茨城症候群

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バナナ

  • 2008年10月 2日 02:25

納豆やバナナを食べるだけでお手軽ダイエット、なんて飛んだ大嘘です。テレビの人たちはそんな嘘を吐いて、お金儲けなんてしてるんです。

純粋な私も、腹黒い彼らにまんまと騙されてしまいました。テレビで「私も痩せました」「もう簡単に痩せられるんです」「ダイエットはこれでお終いです」などと若い女性たちが実に晴れ晴れとした輝かしい笑顔をしながら口にしていたので、私はすぐにスーパーへバナナを買いに行ったんです。そうしてその次の日から毎日黄色いバナナを食べ続けました。来る日も来る日も、バナナの皮を剥いて食べ続けたんです。

それがどうですか、この結果です。見て下さい、今ではもう体重計にも乗れません。おととい信じられない数字を体重計が示したので、とうとう壊れたのかと思って買い直したのですが、新しい体重計もまた信じられない数字を表示しました。

これはおかしいと思って、私は全身の映る鏡を見ました。そして驚きました。鏡に映った私は、まるで雪だるまがそのまま人間に変身したかのようにむくれてしまっていたんです。つまり体重計の数字と同じように、信じられないほど私は太ってしまったんです。

一体これのどこがダイエットだと言うんでしょう?私はテレビの人たちが「バナナを食べれば痩せる」と何度も何度も何度も耳に残るほどに言うからすっかり信じてバナナを食べることにしたんです。それなのに、どうして私は太ってしまったんですか?

もしも本当にバナナを食べれば痩せるのなら、体重計があんなひどい数字を出すことなんて有り得ないはずです。ですが実際、体重計は私の期待を裏切る数字を示しました。結局、バナナを食べれば痩せる、なんて全くの嘘なんです。私は甘い言葉の罠にはまって、騙されてしまったんです。

もう許せません。テレビを通じて私を陥れた人たちは、私の身体中至るところにぶくぶくと実った、付くべきではなかったはずの肉、そして本来なら痩せて落ちるべき肉を、責任を持って買い取るべきです。

グラム千円と言いたいところですが、私は慈悲深い人間ですから三百円で勘弁して差し上げましょう。ですから彼らが私に支払うべき金額は、総額で二百四十万円です。二百四十万円、高いと思いますか?私からすれば、安いくらいです。特売も特売、大安売りの出血大セールです。

何せ彼らは私の心を傷付けたのですから。精巧な透明のガラス細工のように繊細で純粋な私の心を、嘘という大きな金槌でこなごなに砕いて割ったのですから。

ぶくぶくの体は元に戻っても、傷付いた心は決して元には戻ることはありません。二百四十万円あっても二億四千万円あっても、二度と元には戻らないのです。

私は酷い世界に生まれてしまったものだと思います。純粋な人を傷付けて金儲けするなんて、到底まともな人間のすることではありません。それがまかり通っているというのですから、この世界は狂っています。

彼らにこの憎たらしくぶよぶよとしている肉を返した後は、もうこの邪に歪んだ世界には用はありません。輪廻転生が本当にあるとしても、私はもう二度とこんな世界に生み落とされることは望みません。そんなのはこちらから願い下げです。


「ねえ、あの人、もうバナナ食べるのやめたの?昨日から普通のお弁当食べてるけど」

「そうみたい。ようやく誤りに気付いたんでしょ」

「そっかあ。そりゃどんなに間抜けな人でも普通は気付くよね」

「毎日三食バナナだけを何十本も食べて、その上ぐうたらしてるんじゃあねえ」

マジックミラー先生 1

  • 2008年10月18日 03:49

マジックミラー先生

僕が高校に入学して驚いたのが、水戸先生が四角いマジックミラーの箱のようなものを被っていたことだった。

入学式の時から、水戸先生は目立っていた。もちろん周りの先生は水戸先生のようにおかしな箱は被ってもいない。素顔のままで、初々しい入学生を迎える優しい眼差しをした、“普通の”先生だ。水戸先生だけが、素顔も見えない異様な暗い箱を頭に被っていた。

