茨城症候群

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捕縛、妄想の終焉

月の女の子宮の中は、確かに温かかった。温かくて気持ちが良くて、このままここで横たわっていれば身体も意識もまるごとどろどろに溶かされてしまって、僕という存在が僕の知っているありとあらゆる空間から消えてなくなってしまうんじゃないか、そんな予感さえ覚えるほどだった。

けれどこのまま僕が消えるのは御免だ。僕はまだ消えるわけにはいかない。死ぬわけにはいかない。まだ20そこらの年齢で死ぬには早すぎる。それに僕にはやるべきことがまだある。シロと一緒に、月の女の企てを防ぎ妨げなければならない。その前にこの月の女の胎内で、消されるわけにはいかないのだ。僕はここから、脱出しなければならない。脱出して、再び月の女の企てに立ち向かわなければならない。

そこまで思ったところで、僕はふと気付いた。気付いてしまった。

——月の女から守る。……何を?一体何を守るために、僕はシロと一緒に月の女と対峙しているんだろう?そもそも、月の女の企てとは何だろう?何の目的で僕たちに付きまとい、脅かすような出来事を起こしたりしたんだろう?そして果てには僕を浚い、自分の胎内に閉じ込めたんだろう?

シロは、確かに月の女に狙われていた。そしてシロと同じように何の罪もない猫たちが狙われ、おそらくは月の女に浚われて消えた。

けれどもそれは、そもそもの話僕とは何の関わりもないことだった。どれもこれも、僕がシロを拾ってから起きた出来事だった。つまり僕がシロと出会わなければ、僕がそのような出来事を知ることもなかったし、月の女の存在を知ることもなく、関わることすらもなかった。きっと今も、月の女の子宮に閉じ込められるなんて滑稽な事態にもならなかっただろう。

「あの雨の日に、人間の言葉を喋る不思議な白い猫に出会ってさえいなければ、僕はこんな面倒な目に遭うこともなく、ずっと平穏な毎日を送っていられた筈なのに」

そうかも知れない。と僕は、僕のものではない声に同意をする……、いや、するわけにはいかなかった。何故ならそれは、この壁を通じて聞こえる声——月の女の声だったからだ。

「そう思っているんでしょう?」と、月の女は語り掛けてくる。それは穏やかなものでありながら、挑発的な感情が込められているようにも僕には聞こえた。

僕はそれに答えることなく、月の女に問い返した。

「教えて欲しい。一体どうして、僕をこんな所に閉じ込めたんだ?」

「何故ならそれは、貴方には足りないから。全てが、足りないから。貴方にはその中途半端な全てを忘れて、再び育ち直すことが必要だから」

「足りない?中途半端?……意味が解らない」

「意味が解らない?本当は、解っている筈。全てにおいて足りない自分のことを、誰よりも貴方自身が解っている筈」

解っていた。もう、否定のしようがどこにもなかった。

月の女は、僕の心の内を全て知り尽くしている。僕がいかに自分の能力の乏しいことに劣等感を抱いているか、そしてまた僕が今しなければならないことは何なのか。その全てを、月の女は間違いなく、僕と同じように知っていた。

今の僕は、月の女と対等に向かい合う力を持ち合わせていない。僕がどんなに本気で力を出そうとも、月の女の前では全てが無力であるに等しかった。

「僕はここから、出られるのか?」

「眠りなさい、か弱い子。暫くの安らぎを、貴方に与えてあげる。私も、忌まわしい猫も、UFOもいない、穏やかな安らぎの時を、あなたにあげる」

そして、僕は“安らぎ”という名の眠りに落ちていった。


月の女が孕んだ僕がこの先、心も体も未熟なまま堕とされるのか、再び外の世界に産まれ出でるのか、僕には分からない。そして例え同じ世界に還ってこられたとしても、そこに以前と同じ生活があり、シロがいて、また月の女との対峙が待っているのか、それも分からない。

「全ては、貴方次第……」

意識が遠のく中、かすかに月の女の声が聞こえた。いや、それはただの雑音だったのかも知れない。

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