茨城症候群

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ブルドッグ

  • 2009年7月27日 03:01

「なんて言うか、たるいんだよ」

横の席の山本が俺の方へ目だけ向けやがってそう言った。その顔は言葉を裏切ることなく全面でたるいということを訴えていた。死んだブルドッグが間違ってこいつの面に取り憑いて間違ったと思いつつこいつの方もたるいので離れるのが嫌になりそのままになったようなそんな感じだ。

「たるい」

山本のたるいブルドッグ面はさらにブルドッグさを増してどんどんとブルドッグそのものに見えつつあった。このままこいつは近いうちにブルドッグになってしまうんじゃないかと思った。別にそうなったんならそうなっても俺の方は構わないが俺はそうなってもこいつの飼い主になんかなってやろうとは思わない。山本は一言で言うとキモい。顔は一見爽やかに見えて入学時こそは女子たちの話にも色々と噂に上げられていたそうだったが、なんというか何に付けても粘着質だからこいつはその本性がだんだんと明るみに出てからはいつでもクラスの鼻つまみ者で時々陰湿ないじめを受けていたこともあった。だから俺がちょっと可哀想になって会話の相手になってやったりしていたら自然と親しくなってしまったというわけだ。それでも山本の粘着質はことあるごとに俺を呆れさせることがあった。ブルドッグになったとしてもその粘着質は変わることはないだろう。餌一つのねだり方にしてもその粘着質は発揮されるに違いない。餌をくれ餌をくれ餌をくれとブルドッグの山本は一日中俺の足下で吠え続け唸り続けごねり続けるのだ。俺はそんなので困りたくない。考えただけでも鬱陶しいから俺は考えるのを止めた。

「何がたるいんだ」と俺は会話の礼儀だから相槌を打ってやる。「たるいんだ」「何がたるいんだっての」「とにかくたるい」「たるいたるい言ってちゃ分かんねーが」「全てがたるい」「全てか」「そうだ全てだ」「そりゃ困ったな」「あー困った困ったたるいたるい」

こいつは駄目だ。ただただたるいたるい言うばかりでてんで話にならない、というかまともに話もしたくないんだろう。俺のご親切な相槌にも適当に応えやがって失礼な奴だ。

「勝手にしろ」と俺は言い捨てて山本ブルドッグの方を向くのを止めた。「一生たるがってろ」

ブルブルブルブル

やることもなかったので教科書を開いて真面目くんを装おうとすると山本の席から普段あまり聞かない、というか聞いたこともないおかしな音が聞こえたのでそっちに目を遣ると、山本の姿はそこにはなかった。代わりに山本が座っているはずだった椅子の上に何かが置かれていた。ぬいぐるみのような毛に覆われたもの——ブルドッグ。

ブルブルブルブル

そいつが音を出しているのは間違いなかった。顔のパーツの全部が鼻の方にくしゃりと寄せられている黒みがかった顔、重力に抗うことなくだらりと垂れた頬、丸々と太らせた身体を支えるに相応しく生えた太い四つの足。それが椅子に座って俺の方へその大きな丸い目を向けながら、喉を小刻みに震わせて音を鳴らしていた。

「……山本?」と俺は犬に向かって問い掛ける。いや、犬に人間の言葉が通じるわけがない。俺は馬鹿か? 問い掛けてから俺は俺のしたことを反省した。しかしその場ではそうせざるを得なかったのだ。こいつは山本だ。たぶん。犬が突然山本と置き換わった形でこんなところに現れるはずがない。こいつは間違いなく山本で、山本はブルドッグに姿を変えちまったんだ。たぶん。

「ブルブルブルブル」と犬は依然として呻っている。俺は試しに問い掛ける。「ブルドッグになっちまったのか?」「ブルブルブルブル」「おい、お前は山本か?」「ブルブルブルブル」「山本じゃないのか?」「……」「山本か?」「ブルブルブルブル」「突然紛れ込んできた野良犬か?」「……」「山本なんだな?」「ブルブルブルブル」

分かった、こいつはどうやら日本語が通じる。呻ることで肯定文と否定文だけは使い分けられるようだ。犬になったら途端に賢い奴だ。

しかし一体なぜ山本が突然ブルドッグになってしまったのかは分からない。山本も山本の方で実は普段からブルドッグになってみたいという気持ちがあってそれで今回ブルドッグの神様か何かが突然舞い降りてきて願いが叶ったとかそういうロマンティックなストーリーも考えてみたがそれはいくら何でもあり得ない。いやそれを言うなら突然俺の隣にブルドッグがいるなんていうこの目の前の現実もあり得ない。山本という人間がブルドッグになったということもなおさらあり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない。俺の目の前では普通では全くあり得ないことが現在進行形、アイエヌジー形で起こっている。

周りを見渡す。他の奴らはみんな犬がここにいるということにすら気付いていない様子で紙飛行機を飛ばしたりぺちゃくちゃ喋ったり弁当を食べたりとまあ気楽でいいことだ。俺は自分だけがこんな訳の解らない状況に置かれているのが嫌だったから山本とは反対の隣の席にいた眼鏡坊主の斉藤に声を掛けた。「ここにブルドッグがいるだろ、見えるか?」

「……佐々木くん、立ち直れていないんだね」「何言ってやがる」「ブルドッグか何だか知らないけど、もう山本くんはいないんだよ」「いないんじゃない、山本が犬になったんだ」「現実を見ようよ」「あ? 喧嘩売ってんのか?」「辛いかも知れない。でも、現実からは逃げられない」

こいつも駄目だ。話がまるで噛み合わない。俺と斉藤とはお互いに別の世界にいながら懸命に声を上げて会話をしているようで疲れる。俺はこれ以上無駄なエネルギーを使うのももったいないから話を切り上げた。現に隣にはブルドッグになった山本がいて、俺とは呻る呻らないのデジタルな手段で話をしていた。そのはずだった。

山本の机の上には、菊の花の差された花瓶が置かれていた。椅子の上には、先ほどまで話をしていたはずのブルドッグの姿もたるいと言っていた山本の姿も見えなかった。

「佐々木くん。山本くんは、昨日亡くなったじゃないか」

……そうだったね。

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