茨城症候群

Home > 残された白猫

残された白猫

  • 2009年8月15日 02:48

おいらの主人がいなくなって、もう二ヶ月が経った。ある日何も言わずに突然姿を消してしまって以来、ずっと帰って来ていない。部屋の中はすっかり動きを失って、毎日が止まっているかのように見えた。

まさか猫の世話というものがいい加減嫌になったから、おいらをほっぽり出したままどこかへ消えてしまったというわけじゃあるまい。だいいち主人はそんな単純な人間じゃない。おいらは主人と一年半も暮らしたくらいだから、それは分かる。失踪には、何か単純ではない複雑な特別の事情があるに違いなかった。

ただ主人が失踪したなら、寂しいというだけの問題で済んだ。主人は飯を作って恵んでくれたり暇な時はじゃらして遊んでくれたりしたりしただけだったから、おいらはただの飼い猫として居候していたと言ってもいいだろう。けれども主人とおいらの関係はそんな居候し居候されだけのものじゃなかったから、主人の失踪はおいらにとっては寂しいどころではない問題でもあった。

飯の方は、主人がいない間でも何とかなる。腹が減れば窓の隙間からちょいと出て行きつけのゴミ置き場を漁ればありったけの飯にありつけるし、あるいは他に猫を飼っている家の庭にお邪魔して、庭先の餌の皿からかっぱらって食べることもある。そこにその家の猫と鉢合わせた時には喧嘩になりそうなこともあるが、そんな時はわざわざ敵を作る利点もないからおいらの方から身を引くことにしている。それでも餌場はたくさんあったから、とにかく餌に困ることはなかった。

情報にも困らない。おいらの近所には野良猫ネットワークというべきものがあって、天気のいい日には近所の野良猫が駐車場にこぞって集まり集会を開いている。野良猫ネットワークは、質は良くないとは言えその情報量は豊富だった。だから主人の失踪した理由にまつわる話を聞けるかも知れないと思って、おいらは少し前まで何日おきかにその集会に顔を出していた。

実を言うと、おいらはこの野良猫たちとはあんまり気が合わなかった。別においらは自分を高貴な猫だとは決して思っちゃいないが、野良猫たちにはみんな揃って汚らしい。主人のいた頃においらが出会っていた猫たちはみな飼い主に手入れされているのか毛並みが良く、ほのかに良い香りすら漂わせていた。けれどもここの野良猫ときたら、茶色い泥が毛に付いていても何も気にすることもなく、全身の毛が薄汚れている上に、鼻の奥を突き刺すような匂いがする。それに何より、学がない。

「飼い猫どもはダサいんだよね。屋根の下じゃなきゃ生きていけないんでしょ? マジひ弱な家畜じゃん」

「野良の方が楽なのにな。わざわざ人間どもに飼われるっていう奴の気が知れないね」

「俺、飼い猫となんて付き合いたくねえよ。あいつらいちいち鼻に付くし。まっぴらごめんだぜ」

そんな具合にオスメス関係なく、言葉遣いも悪ければ、飼い猫というものを頭ごなしに貶して否定する奴らばっかりだった。飼い猫も野良猫も同じ猫なんだからどちらが優れているかなんてないはずなのに、あたかも自分たちの方が優越しているかのように飼い猫を馬鹿にする。面倒なものだ。

だからおいらは自分が飼い猫だったとは一言も言わずに、ただ主人に関する情報を集めるために、遠くから越してきた野良猫として振る舞った。野暮ったい野良猫たちと話を合わせるのは正直なところ苦痛だったが、それでもおいらは努力をした。

けれども、有用な情報は何一つ得られなかった。代わりに得られたのは、野良猫たちの持つ人間たちへの意地の悪い言葉だけだった。

「人間がいなくなった? いいねえ。奴ら、全員いなくなっちゃえばいいんだよ」

「人間は俺たちを轢き殺す。だけど、俺たちは人間を轢き殺せない。いなくなったのも、きっと天罰だぜ」

「あいつらは結局あたしたちのことなんかどうでもいいんだよ。可愛い可愛い言ってさ、増えたら増えたで捨てちゃうでしょ」

「俺なんか無理矢理去勢されたんだぜ。その人間がいなくなったからって関係ないね」

おいらはうんざりした。訊いても訊いても事前に示し合わせたかのようにそればかりだったから、これ以上主人のことについて訊く気すら失せてしまった。

どうやらどの野良猫にとっても、人間というものは憎悪の対象らしい。おいらは主人と暮らしてきたが、なかなか飯をくれない時には苛立ちを感じることこそあっても、決して憎悪を感じることはなかった。それが野良猫たちは人間への憎悪にまみれている。カルチャーショックとも言うべき思いを感じて、おいらは汚い野良猫たちの集まりへは二度と顔を出すことはなかった。


それから数日が経った。窓の外に太陽が高く昇って、真っ白い光を惜しげもなく地面へ照らし落としている暑苦しい日のことだった。おいらはいつものように主人の部屋のテーブルの下に寝っ転がって、主人の帰りを諦めつつありながらも待っていた。

そこに、インターフォンの音が鳴った。一回、二回、三回と鳴る。主人がいない間にそれは何十度もあったが、大抵は何回か鳴らして不在なのを知ると用を諦めて帰ったのかまた静かになった。今回もその類のものだろうと思いながらインターフォンの音が鳴り止むのを待っていると、どうもいつもとは違う雰囲気を体中で感じた。

「……シロさん」

ドアの向こう側から、弱々しい高い声がおいらの名前を呼んだ。おいらははっとして顔を上げ、体を起こした。全身の毛がぞくぞくと震えていた。足の先にわずかに汗が滲み出ていた。

“あいつ”だろうか? おいらの名前を知っている人間は、主人か“あいつ”しかいない。

もしも“あいつ”だったとしたら、おいらはきっと連れ去られる。そうだ。“あいつ”は主人をどこかで誘拐してから、おいらの居場所を突き止めて、とうとうここへやってきたんだ。

鍵を回す音がして、すぐにドアが開いた。何十日ぶりかに開いたドアの向こうに現れた姿を、おいらは息を潜めながら目を凝らして見つめた。

そこにいたのは、やはり主人ではなかった。左目には眼帯を付け、両足には包帯を巻いた、長く黒い髪の奇妙な女子高生だった。

「……シロさん、良かった……。無事だったんですね……」

Home > 残された白猫

Return to page top