茨城症候群

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幸せの空

もう六月の月は沈んでしまったけれど、私はこうして、青い空の下で大きく背伸びをしている。心地良いそよ風の吹く丘で、少し強くなった太陽の光を身体一杯に浴びながら、背伸びをしている。

もうあの白い服を無理矢理着せられることもない。私は私の思い通りの服装をして、ここに立っている。それが、全て。

幸せ、と言われればその通り幸せなのかも知れない。けれど、私はそんな幸せの中にもどこか寂しさが感じられて仕方がなかった。

それはとてもとても小さいのだけれど、底のないような得体の知れなさを窺わせる、どっしりとした重みのある寂しさ。イメージとしては光りをも吸い込むという真っ黒なブラックホールと似ているのだけれど、私の中のこの寂しさからは真っ白い重さという感じを受ける。

だから私は、今の私が円満な幸せの状態にあるとは思えない。それどころか、何か掛け替えのないものを失ってしまった感じがして、その点に悲しみにも似た気持ちを抱いている感すらある。

確かに私は、六月の月に心を囚われた挙げ句に脅かされていた。毎日白い服を着せられて、迷いという歪みの生じた心を持つ人々に"音"を伝えるように強いられていた。

どうしてそんな人々に"音"を伝えなければならないのかは私自身は理解していなかったけれど、とにかく私はそうしなければならなかった。もしもその役目に背いたなら、六月の月は私という存在を一瞬にして闇の彼方へと消し去ってしまう、と言われていたから。

けれどそれも、そもそもは私が六月の月に魅せられたのがことの始まり。六月の月に心を囚われることがなければ、私は彼が沈んで見えなくなるのを待つこともなく、とっくのとうに月の下から逃げ出していたに違いない。

そうしなかったのは、私が本当に六月の月の放つ光の妖しさに惹かれていたから。心の底から、彼に惹かれていたから。

だから私は、六月の月に大人しく従っていた。そうすれば、私もいつか彼の隣、いや、彼と一つになれることもあり得るかも知れない、と思っていた。むしろ、期待すらしていた。

けれど結局、それは叶うことがなかった。叶わないまま、六月の月は自らその身を消して去っていった。私を置いて、消えていった。

六月の月への想いが募る一方で、心のどこかで彼への畏怖があったから、私はこうして表向きは幸せな七月を迎えているのかも知れない。

平穏な日々は、寂しさの代償。きっと、そうなのだろう。


「おーおつーきさんっ。何やってるの?」

その声に後ろを振り向くと、月、じゃない、同じクラスの友達、山本さんがいた。

「ううん。……綺麗な青空だと思って、少し眺めていたんだ」

雲一つない、青い空。当然、六月の月も見えるはずもない、ただ青だけが一面に広がる、透き通った七月の夏の空。

それは確かに私自身が言った通りに綺麗な空ではあったけれど、そんな綺麗なだけの空では、やっぱり私の中のどこか寂しい気持ちは拭えなかった。

「大月さん、なんか寂しそうだね。何かあった?」

「ううん、何もないよ。ただ、ただね……」

「ただ?」

山本さんが横から私の顔を覗き込む。私は溜め息を一つ吐いて、青空を見ながら言う。

「……もう六月の月は、沈んでしまったんだなあ、って」

それが山本さんに通じたのか通じなかったのか、きっと通じなかったのだろうけれど、彼女は笑顔になって返す。

「何だかちょっとセンチメンタルになってるんだね。そういうこと誰にだってあるもん」

誰にだってある。果てしてそれは本当なのだろうか。私には、そうには思えない。山本さんが月に魅了されて、その月から下された役目を以て人々を狂気に陥れる。そんな体験をすれば、決して"誰にだってある"なんてことは軽々しく言えなくもなるだろう。

けれど私には、彼女を責めるつもりもない。彼女は何も知らないのだから。何も知らないことは罪ではないけれど、何も知らないことをただ詰るのは罪。私にはそんな罪を作ることはできない。

「さっ、帰ろっ。日が暮れちゃうよ」


そして私は、ずっと後で知ることになった。この山本さんと、彼女の一族を取り巻いている運命を。

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