僕はそんな変な格好の先生が気になって気になって仕方がなかったから、式の間じゅうちらちらと目を遣っていた。けれども、他の入学生は特に、いや、全く気にしていない様子だった。僕は初対面の人とはあまり話をしたがらない方だから、「あの先生、おかしくない?」などと訊くことも出来ず、ただ心の内にもやもやしたものを抱えたまま式に臨んでいた。

担任紹介の時になって、みんなは誰が担任になるんだろうと流石にそわそわし始めたけれど、僕はそれとはまた別のそわそわを感じていた。「あの変な先生は、何処のクラスの担任になるんだろう」

それがまさかもまさか、僕のクラスの担任になったものだから、僕は驚きを隠せなかった。

四角い箱を被った水戸先生が、小走りでクラスの列の前へ来て、深々と礼を下げる。顔を覆った箱の向こうに、先生の表情は見えない。先生はクラスのみんなを歓迎するかのように、両手を大きく振る。箱も左右に揺れる。やっぱり表情は見えない。

担任が箱を被った先生だと分かっても、他のみんなは一向に不審がる様子も見せなかった。それどころか、「明るそうな先生だね」「割とイケメンに見える」などと言う人もいた。箱のことは、誰の口からも出ては来なかった。

当然、僕には到底理解出来ない話だ。箱を被っているお陰で顔も見えないのに、どうして明るいだのイケメンだの評価が出来るんだろう。有り得ない。

もしかするとあの箱は僕の幻覚なのかも知れない、とさえ思ったけれど、他の先生の顔は普通に見えているのに、水戸先生の顔だけ箱の幻覚が現れて見えるわけがない。僕の目がおかしいのではなくて、先生が間違いなく、箱を被っているのだ。

入学式後に行われる最初のホームルームでも、先生は頭の箱を取らずに僕らの前へ立った。

「えーと、私は今日から君たちの担任になる、水戸箱太と言います」

先生はそう言いながら、後ろを振り向いて黄色いチョークで黒板に自分の名前“水戸箱太”とでかでかと書いた。先生が“箱”という文字を書いた時に僕は目を見張ったものの、やはり他のみんなは大人しく先生の話を聞いていた。

「先生ね、こう見えても化学の担当なんです。えー、ですからね、担任のクラスですから、みんなには是非ね、化学の勉強に励んでもらってね、良い点数を取ってもらって、化学だけでもね」

周りから、何だそりゃと口々に失笑が漏れる。

「まあ本当は、テストなんてどうだっていいんです。何でもいいから一つ、強い興味を持ってさえくれればね。どんな教科でもいいんですよ?英語が大好きなら、英語だけ満点、あとは0点。あるいは化学が好きなら、化学満点、あとは赤点、とかね。まあこれは私の実話なんだけどね」

教室中に小さな笑いが湧く。男子も女子も、みんな笑っていた。けれどその楽しげな空気の中で、僕だけが笑うことが出来ずにいた。そりゃ出来れば先生の滑稽な話に、みんなと一緒に笑えたらいいんだろうけれど。僕は先生が顔に被っている箱のことで頭がいっぱいだったから、笑うことすら出来なかった。

その後もホームルームは先生の雑談を含めて一時間ほど続いたのだけれど、その中で先生の箱について訊いた人は誰もおらず、また当然先生自身からも箱のことは一切話されなかった。

結局入学式の日で分かったことは、担任がマジックミラーのような箱を被った水戸先生、そしてその容姿を怪しがる人間は僕一人、他の誰もが箱を被った先生を妖しいとも思ってはいない、ということだけだった。


入学式初日はそんなことばかり考えていたから、僕は気難しい人間だとでも思われたのだろう。翌日学校へ行くと、初日で友達となったと思える男子女子たちが挨拶を交わしていた。

