茨城症候群

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月は沈み、文月が始まる

「見てご覧、月が沈んでいくよ」

かわたれ時に、僕は西の方へ沈む月を見た。ほんの少し前までは、あんなに上の方にあって輝いていた月が、今ではもう光を失いかけて、空の向こうへ消えようとしている。

代わりに東の方には、力を取り戻したかのように光を放つ太陽がだんだんと空へ昇る様子が見える。久し振りに見掛ける、真っ白で真っ直ぐな、力強い光だった。

「白い月の女なんて居なかったんだな」

ベランダの椅子にちょこんと乗っているシロが、少し残念そうな顔をして言う。

「うん、きっと誰かが悪い夢を見ていたんだろう」

僕はそう言って、シロの頭を撫でる。シロはにゃあと鳴くと、部屋の中へ入っていった。

シロに続いて、僕は部屋へ戻る。戻り際に西の空を見ると、もうすぐ月が消えるところだった。僕は月が沈み終わるのを見届けず、部屋へ入っていった。

「もう今年も、半分が終わったんだね。もうこれからは、夏だよ」

「夏か。おいらは、夏なんて嫌いだ。暑いからな」

シロは、お気に入りの場所なのだろう、いつものテーブルの上へ乗って、次第に明るくなる日の光を浴びながら、前足で顔を洗っていた。

「今年はクーラーがんがんで頼むよ」

「猫は猫らしく、部屋の中じゃなくて、外の車の下で涼んでいればいいさ」


七月が、始まった。

幸せの空

もう六月の月は沈んでしまったけれど、私はこうして、青い空の下で大きく背伸びをしている。心地良いそよ風の吹く丘で、少し強くなった太陽の光を身体一杯に浴びながら、背伸びをしている。

もうあの白い服を無理矢理着せられることもない。私は私の思い通りの服装をして、ここに立っている。それが、全て。

幸せ、と言われればその通り幸せなのかも知れない。けれど、私はそんな幸せの中にもどこか寂しさが感じられて仕方がなかった。

それはとてもとても小さいのだけれど、底のないような得体の知れなさを窺わせる、どっしりとした重みのある寂しさ。イメージとしては光りをも吸い込むという真っ黒なブラックホールと似ているのだけれど、私の中のこの寂しさからは真っ白い重さという感じを受ける。

だから私は、今の私が円満な幸せの状態にあるとは思えない。それどころか、何か掛け替えのないものを失ってしまった感じがして、その点に悲しみにも似た気持ちを抱いている感すらある。

確かに私は、六月の月に心を囚われた挙げ句に脅かされていた。毎日白い服を着せられて、迷いという歪みの生じた心を持つ人々に"音"を伝えるように強いられていた。

どうしてそんな人々に"音"を伝えなければならないのかは私自身は理解していなかったけれど、とにかく私はそうしなければならなかった。もしもその役目に背いたなら、六月の月は私という存在を一瞬にして闇の彼方へと消し去ってしまう、と言われていたから。

けれどそれも、そもそもは私が六月の月に魅せられたのがことの始まり。六月の月に心を囚われることがなければ、私は彼が沈んで見えなくなるのを待つこともなく、とっくのとうに月の下から逃げ出していたに違いない。

そうしなかったのは、私が本当に六月の月の放つ光の妖しさに惹かれていたから。心の底から、彼に惹かれていたから。

だから私は、六月の月に大人しく従っていた。そうすれば、私もいつか彼の隣、いや、彼と一つになれることもあり得るかも知れない、と思っていた。むしろ、期待すらしていた。

けれど結局、それは叶うことがなかった。叶わないまま、六月の月は自らその身を消して去っていった。私を置いて、消えていった。

六月の月への想いが募る一方で、心のどこかで彼への畏怖があったから、私はこうして表向きは幸せな七月を迎えているのかも知れない。

平穏な日々は、寂しさの代償。きっと、そうなのだろう。


「おーおつーきさんっ。何やってるの?」

その声に後ろを振り向くと、月、じゃない、同じクラスの友達、山本さんがいた。

「ううん。……綺麗な青空だと思って、少し眺めていたんだ」

雲一つない、青い空。当然、六月の月も見えるはずもない、ただ青だけが一面に広がる、透き通った七月の夏の空。

それは確かに私自身が言った通りに綺麗な空ではあったけれど、そんな綺麗なだけの空では、やっぱり私の中のどこか寂しい気持ちは拭えなかった。

「大月さん、なんか寂しそうだね。何かあった?」

「ううん、何もないよ。ただ、ただね……」

「ただ?」

山本さんが横から私の顔を覗き込む。私は溜め息を一つ吐いて、青空を見ながら言う。

「……もう六月の月は、沈んでしまったんだなあ、って」

それが山本さんに通じたのか通じなかったのか、きっと通じなかったのだろうけれど、彼女は笑顔になって返す。

「何だかちょっとセンチメンタルになってるんだね。そういうこと誰にだってあるもん」

誰にだってある。果てしてそれは本当なのだろうか。私には、そうには思えない。山本さんが月に魅了されて、その月から下された役目を以て人々を狂気に陥れる。そんな体験をすれば、決して"誰にだってある"なんてことは軽々しく言えなくもなるだろう。

