茨城症候群

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家庭教師

  • 2008年3月 3日 22:53

いつものように大学の講義を終えた木曜日、いつものように家庭教師のバイトへ行く。いつものように自転車へ乗り、いつものように自転車を走らせる。いつものように同じ道を走り、いつものように教え子の家の前へ着く。いつものように自転車を家の前へ停め、いつものように鍵を掛ける。いつものようにチャイムを鳴らし、いつものように「家庭教師です」と答える。

「ああ先生、いらっしゃい。今日もよろしくお願いします」

玄関の扉を開けて出てきた奥さんの顔は、いくらか青白くやつれて見えた。笑顔ではあるが、いつものような明るい笑顔ではなく、どこか無理をして絞り出してきた笑顔に感じられる。自然な笑顔ではなかった。

疲れているのだろうか。以前、奥さんは近所の小さな会社でパートをしていると言ったのを聞いたことがある。年度末も近いことだから、仕事できっと疲れているのだろう。

家の中へ入ると、嗅ぎ慣れない匂いが鼻に入り込んできた。夕食時のこの時間、いつもなら食欲をそそられる匂いが僕の鼻を刺激するのだが、今感じられる匂いは食べ物のそれとは全く違う。どこかで嗅いだことがある。そうだ、婆ちゃんの家に漂う匂いと同じだ。仏壇で燻らせる、線香の匂いだ。間違いない。

でも、どうして線香の匂いが家中に立ちこめているのだろう。まさか「線香臭いですね」とは言えない。「どうして線香臭いんですか」とも訊けない。僕は別に線香の匂いが嫌いで仕方がない訳ではないから、特に何も言わずにおくことにした。

奥さんは階段の前で立ち止まると、二階へ向かって声を上げた。

「さやか、先生がいらっしゃったわよ」

僕の教え子、さやかは、いつものようにぱたぱたと階段を駆け下りてきた。いつものように小さな顔に大きな笑顔を載せて、僕の前で軽く一礼をした。

「先生、今日もよろしくね」

「はいはい、よろしく」


僕は二年前から、このさやかという小学生に家庭教師として週に一度教えている。元々僕は子供好きではないし家庭教師なんてやる気はなかったのだけれど、日頃から世話になっていた近所のおばさんに、家庭教師として教えてあげて欲しい子供が近所にいる、と言われて断れず、引き受けることになった。その教え子が、さやかだった。

初め、さやかは勉強嫌いな上に人見知りな子供だった。まず学校での通信簿を見せてもらうと、図工・体育・音楽の三教科に"よくできました"という評価が付いており、残りは"がんばりましょう"の評価が付いていた。なるほど、典型的な勉強嫌いだ。これは難しい仕事になるぞ、と僕は覚悟したものだった。

初めての日、こっちも教え方のノウハウを知らないものだからあれこれ考えて、まず学校で使っている教科書を使って進めようとした。そこで学校でどこまで習っているかを訊いてみると、ぶっきらぼうに「知らない」とだけ答えた。今思えば、あれは女優の沢尻某に似た答え方だ。答えるのも嫌だったのだろう。しかしどうしても訊かなくてはこっちも仕事にならない。好きな科目や嫌いな科目を訊いて、「別に」だの「特にないです」だの答えられたとしても、僕は粘り強く訊き続けた。

結局初めての授業は算数・国語と、学校で教わっている範囲を得ることで精一杯だった。これから続けていけるものか不安になったものの、進め方を色々と試行錯誤しているうちに、学校での授業の予習・復習をベースに進めていくと、何とか形らしい家庭教師にはなってきた。

しかしさやかの心を開かせるまでには時間が掛かった。いくら話し掛けてもぶっきらぼうにしか答えてくれないものだから、僕は嫌われているのかと思い落胆した。それでも金を貰って教えているのだから何とかしなければならない。そう思い、僕はあくまでもフレンドリーに接し続けた。

そしてその甲斐あってか、三ヶ月目でついに僕のことを初めて「先生」と呼んでくれた。四ヶ月目には笑顔を見せるようになった。今では、学校での出来事を楽しげに話してくれるまでになった。初めのさやかの刺々しい態度からは、今の柔らかな態度が信じられないほどだ。

