣いているの? 何かあったの?」

「かな子ちゃんが、うっ、うっ、変なおじさんに連れて行かれちゃった……! どうしよう、どうしよう!」

母はほんの一瞬だけ身を固まらせたように見えました。その間に事態を飲み込んだのか、次の瞬間からは表情を普段見せないものへと変えた上に怒濤の質問攻めを僕に浴びせました。

「かな子ちゃんが!? どこで? 何をしている時? いつ? どんなおじさんに!?」

「公園で……、うっ、うっ、さっき、遊んでいる時、おじさんが……、灰色の、うっ、うっ、服を着たおじさんが……。うっ、うっ」

僕の声はもう答えにもならないほどでした。それでも概要を把握したのか、母は家の奥に入っていきどこかへと電話を掛け始めました。おそらくかな子ちゃんの家へだったのでしょう。冷静に思えるほどの受け答えがかえって事態の深刻さを浮き上がらせていました。

その後は僕の想像していた通り、かな子ちゃんの家の周りにはパトカーが何台も駐まり、マスコミも大勢集まりました。そして僕はかな子ちゃんと一緒にいた最後の人間として、警察へ連れて行かれて母親と一緒に仔細に渡る質問を受けたのです。今日がエイプリルフールなどということはもうとっくのとうに忘れていました。もちろん、警察での質問ではいつもの僕のように嘘はつきませんでした。

警察署で質問を受けた帰り、かな子ちゃんの両親と廊下で会いました。二人とも、本当に深刻な表情をしていました。かな子ちゃんのお母さんは、嘘だったらいいのに、嘘だったらいいのに、と泣きそうな声で呟いていました。


それから十二年間、かな子ちゃんは今も帰ってきていません。あのエイプリルフールの日につこうとした嘘は、現実となってしまったのです。僕の中で、十二年前のエイプリルフールは過去のものではありません。現在もまだ、続いているのです。

嘘吐きの行く末

  • 2010年4月 5日 21:25

「おい、何か臭くねえ?」

その日の高校の授業の二時間目は、担当教師が腹痛だという理由で自習時間になっていた。もちろん自習時間に真面目に自習をするような奴はこのクラスにはいない。みんなこの時間が何の時間なのかを本心から忘れて勝手に騒いで、携帯電話をいじくって遊んでいるような奴さえいたくらいだった。

その騒がしい空間に何の前触れもなく突然起きた騒動だった。

「マジだ。何か臭えぞ」

俺の前の席の山田が気付いて言ったのを皮切りに、周囲の席の人間からは臭い臭いと言う声が次々と上がった。もちろん、俺もその中の一人だった。

「臭えなあ。あの匂いっぽいな……、ウンコ」

俺が何となく思ったことをそう言うと、周りからは俺の意見に同意する声が上がった。「それだよ、ウンコだな」「間違いない、ウンコだ!」

確かに、間違いなかった。臭さを漂わせているのは、誰もが毎日自分のものを嗅ぐことがあろうウンコの匂いだった。しかし自分のものと他人のものとでは、臭さに対する嫌悪感は違う。自分のウンコの匂いは鼻に入って当然だが、他人のものの匂いが鼻に入る機会は衛生環境が向上した最近では普段はないことだ。誰もが他人の匂いに対して感覚的にも心理的にも敏感になっているのは当然のことだった。

「おいおいおい、まさか誰か漏らしたんじゃねえのお?」「うっそお、信じらんない」「教室で漏らすなんて、最低」

男子からも女子からも関係なく、“犯人”に対しての非難の声が上がった。俺も「最悪」と苦い顔をしてその中に混じっていた。

それから始まったのは、もちろん犯人探しだった。ウンコを漏らした奴は誰だ、探し当てて吊し上げて晒し者にしてやる。辺りにはそんな恐ろしい空気が広まっていた。

俺も周りに混じって犯人を探し出そうとしていた。高校生にもなって学校でウンコを漏らす奴なんて縁が切れても一生馬鹿にしてやる。周りの奴らもそう思っていただろう。同じように、俺もそう思っていた。

そんな中でふと隣の席を見ると、そこには周りの空気とは違う空間があった。普段から物静かで綺麗好きそうな山本さんが、何か必死に耐えているような、あるいは場の雰囲気から逃れようとしているような、そんな態度を取っていることが俺には見て取れた。

まさか、山本さんが……? 俺は思った。いや、まさかだ。普段淑やかそうに振る舞っている人間に限って、こういう行いをしてしまうことがある。それが意図的でないなら、なおさらのことだ。彼女がウンコを漏らしてしまったとしても、不思議ではない。

鼻を利かせて匂いの根源を辿ろうとすると、山本さんの方から漂っているように感じた。さりげなく気付かれないようにして身体を傾けて山本さんの席に近寄ると、非常に臭い匂い、紛れもなくウンコの匂いが鼻を突いた。