けれど私には、彼女を責めるつもりもない。彼女は何も知らないのだから。何も知らないことは罪ではないけれど、何も知らないことをただ詰るのは罪。私にはそんな罪を作ることはできない。

「さっ、帰ろっ。日が暮れちゃうよ」


そして私は、ずっと後で知ることになった。この山本さんと、彼女の一族を取り巻いている運命を。

中三病

  • 2008年7月 3日 23:57

僕がまだ中学三年生だった時の出来事。文化祭の後にクラスで演じた劇のセットの片付けをしていた時のことだった。

「ね。何でも一つだけ願いが叶えられるとしたら、やまもと君は何をお願いする?」

突然僕は、好きだった女の子、よしださんからそう問われた。僕は彼女の透き通った青空のような笑顔が僕の目の前にあるのを見て、どぎまぎした。

何だろう、この思わせ振りな問い掛けは。まさかこの子は、僕に気があるんだろうか。いやそんなわけがない。だってよしださんは、可愛いし明るいし頭は良いし、クラスで一番の人気者だ。そんな彼女が、根暗でイケメンでもない僕のことを、恋愛の対象として見るはずがないんだ。でもそう言えば最近、僕はよしださんとよく話すことが多くなっていた。別に僕の方から話し掛けているんじゃない。彼女の方から、僕に話し掛けてくるんだ。きっと、もしかしたら……。

いや、それは多分、ただの偶然なんだろう。あるいは、僕のただの自意識の過剰さがそう思わせているだけかも知れない。そう、今日もきっと、ただちょうど近くにいた僕に、ちょっと頭にひらめいて湧いた考えを聞いてみただけなんだろう。そうに違いない。いや、でも、ひょっとしたら、ひょっとしたら……。いや、まさか……。戸惑う僕の頭の中には、二つの答えが浮かんでいた。

君といつまでも一緒にいられたらいいな。

そんなことはとても言えなかった。僕は加山雄三じゃない。白いギターを片手に恋を語る若大将なんて器じゃないんだ。

内気な僕と、陽気なよしださん。僕が彼女に、君といつまでもいたい、なんて言ったところで、うわ何この根暗なガリ勉、私と一緒にいたいなんて気持ち悪い、と引かれて気味悪がられるに決まってる。もう一生僕と話を交わしもしてくれなくなるかも知れない。そうなったら、僕はもう学校にいられない。卒業までの間、ずっと登校拒否をしなければならなくなってしまう。それじゃ困る。

だから僕は、頭にあったもう一つの答えを返した。

「世界中の人がみんな、笑って過ごせるようになればいい、かな」

その無難な答えを聞いた彼女の顔が、少しだけ陰ったように見えた。気のせいかも知れないけれど、僕には確かにそう見えた。

「やまもと君らしいね。ほんわかしてて」

「よしださんは?」

「私はね……、好きな人と、ずっとずっと、一緒にいられますように、って」

そう言ったよしださんの顔が、にわかに赤くなっていることに僕は気が付いた。今度は決して気のせいなんかじゃない。ちょっとはにかんだ顔に、赤みを差した頬。よく見れば耳も真っ赤だ。目線もどこか定まらずに、ふらふらと泳いでいる。これは、普通じゃない。

そんな普通じゃないよしださんを見て、僕も普通でいられなくなってしまった。もう頭の天辺からつま先までどぎまぎで埋められて、平静を保っていたはずのいつもの僕はどこかへ消えてしまった。

「へ、へえ、へえ。いいね、いいお願いだね。いい、いいお願いだと思うよ、いいよね」

この慌てた口調が、酷くみっともない。自分でさえそう思うんだから、他人にもそう思われるんだろう。もちろん、目の前のよしださんにも。けれど彼女は赤くなりながらも、僕を変に思う様子も見せず、むしろ僕を暖かく見守るような眼差しさえ見せて、微笑んでいた。あれ?よしださんが普通に見える。変なのは、僕の方じゃないか。