奥さん曰く、僕が教え始めてからさやかの成績がどんどん上がり始めたらしい。直近の学期の通信簿を見せてもらうと、"がんばりましょう"が消え"よくできました"が増えており、確かに成績は上がっていた。塾へ通わせようか、家庭教師に教わるか、どちらかで迷っていたそうだが、家庭教師を選んで全く正解だった、と奥さんは言っていた。それで僕は奥さんだけではなく旦那さんにも褒められて、一年前からは月謝とは別に"お駄賃"を頂くようになった。

もちろん初め、僕は断った。成績が上がったのは僕の教え方が上手いからじゃない、さやか本人が努力して頑張ったからだ。そう主張したものの、なに遠慮は要らない、本心からの好意なんだから受け取っておくものだよ、と強く言われてしまい、結局僕は有り難く頂戴することになった。

そうして二年間、さやかを教え続けていた。


いつものように、さやかの部屋は綺麗に片付いていた。そしていつものように、僕とさやかは勉強机の前に隣り合って座った。ただ、いつもとは違い、線香の匂いがこの部屋にも漂っていた。

「じゃ、今日は先週の復習からやろうか」

僕が教科書を開くように言うと、さやかは微動だにせず、じっと机の上に置かれた教科書の表紙を見つめているだけだった。

「ん?どうした?おい、教科書を開け」

するとさやかはこちらを向いて、その瞳で真っ直ぐに僕を見た。

「……ね、先生。わたし、お医者さんになれるかなあ」

「何だお前、医者になりたいのか」

「……うん」

さやかは目を逸らし、はにかんだ。自分の夢を語るに至るまで、さやかは心を開いてくれたのだ。内心僕は嬉しかったが、実際その夢は今のままのさやかには実現が遠いものに思えた。

「まあ、難しいんじゃないの?医者になりたい人が自由になれる仕組みの社会なら、今頃はそこらじゅう医者だらけさ」

「そっかあ、難しいんだ。当たり前だよね」

そりゃ難しいに決まっている。僕もその難しさの前に挫折した一人だった。高校三年の夏から冬まで一日中ずっと部屋にこもって勉強していたって、国立の医学部には合格できなかったのだ。

僕が医学部に合格するためには、自分の限界以上の努力が必要なのだろう。それを悟り、僕は潔く諦めることにした。そもそも、僕は特に医者になりたい理由など持ち合わせていなかったから、浪人してまで医学部に入ろうとは思わなかった。結局僕は、滑り止めにと受けていた私立大学の理工学部に通っている。

「医者になるには、まず大学の医学部に入らなきゃならない。国公立の医学部なんて、超が付くほどの難易度だ。私立に入ろうものなら、莫大な学費が要る。入るのも難しい、お金を払うのも難しい。大学に入れたからといって、それでお終いじゃあない。入ってからの勉強だって難しいんだ。医師になる為の試験の為に何ヶ月も勉強しなきゃならない」

話をしているうちに、次第にさやかの顔が曇ってくる様子が分かった。それでも僕は、話を続けた。

「試験に受かったからといってもまだお終いじゃあない。経験の面からすればまだぺーぺーだ。そんな素人を鍛え上げる為に、研修を受けなきゃならない。研修が終わったからといっても、まだまだお終いじゃあない。医学なんてのは、日々進歩している。最新の医学に付いていく為に、毎日必死に勉強しなけりゃならない。それに医療ミスも許されない。一度ミスをすれば、訴えられて人生台無しってことだってあるんだぞ。医者ってのは……」

「もういいよ、先生。……もういい」

僕の話を遮るように、さやかは言った。先程のはにかみは、もうどこかに消えていた。代わりにうんざりしたような、失望したような表情が顔に溢れていた。

「無理なんでしょ。わたしにはお医者さんなんて無理なんでしょ」

「無理じゃあないが、道のりが険しいのは確かだろう。金が稼げるからって理由だけで医者になりたいんなら、とんでもない大間違いだぞ」

「……違うもん」

小声で、しかし強い調子でさやかは呟いた。夢を肯定されずに現実的な話をされて、ふてくされてしまったのだろう。僕も大人げなかったのかも知れない。ただ僕は、現実というものは思うほど簡単なものではないということをさやかに知ってもらいたかった。