「おはよーう」「うぃす」

よくもまあ一日で、たったの一日でこんなに楽しそうな関係を築けるものだ。僕だったら、少し間を取り合いつつ、徐々に徐々に親しくなる。そんな関係構築しか出来ない。

「おはよう!」「おお!おはよ〜」

僕には決して掛かっては来ないであろう声。清々しい春の空気に似合うほどの清々しい挨拶。僕には……僕には……。

「あっ、あのっ、あの……」

席に突っ伏して朝のホームルームが始まるのを待っていると、そんな声が聞こえてきた。また誰かが近くの席の奴に用があって話しているのだと思ったが、どうやら用があるのは僕だということらしい。

「何の用ですか?」

顔を見上げると、女子が微笑んでいた。眼鏡を掛けて、大人しそうな印象の女子だ。それが、一体何の用だというのだろう。

僕が顔を向けると、女子は少し照れながら「そこの席……、席、違ってるんだけど……」と言った。

嘘だ。間違いない、僕は確かに昨日と同じ座席に座ったはず、……だった。よくよく見ると、確かに椅子が低い。またよくよく見ると、黒板の見え方が違う。どうやら、僕は、彼女の言うとおりに座席を間違えて一つ後ろに座ってしまったのだった。

「ほんと、ごめん。順番間違えたんだ。ごめん」

僕は急いで立ち上がり、机の上の荷物を一つ前の本来の僕の座席に動かす。ああ、何て間違いを犯してしまったのだろう。僕は馬鹿かも知れない。実際馬鹿だよな、座席を間違えるなんて。

「ううん。別にいいよ。悪気があってやったのでもないし」

彼女は忙しく動く僕を向いて笑っている。良かった。怒っていなくて。意外と大らかな性格なんだろう。とは言うものの、良く聞く話で女は怖いという。陰口で何を言われるかも分からない。ここは大きく謝っておかなければならない。

席の引き出しや机の上の荷物を元にあるべき場所へ移動させると、僕は頭を深々と下げて言った。

「本当に、ごめん。ごめんなさい」

「そんな、席間違えたぐらいで大げさだよ?」

そしてその女子は笑ってさえくれた。僕もそれに応じて、控え目に笑った。ああ、いいなあ。これが僕の高校生活初めての友達、になるのかな?そのまま一気に……なんて妄想も、生え始めた一本の毛のように生まれていた。

けれど目が合うと突然、彼女の目は険しくなった。やっぱり、さっきの笑いなんて嘘だったんだ。本当は内心で強い怒りを覚えているのかも知れない。俺は怒られることを予期して、心を構えた。平謝りの心構えだ。

しかし次に耳へ入った言葉は、僕の全く予想していないものだった。

「ねえ、あの先生、ほら担任の水戸先生。どう思う?」

彼女は小声でひそひそと僕に話し掛けた。怒られるかも知れない、という不安は何処かへ離れ始めてはいたけれど、真面目な顔であの水戸先生の話をされて、また別の不安が僕の中から湧いてきた。

「え?どう、って?……うーん、まだよく知らないけれど、いい先生だよ、たぶん」

「本当に?それだけ?」

彼女が急に体を乗り出して、僕の顔に顔を近付ける。彼女の目は、じっと僕の目を見据えて離さなかったから、僕は圧迫されている感じがしてどきどきした。

「そう、そうだよ。それだけ」

「うーん、例えば、箱……いや、服装とか。おかしいと思わなかった?」

水戸先生をおかしいと思える点は、ただ一つあった。頭に被った、箱のことだ。彼女も今、“箱”と言い掛けたように聞こえた。もしや彼女も僕と同じように……とは思ったものの、必ずしもそうであるとは限らない。だから僕は、先生の頭の箱のことについては何も言わないことにした。