心臓の鼓動が早くなり、身体中の血管が波打っているかのように感じられる中、僕はもうどうすればいいのかも分からず、咄嗟に声を出していた。

「ほら、ほら、さ、タケちゃんだったらどうお願いするかな。ねえ、タケちゃん、タケちゃん」

変になった僕は何故か、近くにいた、いや近くじゃない、だいぶ遠くで舞台を片付けていた、同じクラスのタケちゃんという友達を呼んで手招きをしていた。

丸坊主の彼は、その頭通りの明るくひょうきんな性格で、誰からも好かれるような人間だった。もちろん僕も彼を好いている人間のうちの一人だった。そしてあまり友達付き合いが多いとも言えない僕は、彼だけにはある種の柔らかい印象を覚えていた。

どうしてあの状況でタケちゃんを呼んだのかは分からないけれど、きっと僕は無意識のうちに助けを求めていたんだろう。そして助けを求めたのが、僕が最も親しみを感じている彼だった、ということなのかも知れない。

僕に呼ばれたタケちゃんは、作業の手をぴたりと止めると、不思議な表情で僕とよしださんとを交互に見ながらこちらへ歩いてきた。

「何ね、呼んだ?」

「よしださんがね、もしも一つ願いが叶うなら何をお願いするか、って。タケちゃんだったらどうする?」

「……」

よしださんにちらりと目を向けて見ると、無言の彼女の顔からは、見る見るうちにあの優しく暖かかった表情が失われていく様子が見えた。そしていくらか強張ってさえもいた。強張ってはいるのだけれど、それを露わさまいという意思が見えて、それが余計に表情を強張らせていた。

……あれ、もしかして、僕は何か、とんでもない間違いを犯してしまったのかな?

「そうじゃの。一生遊んで暮らせりゃ、そりゃあええ人生じゃろなあ。ほいじゃけん、わしは金が欲しい。のう?よしださんもそう思うとるじゃろ?」

タケちゃんがそう言うと、強張った顔のよしださんは、強張りを超えて露骨に不機嫌そうな顔を見せた。と思ったら、僕とタケちゃんに背を向けて、何も言わずにすたすたと早足で向こうへ行ってしまった。

ああ、ほら!馬鹿馬鹿馬鹿!僕の馬鹿!

僕はもう取り返しの付かないことをしてしまったのだ。先程の心の昂ぶりはもう何処かへ消えていて、代わりに全身の血の気がさっと引いていくのを感じた。

「何ね、あんなあ。わし、いなげなこと言ってしもうたん?謝らんといけんのんかな?」

タケちゃんは何も悪くない。よしださんも何も悪くない。悪いのは、僕だ。



「仰げば尊し我が師の恩……」

あの日から半年、僕たちは卒業の日を迎えていた。

僕は特に何も考えず、近くにある県立高校を第一志望として選び、そこへ進路が決まっていた。人づてに聞いた話によると、あのよしださんも希望の進路が決まったらしい。僕とは別の県立高校だという。そしてあのタケちゃんも、よしださんと同じ高校へ進学するという。

そんな中で僕はまだ、あの日の出来事と痛みを胸に抱えたままだった。僕は、あの日以来よしださんとは一言も口を交わさなくなってしまっている。きっと、よしださんも僕と同じように、痛みを抱えて悩んでいるに違いない。それは、僕が彼女の心に与えてしまった傷の痛み。原因は、他の誰でもない、僕にある。

あの時に僕は加山雄三になっていれば、今日まで続くこの心の痛みを抱かずに済んでいたのだ。時間を遡れるのなら、僕は迷うことなく加山雄三になるだろう。

けれどそれも叶うはずのないことだ。後の祭り。今はもう、抱いてしまったこの痛み、そしてよしださんの痛みを、どう処理するか考えなければならない。そしてこの痛みを清算出来るのは、もう今日しかないのだ。そう僕は思っていたから、僕は彼女に謝ろうと心に決めていた。

最後のホームルームが終わり、みんなが感極まって泣いたり喜んでいたりする中、僕はひとり、心臓の高鳴りを抑えられないでいた。よしださんに謝らなきゃ、よしださんに謝らなきゃ……。そのことばかり考えていたから、傍から見れば少し挙動が不審に見えたのかも知れない。誰かが僕に話し掛けてきたような気がしたけれど、何だかもう覚えていない。僕の体も心も、よしださんへ謝らなければならないという思いに取り憑かれていたから、他のことはもう何も考えられなかった。

