茨城症候群

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暗い夜道の出来事

  • 2008年9月10日 02:45

「音がね、聞こえないの……」

月が厚い雲に隠された蒸し暑い晩夏の夜のことでした。コンビニでお菓子を買った帰りに、暗くひっそりとした林の横の道を歩いていると、向こうから歩いてきた人が私の行く手を阻むようにして前に立ちはだかりました。そして小さいながらもよく通る声で、囁くようにそう言ったのです。若い女性の声でしたが、私にはその声を今までに聞いた憶えはありませんでした。

知らない女性に、突然前を立ち塞がられて話し掛けられた――たったそれだけでも私が驚いたのは言うまでもありませんが、私は暗い中にうっすらと見える彼女の姿を見て、その驚きを重ねました。彼女は、何一つとして身に付けていなかったのです。暗闇でも分かるほどの白い肌を露わにして、夜道を歩いていたのです。

いくらじめじめとした暑さが残る夜だからといって、一糸まとわぬ姿で外を出歩くことは、少なくとも私の中の常識では考えられません。それが若い女性なら、尚更のことです。

今まで私が生きてきた中で、道の横から現れた変質者の男性にその汚いものを見せつけられたことはありましたが、女性が変質者となって現れたということは一度もありませんでした。ですから私はその女性が目の前に現れたということに、大変に驚いたのです。

「音が、聞こえない……。聞こえないの」

彼女はそう呟きながら、驚きのあまり立ちすくんでいる私の顔を、まるで細かく観察するかのようにして、左から右から上から下からと覗き込んできました。それは奇妙な踊りのようでもありました。

これは普通ではありません。この女は、気の触れてしまった変質者に違いない、そしてただの変質者じゃない、何をされるか分かったものじゃない。私は全身に恐怖がじわじわと広がっていくのを感じて、走ってその場から逃げ出そうとしました。

ですが、私の身体は言うことを全く聞かなかったのです。何故かは分かりません。金縛りに遭ったときのように、身体中が固まってしまったのです。

誰かに助けを求めようと声を出そうにも、口が開きません。喉も動きません。彼女から顔を背けることもできません。目すら閉じることもできなかったのです。

私にはただ、視界いっぱいにまで大きく映った彼女の白い顔がゆらゆらと揺れているのを、冷たい恐怖に縛られて心臓をばくばくとさせながら黙ってじっと見ていることしか許されませんでした。

「ねえ……、音が聞こえない……。聞こえない……」

彼女の声と顔には、だんだんと鬼気迫る様子が見て取れました。どこか何かに追われて余裕を失っているような気がしたのです。

それを裏付けるように、初めはのろのろとしていた彼女の動きが忙しくなり、息遣いも聞こえるほど荒くなるなど、明らかに確かな焦りに囚われているのが感じられました。

彼女の様子がその異常さを増していることに気付いて、私は次第に命の危機を覚えました。正常な心を失った人間は、行動様式が読めないものです。目の前の彼女は何をするかも予期できません。予期できないものは、同時に危険でもあります。つまり彼女の存在は、危険そのものだったのです。

ですから、突然彼女が私に襲い掛かるとしても全く不思議ではありませんでした。またそうではなく、彼女が自分自身を傷付けるような行為に出ることも有り得るでしょう。

いずれにしても彼女が何をするか分からない状態で、私の心は安堵することなどなかったのです。“運を天に任す”とはよく言いますが、この時ほどその言葉を強く実感したことはありませんでした。

「聞こえない……、聞こえない、聞こえない……」

暗い小道に私と彼女は二人きり、他に誰も通り掛かる気配はありません。周りは林に囲まれており住宅もありませんでしたから、襲われている私に誰かが気が付いてくれることも期待できませんでした。

私は身体が動かせないまま、彼女の踊りを見せつけられていました。あるいは、その踊りは“呪い”だったのかも知れません。彼女が得体の知れない怨みを踊りに乗せて、私を呪ったのです。そうであれば、私が身体を動かせないことも説明が付きます。

しかしその踊りによって私は呪われたのかどうかなど、その時の私にはどうでもいいことでした。

私は動けない。そして目の前の狂った女に、私は捕らえられている。その状況から逃れられなければ、私は助かることができない。動けない私は、このまま彼女に殺されてしまうまで自由にはなれないのかも知れない。

もはや、絶望的でした。彼女は焦りこそ見せていましたが、一向に私から離れる様子もなく、小声で呟きながら、執拗に私の顔を舐め回すように見つめ続けていました。それはいつまでも続くかのように思えました。