「いや、別に?ただ少しスーツがしわしわだったのが気になったくらいか」

「そっかあ」

彼女は何かを諦めたのか、乗り出していた体を収めて、椅子へ腰を落とした。

「ごめんね、変なこと訊いて」

「いや、そんなことないよ」

「そう言えば、名前何ていうの?私は山本」

「そうなんだ。僕も山本だ」

「へえ、同じ苗字かあ。名前順で座席が決められてるから、前後なんだね」

彼女、山本さんは妙に感心した様子で、教室中を見渡していた。気が付けば朝のホームルーム五分前。ほとんどの生徒が着席していた。後を待つのは、あのマジックミラーのような箱を頭に被った先生だけだ。

と、後ろから誰かが僕の肩を叩いた。山本さんだ。

「よろしくね、山本くん」

「ああよろしく、山本さん」

眼帯少女

  • 2008年10月30日 03:59

ニラギ。

ぼさぼさ頭の男子から渡された灰色の石を見ると、今まで私が聞いたこともないこの謎の言葉が、走り書きのように汚く書かれていた。

私がその“ニラギ”という言葉を見てまず思ったのが、“ニラ入りギョーザ”なのだけれど、まさかその略ではあるまい。“ニラギ”と書かれた石は、昨日の夕方から今朝のうちに教室中に投げ入れられたと聞いた。もしも“ニラギ”が“ニラ入りギョーザ”を意味する言葉だとしたら、一体誰が何のためにそんなことをするだろうか?

だいたい、訳の解らない言葉の書かれた石を投げ込むという行為すら、全く以て意味不明な迷惑行為だというのに。まあ、この得体の知れない普通科の連中なら、そういった無意味な行為すらやりかねないのだけれど。

「“ニラギ”?」

私が訊くと、ぼさぼさ頭はいやな含み笑いをしながら頷いた。周りの生徒たちも私の方を向きこそしないものの、私の言葉をいちいち気にするかのように、ぴたりと動きを止めて耳をそばだてているように見えた。

わざわざ離れた校舎にまで出向いて訊きに来てやってるというのに、普通科の連中というのは噂に聞く通りいやな奴ら。それともやっぱり、私が特進科の生徒だということが分かったから、わざとよそよそしく冷たい態度を見せているのかしら?

思えば、普通科校舎に足を踏み入れたその瞬間から私はどこか気持ちの悪い違和感を覚えていた。同じ学校の生徒ではあるけれど、普通科の生徒たちを見ると全く活気がない。廊下にぐでんと座り込んだり階段で寝っ転がったりはもちろん、教室の中を見れば男も女も関係なくほとんどの生徒が机に突っ伏して寝ており、まるで誰かのお通夜でも始まるのかとすら思ったほどだ。

昼休みにも関わらず、晴れた青空の広がる校舎の外にも遊びに出掛けようとする生徒もいない。特進科の生徒たち、特に男子などは、食事後の短い時間であろうとみなこぞって校庭へ遊びに行くというのに、普通科の男子ときたら何にもせずにただぼんやりと屋内に引きこもっている。喩えるなら、まるでゾンビのよう。

見る限り、ここの普通科というのは、本当に活気のない人間ばかりが集まってしまったようだ。あるいは、この学校の普通科に属したことによって、本来持っていたはずの活気さえ失われていったか。そのどちらかなのだろう。

そんな陰鬱とした空気の中で過ごす彼らにとって、私の襟元に光る特進科のバッジは目障りなものとして映るらしい。呼び出された教室へ向かって廊下を歩いていると、すれ違う生徒が冷たく鋭い目線を私に浴びせる。それが何度も続いたものだから様子をうかがうと、このバッジを目にした途端に彼らの目付きが鋭く変わることに気付いた。

要するに普通科の連中は、特進科というものが気に入らないのだろう。何が気に入らないのか解らないけれど、とにかく気に入らないらしい。

それでいて「頼みがある」と私を呼び付けたというのだから、頼んだ連中だけは不可解なわだかまりを一旦忘れて普通に迎えてくれるものとばかり思っていたのに、いざ来てみたら全然忘れちゃいやしない。この通り、私はいやな冷笑で歓迎されている。