「まあ、何かになりたいと思うことは自由だしな。さ、早く教科書開いて」


いつものように授業を終えて帰ろうとすると、階段の下で奥さんが心配そうな顔をしながら立っていた。

「先生、お疲れ様でした。……さやかの様子、特に変わりありませんでしたか?」

「いや、特に何も?ああ、そう言えば、医者になりたい、なんて言っていましたね」

「まあ、あの子、そんなことを」

奥さんは溜め息を吐くと、僕を見ながら何かを言おうか言うまいかと明らさまに迷う様子をそのやつれた顔に見せた。何回かの葛藤ののち、奥さんは口を開いた。

「……実は、先週突然倒れて入院していた息子が、さやかの兄が、月曜に亡くなってしまったんです」

予期していない言葉を突然聞かされると、人間の理解力というものはがくんと下がってしまうものだ。奥さんの言葉を頭の中で二度復唱して、やっとその意味を捉えることができた。そして僕は絶句した。視界が急にシャープさを増して見えた。同時に僕は、奥さんがやつれている理由も、家の中が線香の匂いで満ちている理由も理解した。

「さやかはそれからずっと泣いていたんです。ごはんも食べずに、毎日一日中泣いていたんです」

僕がさきほどまで勉強を教えていたさやかの元気な顔からは、彼女の机に突っ伏して泣き喚く姿が想像できなかった。兄が亡くなったということなど、微塵も感じさせない態度だった。しかし事実として他のことができなくなるほど泣いていたのだという。さやかにとって、家族を失ったことはそれほど悲しく辛いことだったのだろう。

「ええ、歳は離れていましたけれど、仲の良い二人兄妹で……。よっぽどショックだったんでしょう」

もしも僕がさやかの立場だったとしたら。大切な家族を失ってから間もない日だったとしたら。家庭教師の授業なんて受ける心の余裕もないだろう。一日中、悲しみに耐えて過ごさなければならないのだから。

「そ、それなら、連絡して頂ければ今日は休みにしたんですが……」

「でもね、先生。あの子は、さやかは、学校は休んでも家庭教師の先生の授業だけは受けたい、って言ったんですよ。先生の顔を見て、お兄ちゃんが亡くなってから初めてさやかはあんな笑顔を見せたんですから。私安心したんです」

奥さんのその言葉に、医者になりたいのかと訊いてうなずいた時のさやかのはにかんだ顔が僕の脳裏に浮かんだ。その彼女に、僕は飛んだ場違いな説教をしてしまったのだ。事情を知らなかったとはいえ、僕は馬鹿だ。馬鹿な人間だ。

「お医者さんになりたいだなんて……、お兄ちゃんのことがあったからかしら。……あっ先生、どこへ行くんです?」

僕は奥さんの問いには答えず、降りてきた階段を一気に駆け上り、さやかの部屋のドアを叩いた。

「さやか、開けるぞ。ちょっと忘れ物をした」

ドアを開けると、さやかはまだ勉強をしていたのか机に向かっていた。こちらを振り返ると、笑顔になってこう言った。

「あ、先生。さっき分からなかった問題、解けるようになったよ」

さやかの顔をよく見ると、うっすらと涙が頬を伝って流れていた。それを打ち消さんとばかりに、さやかは懸命に笑顔を作っているのだろう。それがかえって、涙をくっきりと浮かび上がらせていた。

「どれどれ。……うん、確かにできているな。偉いぞ」

僕は答えを確かめると、ぽんぽんとさやかの頭を軽く叩いた。すると心の中のたがが外れたのか、さやかはぼろぼろと涙を流し始めた。

「先生、わたしね、……やっぱり、お医者さんになりたい」

こぼれる涙を拭おうともせず、ぐすんぐすんと間に挟みながら、さやかは涙声で言った。

「ああ、なれる。強い気持ちがあれば、お前は絶対に人を救える医者になれる」

「うん、ありがとう、先生」

大荒れの天気のように涙まみれの顔には、明るく眩しい笑顔が浮かんでいた。

桃太郎

  • 2008年3月 7日 15:58

「嫌だよ。ぼく、鬼退治になんか行きたくないよ」

「お前、『日本一の桃太郎』なんだろ?日本一だったら、鬼でも何でも懲らしめてくるもんだぜ」

「嫌だ嫌だ。怖いよ。鬼なんか退治したくないよ」

本当に、鬼退治なんてしたくないんです。ぼくは本当は日本一でも何でもなくて、ただの弱虫なんです。それなのに、みんなぼくを取り囲んで鬼退治へ行け行けうるさいんです。いじめです。これはいじめですよ。