しかし突然、彼女は顔をぴたりと止まらせ、辺りに響くほどの大きな叫び声を上げたのです。

「ああ!雑音が……、雑音が、私から音を……。雑音が、雑音が……!」

すると彼女は、視界の中から崩れるように消えていきました。同時に、動かせなかった私の身体が自由を取り戻したのです。

私は動かせることを確かめるように手の平を閉じたり開いたりしたあと、彼女を見ました。彼女は地面へうつ伏せに倒れて、耳を塞ぎながら言葉にもならない呻き声を上げていました。

そんな彼女の様子に、何故か私は哀れみを抱いたのです。普通ならそんな感情は、今まで自分を恐怖に陥れていた相手に対して抱くことはないはずです。しかし私は呻きながら苦しがる彼女を見て、不可解にも同情の念を覚えていました。

ああ、倒れている彼女が可哀想、手を差し伸べてあげなきゃ。そう思ったときでした。どこからか「にゃあ」と猫の鳴き声のような音が聞こえ、同時に稲妻のように鋭い、閃きにも似た感覚が頭の中を走ったのです。

彼女を助けてはいけない。逃げるには、今しかない。

私ははっと気付いて、正気を取り戻しました。明らかに、私は何かに惑わされていたのです。惑わされて、私を捕らえていた彼女を助けよう、などと考えてしまったのです。

私はコンビニで買ったお菓子の入った袋を持つと、急いで走り出しました。彼女が後ろで何かを言っている声が聞こえましたが、私はそれに構うことはありませんでした。

悪夢のような出来事から解放されて、私は空を見上げました。空を覆っていた黒い雲はいつの間にか晴れて消え、大きな白い満月が明るく輝いていました。

掲示板アイドル

  • 2008年9月18日 02:28

“ネットアイドル”。

たぶん、わたしがネットでやっていることを一言で説明するなら、そう言った方が解りやすいかな。でもわたしはわたし自身のことを“アイドル”だなんて自称するつもりはないんだけどね。“アイドル”に相応しい顔もしてないし、そんな器でもないしさ。

一言だといろいろ語弊があるからもっと詳しく説明すると、わたしはネットの掲示板で、ハンドルネーム、もちろん本名じゃないけど、わたしを識別できるような名前を付けて書き込んでるんだ。誰でも書き込める掲示板で、どんな会話をしてもいい掲示板。わたしはそこで、ネットのみんなと交流してるの。

何が楽しいかって言うとね、わたしが何か書き込む、例えばその日に身の回りで起きた出来事とか、世間の興味のあることとか。日記みたいにね。そしたら、そのわたしの書き込みにすぐに反応、レスって言うんだけどね、それが来るの。一つじゃなくて、たくさん。それでわたしはそのレス一つ一つに、お返しのレスを書き込む。一種のチャットと言ってもいいと思うけど、そのやりとりが楽しいんだよね。

今ではもう楽しくて仕方がないんだけど、掲示板に書き込み始めた頃のわたしは、顔も名前も知らない人たちといろいろな話をするのが怖いと思ってたんだ。だって、どんな人が書き込んでいるか分からないじゃない?回線の向こう側にいる人は、ネット上で女の人と仲良くなってチャンスがあれば実際に会うように誘って隙あらば襲っちゃおう、とかいっつも考えてるような、脳みそまで下半身の男の人かも知れないし。

だからネット上には本名とか住所とか、自分の素性が分かってしまうような情報は絶対に書き込まないように、いつも注意しながら掲示板に参加してた。わたし自身は全然追い詰められてもないのに、まるで追い詰められたうさぎみたいにびくびくした書き込みをしてたのかも。

でもそしたら面白いもので、慣れてきちゃうと自然にそういう意識も薄れていっちゃうんだよね。いつの間にか、わたしの通ってる学校名とかわたしの顔とか趣味とか、もういろいろな個人情報が掲示板のみんなに知られてたし。もちろん全部わたし自身が書き込んだんだけど、何でわたしがあれほど書き込んじゃいけないと思ってたものを晒したか分かる?