私はだんだんと心に湧いて出てくる苛立ちを抑えながら、ぼさぼさ頭に再び訊いた。

「ニラギ、って何?」

「さあねえ?馬鹿な俺たちじゃ分からないから、特進科のあんたに聞いたんだよ。俺たちとは全く出来の違う、校内一頭のいい、あんたにね」

そう言うとぼさぼさ頭はまたいやな含み笑いを浮かべる。それに従うかのように、周りも同じようににたにたして、いやな微笑み顔になった。

この、声を殺してにたにたと笑う様子が、本当に憎たらしくてたまらない。自分たちを馬鹿だと卑下しながら、実のところは私の方を馬鹿にしているんだ。間違いない。いやな奴らだ。

けれどここでこいつらの挑発に乗ってしまったら、小野田の目論んだ筋書き通りに沿って進んでしまうことになる。あいつは、小野田は、教務主任という立場を利用しながら、生徒を巻き込んだ権力闘争を起こそうとしているのだから。

この普通科の連中も、小野田の野望など知らないまま駒として利用されているに過ぎない。おおかた、対抗心を超えた敵意が特進科に向かうように、前々から小野田に吹き込まれているんだろう。小野田なら、やりかねない。

もしかすると、この“ニラギ”の一件も小野田が仕組んだ陰謀の一端かも知れない。このぼさぼさ頭たちを使って、私に謎の言葉の秘密を解き明かさせようとしているのだ。そうすることで、何かの不都合を私たち特進科に押し付けようとしているのだろう。

そうだとすれば、私はこの件に乗るべきではないことになる。私一人だけの行動で、他の特進科の生徒たちに迷惑が被るようなことがあってはならないからだ。

“ニラギ”が小野田の罠だとしてもそうでなくとも、とにかく、私は一旦この件を持ち帰らなくてはならない。持ち帰って、みんなで検討するのが先決だ。

「こんな石ころが一つあったところで、手掛かりにも何にもならない。それに私だけじゃ何が何だか分かりようもないよ。人手が要るわ。もう何人か呼んで来ないと。だから……」

「俺たちは、あんたにお願いしているんだよ。他の誰でもない、あんたにね」

提案しようとしたところを突然ぼさぼさ頭が強い調子で遮ったものだから、私は正直驚いた。周りの生徒たちはその声に反応して、私へ顔を向けていた。その顔から発せられる視線が、まるで私を縛り付けているように思えて仕方がなかった。

黙る私にぼさぼさ頭は続けてこう言う。

「人手が要るというなら、このクラスの人間を使えばいいだろう?石が投げ入れられたことを知っている奴は、このクラスの人間と、あんただけなんだよ」

その言葉は、暗に私に対して「この件は内密にしろ」ということを言っているに違いなかった。

けれど、私一人で特進科の命運を左右することになるかも知れない行動をとるなんて、私には出来ない。ましてや私に対して決して良くはない感情を抱いているであろうはずの普通科の連中と一緒に行動するなんて、出来ればご遠慮願いたい。何をされるか分からないからだ。

私は迷った。迷う私を、教室中から向けられた視線が監視していた。

「あの……、あの……」

そこへ、誰かが小さな細い声でぼそぼそと言いながら近付いて来る。誰か、といってもこのクラスの人間には違いないのだろうけれど。

「あの、あの……」

声のする方に顔を振り向かせると、思ったよりも近く、いや、思ったよりもずっとずっと近く、私の顔の真ん前、こぶし二つほどに、真っ白な顔があった。

どう考えても、近付き過ぎだ。あまりにも近付きすぎていたものだから、もはや驚きすら通り越した恐怖に近いものを感じて、絶句という言葉がぴたりと当てはまるように、私は声も出せなかった。

