茨城症候群

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「そろそろ暖かくなつてきたね」

停留所で山本さんと二人竝んでバスを待つてゐる間中、私は昨日よりずつと暖かさを増した風が頬を撫でるのを感じてならなかつた。

山本さんは此方を見て微笑んでゐた。彼女の顏もまた、昨日よりずつと温かさを増したやうに思へてならなかつた。

「そりやあ春ですもの。暖かくなきやあ春ぢやないでせう」

山本さんの肌は、向かふまで透き通るやうな白さを見せてゐる。柔らかい春の日の光の下では、それはなほさら白く映つて見えた。

——山本さんはその幼い頃から脆弱だつた。何でも生まれ附き内臟に好くない疾患があるさうで、走り廻ることはおろか一寸した運動ですらお醫者に禁じられてゐた。

だから學校でも鬼ごつこなどは皆が奇聲を上げながら樂しさうに追ひ掛けられ追ひ掛けるのを、彼女は隅つこに獨り座りながらにこにことして見てゐた。運動會なども獨り普段著のまま、テントの下で大きな聲援を送つてゐた。

それでも山本さんは、自分の身體の弱いのを誰かに愚癡るやうなこともしなかつた。皆と同じことの出來ない不滿を表に出すやうなこともしなかつた。身體の弱さを理由にして何事を拒むやうなこともしなかつた。誰かに身體の具合を気遣はれることすらも好かなかつた。

山本さんには、開き直つて他人を突き放すやうな傲慢な頑固さはなかつた。彼女はただ、身體の弱さに決して甘えることのない、強い心を持つてゐたのである。

私の決して持ち合はせてゐない、屈強な心。山本さんは慥かに、それを持つてゐた。

けれども、おそらく私が力いつぱいその身體を押して道に突き倒せば、いくら心の強い山本さんでも、きつと——。

青い草の生える道端に目を落としながらそんなことを考へてゐると、山本さんは私の肩をとんとんと叩いた。振り返ると、柔らかく優しい笑顏があつた。

「靜子さん、やうやくバスが來たやうですよ」

その笑顏に、私は厭な罪惡感を覺えた。私は無意識の内に、私と山本さんとの間に優越なる壁を作つてゐたのである。一方の彼女には、壁すら見えてゐない。見えてゐたとしても、彼女はそれを全く氣にすることなく、私に接してゐる。

それなのに、それなのに私はその壁を、獨りで勝手に氣にして仕舞つてゐたのである。

あゝ、愚かしい。私は本當に、愚かしい人間。愚かしく、弱い人間。

「靜子さん?」


ゆらゆらと搖れるバスの中で、春の陽射しも手傳つてか私は何だかとても眠たくなつて、山本さんにもたれ掛かつてゐた。彼女はそれを払ひ除けることもなく、受け止めてくれてゐた。

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