そもそも、ぼくのお爺さんとお婆さんがいけないんです。あの人たちは、ちょっと気がおかしいんです。だってぼくが桃から産まれてきたなんて言っているんですよ?そんなこと有り得ないじゃないですか。人間がどう産まれてくるかなんて、ぼくだって知ってます。女性の股間から産まれてくるんですよ。決して桃を割ったら子供が出てくるわけがないんです。お爺さんとお婆さんは、絶対に変なんです。

ぼくが実際どうしてお爺さんとお婆さんに育てられるようになったのかは知りません。物心が付いたら、すでにぼくはお爺さんとお婆さんに育てられていたんです。まさか、あのお婆さんがぼくを産んだのだとは考えられませんし、考えたくもありません。

ぼくには、他にぼくを産んだ、血の繋がりのある両親がいるはずなんです。以前一度、お爺さんに言いました。「ぼくにはお父さんやお母さんはいないんですか?」と。しかしお爺さんはいつものようにこう答えるんです。「お前は桃から産まれた桃太郎じゃ。父も母もおらん。育ての親という意味での父と母は、わしらじゃろうな」と。もうそんな言葉を聞くのも鬱陶しくなります。ああ、ぼくを産んでくれたお母さんに会いたい。お父さんに会いたい。

もちろん、お爺さんとお婆さんには全く感謝していないということはありません。お爺さんとお婆さんは、ぼくをこの歳になるまで大事に大事に育ててくれたんです。あの人たちがいなければ、ぼくはとうの昔に死んでいたことでしょう。そう考えると感謝せずにはいられません。

それにしてもひどい。"日本一の桃太郎"なんて、どうしてぼくがそう呼ばれているか知っていますか?あれはお爺さんとお婆さんが、訳もなく勝手に言い始めたことなんです。ぼくのことを日本一だなんて呼んで周りに喧伝したんです。どういうつもりか解りませんが、ぼくにとっては迷惑極まりありません。あの人たちは、狂っています。

日本一日本一と看板まで立てる始末でしたから、隣村からも見物客が家へ押し寄せました。誰が日本一なのかと期待して見に来たら、なんだかもやしのようにひょろひょろした少年が日本一なんだという。それじゃみんな見に来ただけ損だと思うに決まっています。ぼくは嘲笑われ馬鹿にされ、"日本一"という言葉が逆にからかいの文句になってしまいました。

そしてぼくは、ほとんど引きこもりになってしまったんです。だって外を歩けば、日本一日本一と言われて馬鹿にされるんですから。ぼくは馬鹿にされるために外に出るんじゃないんです。普通に外を歩き回りたいだけなんです。それなのに、みんなぼくを馬鹿にして、日本一、日本一って……。こんな目に遭ったら、誰だって引きこもりになってしまいますよ。

本当にお爺さんとお婆さんは嫌な人たちです。本人たちにその気はなくても、ぼくにとっては迷惑な存在でしかありません。ああ、ぼくがもしみなしごだったとしても、もっと普通の人たちに貰って欲しかったなあ……。


それでまあ、最近のことなんですが、なんでも海の方の村で鬼が出没して村を次々と荒らしているという噂があるんです。噂ではなく、実際に鬼を見た、あるいは被害に遭った、という人もいるそうでしたから事実なんでしょう。その人たちの言う話によると、満月の夜に決まって、鬼が海の向こうに見える小さな島から舟で大勢やってきて、村を荒らし回って人々を傷付け、あるいは殺し、村中の金品を奪って帰って行くそうです。