私は自分自身を落ち着かせつつ一歩二歩三歩と後ずさりすると、その顔の持ち主の全身が見えた。

「あの……」

あの、と何回言えば気が済むか分からないこの人間の正体は、すらりと長い足、滑らかに流れる長い黒髪、……と、何故か白い包帯を膝に巻き、白い眼帯を左目に付けている、不思議な雰囲気の女子生徒だった。

彼女は不安げな表情をしながら、眼帯に覆われていない方のつぶらで大きな黒い瞳で、私をじっと見つめていた。

「あの……、あの……」

「何?何か言いたいことでもあるの?」

「あの、あの……」

まるでらちが明かない。そこに、ぼさぼさ頭にしては親切にも解説を入れる。

「ああ、だめだよ、そいつは。極度の人見知りだから、他人との距離感が分からないんだよ。まともに会話も出来やしない。話そうとするだけ、無駄だよ」

そんな解説を聞いたところで、彼女を無視する訳にもいかない。初対面との彼女との会話を試してみないことには、ぼさぼさ頭の言うことが本当であるか分からないからだ。

もしかすると、彼女は“ニラギ”について何かを知っているのかも知れない。彼女はそのことを、彼女なりに必死で私に訴えようとしているのだとしたら……。

そう考えると、彼女が言おうとしていることを訊かない訳にはいかなかった。

「……何か、私に伝えたいことがあるの?」

私が彼女の目を見てそう言うと、彼女は無言で静かにこくりと頷いた。やっぱり、そうだったんだ。彼女は何かを知っているんだ。私の知らない、何かを。

「それは、どんなこと?ね、教えて?」

私は思わず、彼女の手を取りながら問い掛けた。彼女の手は、ひんやりと冷たく、小さく震えてもいた。

「……ニラ……ザ」

小さな小さなか細い声で、彼女はそう言った。けれどあまりにも小さな声だったから、私は一部しか聞き取ることが出来なかった。顔をうつむかせた彼女の手は、まだ小刻みに震えていた。

正直なところ、私はこういう弱々しさを人前で見せる人間が嫌いで仕方がない。弱さというものは、本当に心も体も弱り切った時にしか見せてはならないものなのだから。身近の親しい人間がこんな様子を見せていれば、間違いなく苦言を吐くことを厭わないはずだ。

あるいはそれは、本当の私自身が弱い人間だからそう思っているだけのことなのかも知れない。弱い自分を決して見せまいと隠すために、私は強がっている。そう思うこともある。

それが私を形作る要素の一つだとしても、やっぱり私は弱々しさを隠そうとしない人間のことが嫌いなことには違いない。そして今、その弱々しさを惜しげもなく見せ付ける人間が、目の前にいる。

けれど、私は考えた。相手は“極度の人見知り”。そんな彼女が、全く初対面の私に対して、伝えたいことがある、とわざわざ向こうからアプローチしてきたのだ。

彼女の中には、伝えなければならない務めと話し掛けなければならない恐怖との間で、大きな葛藤があったに違いない。それを乗り越えて、彼女は私に何かを伝えようと決心したのだろう。叱り飛ばす訳にはいかなかった。

「ニラザ?」

私が訊き返すと、先程よりもいくぶんはっきりとした声で、彼女は返してくれた。

「……ニラ……入り、ギョーザ……」

「ニラ入り、ギョーザ……?」

彼女が大きな葛藤を乗り越えてまで伝えたかったこととは、それだったらしい。奇しくも、私が“ニラギ”について初めて連想した言葉と全く同じだった。

ぼさぼさ頭を初めとした周りの連中は、私と眼帯の彼女とのやりとりを横で聞きながら、またしてもあのいやな笑いをにたにたと浮かべていた。「だから言ったのに」と言わんばかりの、声を押し殺した笑い。全く、どこまでも癪に障るいやな笑いだ。いやな連中だ。