それは、掲示板のみんなの反応が欲しかったから。そしてわたしの方へみんなの興味を引き付けることができることを知ったから。

例えば、どこそこに住んでる、とか書き込むと、『そこ近いなあ』とか『そこらへんの店に行ったことがある』とか、わたしの領域へみんなをおびき寄せることができた。自分の顔写真をアップロードして見せると、『かわいいなあ』とか『俺の妹になって』とか返ってきて、わたしをより身近な存在に思わせることができた。

次第にそれが条件反射になってきてね、みんなの注目をわたしに向けさせたいなあと思うと、途端に自分の情報を書き込むようになっちゃうんだ。そしてその情報が素性に近ければ近いほど、みんなを引き付ける力が強い。これを一回知っちゃうと、本当に病み付きになるんだよ。もう止められなくなっちゃった。

依存が深まってどんどん自分をさらけ出してるうちに、今ではそこの掲示板の“四大アイドル”のうちの一人に数えられたりしてる。わたしにとって、その掲示板はもうわたしのアイデンティティの一部になってるんだ。掲示板でみんなとレスをしあうことで、わたしは自分の存在を強く確認できる。この掲示板がなくなったらわたしはわたしじゃいられなくなる、みたいな。

だから自然と、掲示板へ書き込むことがわたしの生活の時間の多くを占めるようになってる。わたしは別にこのことは否定的に捉えてなくて、楽しいものは楽しいんだから仕方がない、って思ってるんだ。学校へ行く以外の時間はほとんど掲示板に書き込むことに費やしてるけど、止めたい、と思ったことはあんまりないや。

掲示板でみんなと会話していて楽しいのは間違いないんだけど、やっぱりそこも天国じゃなくて、楽しいことだけしかないわけじゃない。

毎日毎日掲示板に書き込んで、みんなとレスをしあうんだけど、その中にはわたしと会話する為のレスばかりじゃなくて、わたしに対する嫌がらせみたいなレスもある。『出て行け』とか『うざい』とか。セクハラ紛いのレスとか、もっと酷い言葉になると、『死ね』『殺すぞ』なんて脅迫めいたものもちらほら。

まあその掲示板はわたしの為だけにある掲示板じゃないから、そういう思いを持つ人がいても当然だと思うよ。でもね、誰もが自由に書き込める場所なんだから、わたしのことが嫌で嫌で仕方がないと思う人がいても、ただその人がわたしを無視すればいいことなんだよ。わたしに悪意を持ったレスをわたしが無視してるようにさ。わざわざ敵意を剥き出しにして争うようなことはしちゃダメなんだよ。だって、社会ってそういうものでしょ?

だからそういう不愉快な思いをするようなレスがあっても、わたしは掲示板から出て行こうと思ったことはないんだよね。わたしがいて、わたしにレスしてくれる人たちがいて、大きな楽しみがその場にあるんだから。人が楽しんでいるのをやっかんで罵ったり荒らしたりする人は、人生損してる、って思うよ。そういうことする時間があるならさ、自分なりの楽しみを見付ければいいのにね。

……でもね。それって、本当はただの建前に過ぎなかったりする。感情っていうのは、そういう真っ直ぐな理論を乗り越えて溢れてしまうことがあるんだよね。

実はわたしも、嫌で嫌で仕方がない人がいたんだ。同じ掲示板に。

わたしが掲示板の“四大アイドル”の一人になってるって言ったと思うんだけど、わたしが憎たらしいほど嫌いだった相手はそのうちの一人。仮の名前をAと呼ぶことにするけど、本当にAは憎たらしかったんだよ。大っ嫌いだった。

まずね、レスしてくれなかったんだ。わたしにだけ。何故だか分からないけど、わたしだけ無視する。何かの間違いだと思ってレスをし直しても、まるでわたしのレスだけなかったかのように、Aはわたしにだけレスを返さないの。

わたしがAに何か失礼なことしたのかな、と思っても、思い当たることも何もなかった。だいたいAとわたしとは“四大アイドル”と一括りにされることはあっても、レスをしあったり直接メールしたりすることもなかったし、接点がほとんどなかった。だからわたしは無視されるわけが全然解らなくて、悲しく思えたほどだもん。

あと、わたしのことをぼそりと馬鹿にすることがあったんだよ。例えばね、わたしが洋楽のことについて他の人とレスしてると、Aは誰にレスすることもなく独り言のように『西洋かぶれって頭が弱いんだよね。頭が弱いから西洋かぶれになるんだよね』って書き込んで。直接レスされたわけじゃないんだけど、だからこそ何か妙に腹が立ったんだ。言いたいことがあるなら直接言えばいいじゃん、って。