襲われた村の人たちの中にも抵抗した人がいたそうですが、何しろ鬼は強いんです。大の大人が十人掛かりでも鬼の一匹にすら太刀打ちできなかったそうですから、たくさんの鬼が相手ではどうすることもできなかったことでしょう。無抵抗では殺される、抵抗しても殺される、それでは逃げるしかありません。結局襲われた村で生き残った人間は、たったの数人しかいないということでした。

これは大変なことです。ぼくの住む村も、被害にあった村々とはそう遠くは離れていませんでしたから、もしも鬼が陸地に拠点を作ったとすればこの村も狙われてしまうことでしょう。それにこの村は割合豊かな村ですから、鬼の格好の狙い所となるのは明らかでした。考えるだけでも恐ろしくて夜も眠れません。そうなっては困る、ということで村長以下で鬼対策が考えられました。

まず村の青年を集めて、村を守る組織を作ること。しかし、かつて鬼に襲われた村々も同じような組織を組んでいながら鬼を撃退できなかったどころか村ごと滅ぼされてしまうということでしたから、その効果は無に等しいものだったのでしょう。ですから取り敢えずの組織は作るものの、それは最低限の小さな組織に留められることになりました。

次に考えられたのが、先手を打つことです。先手、つまり、鬼に襲われる前にこっちが鬼を襲ってしまうということです。これは村一番の血気盛んな青年が言い出したことなんですが、彼以外にこの案に賛成する人間はいませんでした。当然のことでしょう。だって人間は鬼から村を守ることすらできないのに、こちらから討伐しに行くなんて、わざわざ死にに行くだけの無駄な行為に決まっています。

その言い出しっぺの血気盛んな青年は、鬼に対して相当怒っていましたから、「一人でも鬼の住処へ行って鬼を討ち滅ぼしてやる」なんて言って、弓矢を持って出掛けてしまいました。もちろん周りの人たちには彼の行為の全く無謀であることが明らかでしたから、みんなで彼を止めようとしたのですが、彼は聞く耳持たず、たった一人で出掛けてしまったんです。あれから半月、彼は未だに村へ帰ってきてはいません。

襲われた時にはどうすればよいか、それについても話し合いが持たれました。これまでの襲われた村の例からすると、抵抗しても殺される、抵抗せずとも殺される。つまり鬼からは、逃げるしかないんです。鬼が来たら最後、家も畑も何もかも、それこそ村ごと捨てて、どこか他所へ逃げるしかないんです。

結局村の話し合いでは消極的な結論だけが得られただけで、ただ鬼というものは敵う訳のない相手だということが余計くっきりと認識させられたのでした。すっかりみんな落ち込んで、満月の夜には誰も眠りません、ただ鬼が来ないことをお月様に祈り続けていました。


ところが何を思ったのか、ある日ぼくのお爺さんとお婆さんが村長に申し出たというんです。「うちの日本一の桃太郎に鬼退治を任せましょう」と。村ではお爺さんとお婆さんはちょっとおかしなことで有名でしたから、村長も初めからまともには取り合いません。

しかしお爺さんとお婆さんはしつこく言ったそうです。「桃太郎は日本一。鬼なんぞ一捻りで打ち殺すことでしょう」「日本一の桃太郎こそ、鬼から村を守る救世主」「桃太郎は日本一であるから、鬼ごときに負けやしません」「日本一の桃太郎。全てを任せりゃご安心」

日が昇ってから日が暮れるまで一日中村長に言い寄ったそうですから、もううんざりして好きにしろとでも思ったんでしょう、村長がとうとう言いました。「鬼退治を桃太郎に命じよう」と。

とんでもないことです。ぼくが鬼退治だなんて。それも一人でだなんて。考えるだけでも体がぶるぶる震えてきます。きっとぼくが鬼に立ち向かっても、鬼の怒鳴り声だけでぼくは失神してしまうことでしょう。ぼくは自分の弱いことを自覚しています。弱さでは村一番を争うことでしょう。ぼくなんかに鬼退治をさせるんなら、誰か気の強い女の子に退治させた方がよっぽど可能性があるはずです。だいたい半月前に鬼退治へ向かった青年だって、どうなったか知れないんですから。ぼくが行ったところで、何も出来るわけがありません。