ひょっとすると、これもやっぱり小野田の罠だったのかも知れない。こんな人見知りの女子生徒まで使って、私に恥をかかせてプライドをずたずたにしてやろうとでも思ったのだろう。いや、罠と言うには幼稚すぎる。嫌がらせだ。程度の低い、嫌がらせだ。

私はそんな嫌がらせに引っ掛かったのだと思うと、自分が妙に恥ずかしくなって、彼女の手を離してさっさと立ち去ろうとした。こんな場所、来るんじゃなかった。頼まれたってもう二度と来るもんか。

と、誰かが私の腕をつかんだ。まだ私をからかうのか、と思って腕をつかんだ人間を睨むと、眼帯の彼女だった。

彼女はまだ不安そうな表情を浮かべて、その瞳で私を見つめていた。彼女が私に伝えたかったこと、ニラ入りギョーザなら、もう聞く必要もない。そもそも初めから、聞く必要なんてなかったんだから。

彼女は私の腕をつかみながら、あの小さな声でこう言った。

「……待って、お願い……」

「待たないよ。私は、こんなところでふざけた遊びに付き合っているほど暇じゃないんだからね」

私は彼女の手を振り切った。少し手荒いことに思えたけれど、私の意思、もう二度とここには来ないということを表すには、このくらいの手荒さも必要だ。大きく振り切って、教室の出入り口へと向かおうとした。

そこに、どたん、と大きな音が聞こえたものだから、私は思わず振り返った。

眼帯の彼女が、うつ伏せに倒れていた。私が彼女の手を振り切った弾みで、彼女は倒れてしまったのだ。

これは酷いことをしてしまった。彼女を傷付けるつもりは全くなかったのに、私は意思を示すという勝手な行為に彼女を巻き込んで、彼女を傷付けてしまったのだ。なんて酷い人間なんだろう、私は。これじゃ、弱さも強さも関係ない。

自分を恨むよりも先に、倒れた彼女に急いで駆け寄ると、彼女は自ら起き上がろうとした。どうやら、頭を打ったとか意識を失ったとか、大事には至らなかったらしい。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。大丈夫?」

心配して彼女の肩に手を掛けながら彼女の顔を見ると、彼女は意外にも微笑みさえ浮かべていた。先程の不安げな表情は、どこにも見当たらなかった。

「……大丈夫。……いつも、私、……自分で転んじゃうから……」

そう言いながら彼女は、その細い指で自分の膝を指差した。彼女の膝へと目を遣ると、白い包帯が巻かれていた。なるほど、それで包帯……。

周りの人間を見ても、彼女が倒れたことを目にしても全く慌てた様子が見えない。その周りの様子と彼女の包帯とを考えると、彼女が転ぶのは日常茶飯事の出来事なのだろう。だから、誰も驚かない。そして彼女の膝から、包帯は取れない。

「それなら良かった。でも、本当にごめんなさい」

「……ううん。あなたのせいじゃ、ないから……。心配してくれて、……嬉しい」

彼女はそう言うと、立ち上がろうとした。するとその時、左膝に巻かれていた包帯が、はらりとほどけていくのが見えた。

「あっ」

ほどけた包帯が覆っていた膝には、大きな湿布のようなものが貼られていた。その紫色の地の上に、マジックのようなもので赤色の文字が書かれている。

“今日も、明日も、ずっと独り”

膝の湿布の上には、そう書かれていた。膝の湿布にそんな言葉が書かれているとは思いもしなかったから、私は確かめるように何度も見た。けれど確かに、書かれていることに違いはなかった。

私の目が膝に置かれていることに気付くと、彼女は焦った様子になって膝を隠しながら、ほどけた包帯を巻き直した。巻き終えると、彼女は余裕のなさそうな照れ笑いを私へ向けた。

そんな彼女の顔を見て、私も笑いを返さずにはいられなかった。彼女と同じ、照れ笑い。

「んー?」

「んー?」

取り敢えず、湿布に書かれていた言葉の意味は問わないでおこう。そう私は心に決めた。

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