茨城症候群

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水無月の囚人

何だか心地良いふわふわした場所。オレンジ色だかピンク色だか何と言ったらいいかよく分からないけれど、とにかくそういった気持ちの良い暖色系の空間がぼんやりと見えて僕は目が覚めた。

目覚めの良い朝。爽やかな空気。……違う!僕の周りには爽やかな朝なんてやって来ていない。朝が見えるはずの窓もない。窓どころじゃない、ここは電灯も机も扉もテレビもベッドも何もない、ただ暖色の壁がどこまでもどこまでも続いているように見える、すっからかんの場所だった。

僕はどうしてこんな所にいるんだろう?ここは何処?私は誰?……いや私は僕だ。それは分かる。でもここが何処かは分からない。どうして僕がこんな場所にいるのかも分からない。周りを見渡しても、僕の他には誰もいない様子だった。僕は一人。一人で、こんな場所にいる。

考えている内に何だか僕は寂しくなってきた。自分が寂しいと感じ始めていることに気付くと、頭の中が寂しさで一杯になった。きっと核分裂が連鎖して起こるときもこんな感じなんだろうな。ああ寂しい寂しい寂しい。そのうち僕はとても居ても居られなくなって臨界爆発する。どかーん!

「おーい!」

別に誰かを探すためにその居るべきであろう誰かに向けた叫びじゃない。こんな孤独に僕はただ耐えられなかっただけだ。だって考えてみて欲しい、突然気付いたら見慣れた場所じゃなくて、奇妙奇天烈変てこりんな知らない場所に一人で居る状況。誰だっておかしくなるに決まってる。

だけど僕の叫びは虚しく反響することさえもなく、周りのふわふわに吸い込まれて消えていった。何だこのふわふわ。初めこそ心地良い気持ちの良い場所だと思っていたけれど、何の意味があって僕がこんな場所に居るのか思うと気味が悪くて悪くて仕方がなく思えてくる。

いや待て落ち着くんだ、落ち着け。心臓を今までにないくらいに早く鼓動させている自分自身に言い聞かせて、この状況を何とか受け容れる。僕がこんな場所にいるのは事実だから仕方がない、その事実に至るまでの過程を考えなきゃいけない。

そうして僕は僕の意識を遡る。えっと、眠りに就く前に僕はいつもの通りにベッドの上へ横になった。その前にシロに餌をやり、その前に飯を作って食べ、その前にスーパーへ寄り、その前に大学で講義を受けて……。

……そうだ。“人体解剖学II”。僕はあの講義中に突然睡魔に襲われてその気持ちの良い誘いに抗い切れずに居眠りしたんだ。眠りの中で頭をぽかぽかと叩かれて目を開けると頭の禿げ掛かった講師が目の前にいて僕を睨み付けていた。「おはよう」と言いながらその手に持った箱を僕の顔の真ん前に置いてにやにや。そうやって僕は禿講師の期待通りに驚きの声を上げた。腹をかっ捌かれて内臓を露わにしてホルマリンの海の中に浮き無常を悟ったかのような表情を浮かべるウサギを見ながら。

あの時にきっと時空間に歪みが生じて、現実世界とウサギの内臓とで空間が繋がったんだ。それで僕は今、あのウサギの内臓の中にいる。ほら、よく鼻を利かせれば、あの独特のぷんぷんしたホルマリンの臭いがつんとする、このままじゃシックハウス症候群で倒れちゃう、そんな気さえしてくる。

そんなわけないだろ。ということを僕は分かっていた。ホルマリンの臭いすらしなければ、ここはウサギの内臓の中でもない。“人体解剖学II”が僕にもたらした影響は微塵もない。明らかに、僕は分かっていた。

ただ僕は、否定したいだけだった。目覚めた時から頭に浮かんで消えることのない確信を、どうしても。

ここは、“月の女”の子宮の中だ。

僕は、遂に囚われたのだ。シロももう僕のそばにはいない。頼れるのは、自分自身だけだった。

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