ぼくの想いとは反して、ぼくが鬼退治をさせられるという話は、瞬く間に村中に広がりました。お爺さんとお婆さんも舞い上がって、ぼくは変なさむらいのような格好に仕立て上げられて、村中を引き回されました。太鼓をとんとん叩きながら、「ご安心、ご安心。日本一の桃太郎が鬼退治を命ぜられました」だなんて言わせられもしました。これじゃまるで見せ物です。ただでさえぼくは、ひょろひょろな癖に日本一だなんて名乗ってやがる、と馬鹿にされているのに、変な格好をして鬼退治へ行くなんて言えばもっと馬鹿にされるに決まっています。案の定、くすくすと押し殺したような笑いの渦がぼくを襲いました。

ある日の夜、村の若者の集いに行ってみると、顔を見せた途端にぼくは馬鹿にされました。「よっ、日本一」「鬼退治頑張れよ、ヒッヒッヒ」

もう嫌です。村中どこへ行っても、ぼくは馬鹿にされるんです。その上怖い鬼なんか退治に行きたくもないのに行かされることになって、どうしようもありません。ぼくはどこかへ逃げたい気持ちに駆られました。でもここで逃げ出したらどうなるでしょうか。鬼退治が怖いからといって逃げ出した、もしもそう思われれば、ぼくの実態からすれば日本一という看板はさらに高くなって、今以上にぼくは日本一日本一と馬鹿にされ罵られるんです。そんな生き恥を晒し続けて生きるのならば、鬼退治へ行って死んだ方がましです。

もう何がどうなろうと関係ありません。ぼくは鬼退治へ行くことを受け入れ、決心しました。どうせ死ぬんなら、悪い鬼の一匹でも懲らしめてから死のう。そうすれば少しはぼくの生きた甲斐というものがあるものだ。ぼくは日本一の桃太郎。鬼を退治する日本一の桃太郎。

結局、次の新月の日にぼくは鬼の住処の島、鬼ヶ島へ出発することになりました。

穴の中

  • 2008年3月23日 17:01
  • UFO

「ひひひっ、この穴の中で、あんたが落ちてくるのをずっと待っていたんだよ。落ちてこないか、落ちてこないか、そう思いながらもう何年も待ち続けた甲斐があったよ。それで今、こうしてやっと落ちてきてくれた。ひひひっ、ひひひっ」

「お、俺をどうしようって言うんだ」

「ひひひっ、そりゃこれからのお楽しみだよ。実を言うとね、私も知らないんだよ。あんたの運命は、誰も知らない。煮て焼かれるか、茹でて炒められるか。全ては時の気まぐれ次第、全ては時の気まぐれ次第。ひひひっ、ひひひっ」

「ひぃっ、やめて、やめてくれ!出してくれ、俺を今すぐここから出してくれ!」

「ひひひっ、そう焦らなくても、じきに出られるさ。もちろん、今と同じ身体で出られるかどうかは知らないけどね、ひひひっ。じたばたしてもしなくても同じなんだから、まあせいぜい大人しくしていることだよ。ひひひっ」

「嫌だ!死にたくない!俺はまだ死にたくないんだ!出してくれ、ここから出してくれ!」

「ひひひっ、あんたも諦めの悪い五月蝿い奴だね!壁をそんなに叩いたって、誰も助けに来てくれやしないさ。ここはね、あんたの落ちてくる前の次元空間とは別のところなんだよ。どんなに大声を出したって、どんなに強い電波を出したって、あんたの家族やお友達には届かないよ。物理的に完全に隔絶された空間なんだから。私とあんたはここで二人きり。ひひひっ、ひひひっ」

「わっ!やめてくれ!俺に、俺に触らないでくれ!」

「ひひひっ、今から儀式を始めるんだよ。神聖な儀式さ。あんたも山本家の人間なら、分かるだろ?山本家のしきたりを、知っているんだろ?」

「し、しきたり?俺はそんなの知らないぞ。だいたい何で俺の名前を知っているんだ?」

「おやおや!山本家は私との決まり事を忘れてしまったようだね、ひひひっ。あんたも可哀想な奴だ。運命を恨むんならご先祖様を恨むんだね。私との大事な大事な約束を破った、極悪非道なご先祖様をね。ひひひっ」

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