茨城症候群

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月の女

真っ昼間の暑い最中、俺は玄関に寝っ転がっていたんだ。二つ折りにした座布団を枕代わりにして、冷たい床の上に半裸になってごろごろと転がってね。俺の家の玄関って北向きだから、風通しが一番いいんだよ。ドアを半開きにして、玄関の反対側にある居間の窓も全開にすると、そりゃあもう心地いい風がスースーと入り込んできてさ。

そんなことをしていたら、ドアの向こうから声が聞こえてきたんだ。か細い、弱々しい声がね。

「こんにちは……」

ああ、俺は驚いたよ。驚いたというより、怖かった。だってさ、チェーンを付けていたからといって、ドアを半開きにしていたんだから、間違いなく覗かれていたんだよ。玄関で横になっている半裸の俺の姿をさ。

正直、止めて欲しいよな。こういうプライバシーって言うのかな、私生活をみだりに見ることはさ。俺はそう思ったから、慌てて飛び起きてTシャツを来て、半開きのドアの隙間越しに外を見た。内心怒りを抱えながらね。

「こんにちは……」

声の主だろう、そいつがドアの隙間にひょこっと顔を出すと、さっきと同じ言葉を言った。一度言えば分かるんだよ、馬鹿野郎。

隙間から見えた声の主は、俺と同い年くらいに見える若い女性だった。そいつは微笑みを顔に浮かべながら細くなった目で、俺を見ていた。

ふん、そんな偽善的な笑顔をよくもまあ堂々と晒しやがって。どうせ宗教かなんかの勧誘だろう。あいにく俺は無神論者だ。宗教のしの字でも出してみろ、問答無用ですぐにドアをぴしゃんと閉めて鍵を掛けてやるからな。

「何かご用ですか?」

ドア越しに俺がわざと不機嫌そうな低い声で問うと、その若い女は表情を変えずに答えた。

「こんにちは……」

またそれか。何度言えば気が済むんだ。お前はこんにちは星人か。それともただの冷やかし魔か。俺は涼むのに忙しいんだ。こんにちは星人でも冷やかし魔でも、構っている暇なんてないんだよ。

「こんにちは……」

なおも女は同じ表情で、同じ言葉を繰り返しやがった。これはおかしい、と俺は思い始めた。一二度ならず、四度も「こんにちは」だぜ。突然、俺は背筋に走る寒気と共に一抹の不安に襲われて、この女が不気味に思えてきた。

不幸にも、この俺の不安は当たってしまったようだった。

「こんにちは……」

女は、こちらが問い掛けてもいないのにも関わらずに、また同じ調子で挨拶をする。その顔と声は、俺にはもう不気味としか感じられなくなっていた。おい、一体何なんだ。どうしてそんな笑顔で「こんにちは」を俺に掛け続けるんだ。止めてくれよ、止めてくれ。

俺は何だかもう怖くなって、急いでドアを閉めて鍵を掛けた。おお怖い。きっとあいつは幽霊か何かに違いない。こんにちは幽霊だ。しかし幽霊が真っ昼間に現れるものだろうか?いやそんなのはどうでもいいい。問題なのは、今俺の目の前に、この未知なる存在が迫っているということだ。

「こんにちは……」

ドアを閉めても、その向こうからまだその声は聞こえてきたんだ。そしたらもう不気味どころじゃない、命の危機に準じるような程の恐怖を感じて、俺の全身が震え上がっていた。俺はへなへなと玄関の床に座り込んだ。気付くと、変な汗で身体中がびしょびしょになっていた。言っておくけれど、お漏らしじゃない、汗だ。それも暑さのせいじゃない、恐怖のせいだ。俺はもう今までに経験したことのない恐怖に襲われていたんだよ。

「こんにちは……」

まだ声は聞こえたから、ああ俺はもうだめだ、こんにちは幽霊に呪い殺されるんだ。そう思って、自分の部屋に戻って万年床の布団の中に潜り込んだ。

それでもだ。俺の耳元で囁いているかのように、あの声は聞こえてきやがったんだ。

「こんにちは……」

だめだ。だめだ。だめだ。布団の中もだめだ。きっとトイレに行ってもだめだ。どこへ行ってもだめだ。あの声は俺を追い掛け続けるつもりだ。俺を殺すまで、いや、下手をすると俺を殺してもなお俺を追い続けるのかも知れない。

俺はもう冷静な思考もできなくなって、ぎゃーと叫んでベランダから飛び降りた。それっきりさ。

幸いなことだけど、今俺はここに来て、もうその声は聞こえなくなった。本当に良かったよ。助かった。俺は助かったんだ。

ただまあ、こんな小さい猫になるとは予想外だったな。婆さんに近付いてニャーニャー言っていれば煮干しやらを沢山くれるから、案外暮らしやすいけどさ。君ももしかして、こんにちは幽霊に襲われたのか?


「まあ、そういうことだ。鹿島さんで会った仔猫の話」

シロは僕に長い話を聞かせ終えると、ふう、と小さく息を吐いて、扇風機の前へ行き体を涼ませる。

「月の女は、その男を追い詰めて、命を奪ったんだ。しかも真っ昼間にな」

ふわふわとシロの毛が扇風機の風になびいて、シロは気持ちの良さそうな表情を浮かべる。

「それはまさか、雑音を使って?」

「……間違いない、雑音だ。月の女は自在に雑音を操ることができる」

シロは目を閉じて、顔を床に寝かせる。さぞかし風が気持ちいいのだろう。そんなシロの様子は、電気代をけちって冷房を入れたがらない僕にとって、シロへの申し訳なさを少しながら打ち消した。

「おいらが鹿島さんで会おうとした山本の猫は、もう月の女に連れ去られちまった。道理で鹿島さんの石がずれた訳だ。全ては月の女の仕業だ、畜生」

そしてシロはぎょろりと鋭い目を僕へ向けて、こう言った。

「くれぐれも月の女には気を付けろ。あいつはいつ、何処にでも、どんな形でも現れる。神出鬼没だ」

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