まだある。“四大アイドル”のうちのもう一人のBさんとは、わたしはよくメールをしたりするんだけど、ある時変なメールがBさんから来た。『私のどこがムカつくの?』って。わたしがBさんにムカつくことなんて一つもなかったからおかしいなと思ってよく確認したら、掲示板の人から、わたしがAにBさんの悪口を言っていたとかいう趣旨のメールが来たんだって。わたしはBさんの悪口を言ったことなんて一度もなかったから戸惑ったんだけど、Bさんは信頼できる人だと思ったから、わたしはAと険悪だから他人の悪口を言えるような仲じゃない、ってBさんに説明したんだ。そしたらBさんも分かってくれた様子で、何かの間違いだったんだね、ってことになったんだ。たぶんこれは、Aの仕業だと思った。間違いないよ。

まだある。わたしがある人とレスしてた時、Aが突然その人に横レスしたと思ったら、いつの間にか向こうに話題を持って行かれたり。その時のAの連レスは怒濤の勢いだったんだから。多人数でやってるの?って思えるくらい。どうしてそこまでしてAがわたしから人を遠ざけたいのか、わたしには解らなかった。

まだある。あるんだけど、これ以上挙げたらキリがないなあ。キリがないほど、本当にAはわたしに嫌なことをたくさん、たくさんしたんだよ。

あのね、一言で言えば、陰湿なんだよ。Aってさ。無視したり、直接ものを言わなかったり、裏であることないこと言ったり、陰口叩いたり。

だからわたしはもういい加減うんざりして、Aがある日突然死んでしまえばいい、とさえも思った。でもそう思っている自分に気付いて、わたしはハッとした。いけない、そんなこと思っちゃ、わたしもAと同類だ、って。

「正面から堂々と、撃ち墜としてやらなければならない」

そう、わたしはAとは違うんだから。陰湿なAとは、全然違うんだから。

だからわたしは、Aをおびき寄せたの。わたしが掲示板のみんなの気を引くのと同じように、Aを引き寄せることなんて、やろうと思えば簡単なことだったんだよ。体で“四大アイドル”の呼び名を手に入れたAには、決して真似できないこと。

わたしはAへの敵意を捨てたかのようにひたすら隠して、Aを称賛し続けたんだ。憎たらしいAに恭順する、っていう屈辱を我慢しながらね。わたしの変わりように驚いたのかは分からないけど、Aはだんだんとわたしに柔らかい態度を見せるようになった。

同じ“四大アイドル”に括られていたことも手伝って、見せ掛けのわたしとAの仲はどんどん深まっていったんだ。Aとメールを頻繁に交わすほどの仲になったら、もうこっちのものだと思った。後は、二人で会っていろいろな話がしたいな、とAを何度も誘い出すだけ。

夜の駅で待ち合わせして、ネットで見たとおりのAの顔が現れた。わたしの顔を見た時にAは「会いたかった」とか言ってわたしを抱き締めたから、わたしも「会いたかった」と返してAを抱き締めたんだ。これは嘘じゃないよ。本当に、会いたかったんだから。

現実で実際に会ったAは、ネット上と変わらず憎たらしい女だったなあ。どこが憎たらしいって言うんじゃなくて、もうAの存在そのものが憎たらしいからそう思ったんだろうね。わたしもネット上と変わらず、Aに対する本心を一切見せなかったけどさ。

それで何回か顔を合わせて会っていくうちに、Aはすっかりわたしを信じるようになっていったんだ。わたしが温かい笑顔の裏に、冷たく鋭い悪意を持ち続けているとも知らずにね。

Aの憎たらしい笑顔が恐怖に怯えてくしゃくしゃになって、わたしは本当の笑顔を初めてAに見せたんだ。だって面白かったんだもん。Aの必死に助けを請う顔が。その顔を見て、わたしは笑わずにはいられなかったよ。

Aはわたしの足元にすがって、震えて泣きながら言ってたなあ。「どうして、どうしてこんなことするの」って。さあ?自分の胸に訊いてみな、ってわたしは思ったけど、ヒントをあげるほどわたしは優しくないからね。わたしは何も答えずに、見たこともないほど醜いAの顔を笑ってあげたよ。

そして、正々堂々とわたしはAを撃ち墜としたんだ。

Aのこと、かわいそうだ、って思う?全然かわいそうなんかじゃないよ。Aが悪いんだよ。全部、Aが悪いの。自業自得。


『Aが板に突然来なくなったんだけど、どうしてだと思う?』

『さあ?そうだ、Aと親しくしてたお前なら知ってんじゃないの?』

「Aちゃんはお星様になって夜空で輝いているんだよ」

『wwwwww』

『なんだ、じゃ“三大アイドル”になっちゃったのか』


Aのいなくなった掲示板で、わたしは今日もみんなの“アイドル”で居続ける。

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