そしてよしださんを探して、その姿を教室の前の方に見付けると、流石に人気者だけあって大勢の友達に取り囲まれている。困ったぞ。これじゃ気軽に重い話の出来る雰囲気じゃない。何とかして、よしださんと話し掛ける機会を見付けないと……。

しばらく席に座って様子を見ていると、よしださんが一人で廊下へ去っていくのが見えた。今だ。今しかない。僕は謝るんだ。謝らなきゃならない。

僕は急いで席を立ち、教室を出る。そして廊下の先に一人で歩くよしださんの後ろ姿を見ると、僕は走って近付く。いよいよ心の昂ぶりは頂へと登り詰める。

「あ、あの、よしださん」

僕は呼び掛けた。この後に起こることへの期待を込めて、呼び掛けた。

するとよしださんは一瞬だけ振り返って目をこちらに向けたものの、まるで何も見なかったかのようにすぐに目を逸らし、そして顔も背けると、彼女の行こうとする方向へ行ってしまった。

ああ、これがよしださんの、僕への答えか。もう、終わった。終わっちゃったんだな。


卒業式の日の夜、クラスでは卒業記念の打ち上げ会があったという。けれど、僕はもう参加する気にもなれなかった。みんながきっと盛り上がっている時間、僕は一人、月明かりだけが差し込む暗い部屋の中で、机に突っ伏して泣いていた。

「今日といい昨日といい、無闇に暑いな」

「うん、暑いね」

暑さにうんざりした様子で地面にべったりとへばり付くように寝そべっているシロに、僕はうちわをぱたぱたと扇いでやる。うちわの上下の動きに従うように、シロの白い毛と髭がそよそよとなびく。

「それに最近、地震が多い」

「うん、多いね」

シロは寝そべりながら、目を閉じ、顔も体も動かさずに話している。こんな様子のシロは、いつも大抵何かを考えている。きっとまた、おかしなことを言い出すに違いない。

「……これは多分、地の底の大鯰が動き出したんだろう。そうに違いないぜ」

「うん、そうだね」

ほら、来た。僕の予想通りだ。何年も生活を共にしていると、二口目には何を言うかすら分かってしまうものなんだろう。

シロは何処から知識を仕入れたのかはしらないが、僕が随分前にシロを拾ってきた時には、大鯰やら月の女やら、既にそういった話に通じている程だった。

まあ、猫が言葉を話すという時点で僕は驚いたのだけれど。もう今では、そんなことは僕の中では当然になってしまっている。

「おいら、ちょっと鹿島さんの石の様子を見て来ようと思っている」

「鹿島神宮の?」

僕はうちわを扇ぐ手を止めた。するとシロはこちらをじろりと向く。どうやら扇ぐのを勝手に止めるなとでも言いたいのだろう。僕が再びうちわを扇ぎ始めると、シロはまた元通りに向こうに顔を向き直した。

鹿島神宮といえば、地震を起こす大鯰を抑えていると言われる要石が置かれていることで知られている神社だ。けれど大鯰が地震を起こすやら石で大鯰を抑えるなんて、科学的根拠もない土着の迷信というか伝承に過ぎない、と僕は思っている。

それを冗談の欠片も見せずに至って真面目に言うものだから、正直僕は戸惑った。鹿島神宮へ行く、とシロは言うけれど、まさか連れて行け、とでも言うつもりなのだろうか?

乗り換え一回で鹿島臨海鉄道に乗り換えれば鹿島神宮へは行けるものの、ここからでは二時間は掛かる。この暑い夏に、そんなのは御免だ。行くなら一人、いや一匹で行け、とでも言いたいけれど、歩いていくのは大変だから連れて行け、と実際に言われれば、きっと僕は一緒に行ってしまうことになるんだろう。

「きっと山本の所のバカ猫がサボってやがるから、石がずれちまったんだ。あのバカ猫め」

「石がずれたから、鯰の動きが活発になって地震が多くなっている、とでも言うの?」

「ああ、そうだよ。そうに違いない。そうとしか考えられないな」

シロは相変わらず寝そべってはいたけれど、横から覗いて見ると、その顔には何処か怒っている様子が見て取れた。"山本の猫"についてはシロの口からは以前から何度か聞いたことはあったけれど、詳しいことは僕は知らなかった。

「ああ!あのバカ猫をとっちめてやりたいが、そんなのは後回しだ。おいらは行かなきゃならねえ」

シロはそう言うと、のっそりと立ち上がった。そして大きく体を前後に伸びをすると、こちらを振り返って言った。

「もうおいらは今すぐにでも行かなきゃ駄目だ。しばらく留守にするぜ。月の女はまさかここには来ないとは思うが、まあ気を付けてくれよ」

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