俺はここで確信した。確信してしまったのだ。ウンコを漏らしたのは、山本さんだということを。あの山本さんが、ウンコを漏らしていたのだ。

もう一度山本さんを横目で見る。彼女は机の上に教科書を開き、何かに気付かれまいとしているのかうつむいている。周りの騒がしさとは対照的だった。ただ、心なしか動揺しているかのようにまばたきの頻度が多めに見えた。その長く黒い髪の毛が、周りの環境を断ち切って逃れたいとしているかのように白く綺麗な顔を隠していた。

それを目にした俺は何故か耐えられなくなった。こんな不潔とは全く無縁の女子がウンコを漏らしてしまうとは、一体なんという罪だろう! そして彼女は一生それを十字架のように背負い、生き続けなければならないのだ。何年と、何十年と、そして未来永劫その魂が生き続ける限り!

俺は決意した。もう山本さんを見ることはなかった。周りの喧噪に気を合わせることもなくなった。

立ち上がって、俺は言った。

「……みんな、悪い」

誰がウンコを漏らし悪臭をもたらしたかで騒がしかった教室内が、一斉に静かになる。そこで、俺は笑顔を浮かべてぽつりと打ち明けたのだった。

「漏らしたの、俺なんだ」


それからは俺は“ウンコ”と呼ばれるようになった。学校中で、ウンコウンコと陰口を囁かれ後ろ指を指されるようになった。朝登校すると、机の上にウンコと書かれていたこともあった。時には誰かが懸命に運んできたのか、実際の犬のウンコが置かれていたこともあった。誰かに話し掛けると「ウンコ臭え」と言われるだけで、全く相手にもされないこともしばしばだった。

確かに俺は自分で冤罪を進んで被り受けた。だからこうしてウンコと呼ばれたり蔑まれるようになったのだろう。

しかしそれでも構わなかった。何しろ俺は一人の女子の運命を守ったのだから。そのお陰で彼女はウンコと呼ばれる代わりに、輝かしい未来を失わずに済んだのだ。山本さんが隣の席で一生懸命に板書をノートに写している姿を見ると、俺は嬉しさを感じられずにはいられなかった。同時に、彼女に対してある種の愛おしささえ感じていた。

ある日の放課後、俺は一人で教室の掃除当番をしていた。本当は班の奴らと全員で教室の掃除をするはずだったが、「ウンコと一緒に掃除当番をしたくない」というふざけた理由で奴らは先に帰っていった。

夕日の差し込む教室で、俺は一人で黙々と掃除を行っていた。ウンコと掃除をするのが嫌なのに、ウンコに掃除されるのはいいのか。誰もいない教室で、俺はどうにも矛盾した言い訳を鼻で笑っていた。

そこに、誰かが教室へ入ってきた。山本さんだった。何か忘れ物をしたのだろうか、教室に入るなり自分の席に歩み寄って机を何やらごそごそと探っていた。

山本さんも俺がいることに気が付いているようだったが、特に挨拶をするなどの反応はなかった。山本さんと二人きりの教室。俺は今しかないと思った。

「……山本さん」

声を掛けると、山本さんはびっくりしたかのように動きを止め、こちらを見た。

「今度さ、一緒に映画観に行かない? 俺、映画好きなんだ。面白い映画なら自信あるからさ」

しかし山本さんの応えはそっけないものだった。彼女は顔を背け、何事もなかったかのように探し物の続きをしながら、ほとんど感情をこもらせずにこう言った。

「……悪いけど、私、嘘をつく人は嫌いなの。それに、“ウンコの彼女”なんて呼ばれたくないから……」

彼女は走って教室を出て行った。俺はこの時の彼女の走り去る後ろ姿をただ見ていることしかできなかった。彼女の姿が見えなくなってからも、俺はしばらく立ち尽くしたままだった。立ち尽くす俺の頭には、彼女の言葉が反響し続けていた。

嘘をつく人は嫌いなの。

嘘をつく人は嫌いなの。

嘘をつく人は嫌いなの。


それ以来、俺は不登校になった。みんなにウンコと蔑まれ、俺が自分で勝手に恩を売り勝手に好意を抱いた山本さんには振られ、もう学校に俺の居場所はなくなっていたのだ。

結局俺のしたことは、俺の自己満足に過ぎなかったのだ。俺は何をしたのだろう。俺は彼女を、山本さんを守ったのではなかったのか? しかし山本さんはそれは違うと言った。俺は何という馬鹿なことをしたのだろう。あの時、何もしなければ良かったというのだろうか。しかし何を思っても、もう取り返しは付かなかった。俺は正真正銘のウンコになってしまった。

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