茨城症候群
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浦島太郎 2
- 2008年2月10日 15:46
俺は失意の中、また家へ戻った。年老いた上に痩せ細った父ちゃんと母ちゃんが、部屋の隅で冬の寒さにがくがく震えている。ごめんよ、父ちゃん母ちゃん、俺はダメ息子だ。まぐわい宿で稼いだ金をもっと多く家に入れていりゃあ、いくらか暮らしも楽になったんだろう。でも俺は自分のことしか考えていなかった。金に心が奪われていたんだ。ああ、今は何を言っても言い訳にしかならない。ごめんよ、父ちゃん母ちゃん。
俺は決心した。もう父ちゃんと母ちゃんをこれ以上苦しませたくないし、苦しむ姿を見たくもない。
ある日俺は父ちゃんと母ちゃんを誘って、近くの山へ出掛けた。近くと言っても、老いた足じゃあ何日も掛かってしょうがないだろうから、俺はまぐわい宿で使っていた下郎の一人を呼んで、二人で父ちゃんと母ちゃんを負ぶって歩いた。
下郎にはその前日、予め訳を話しておいた。初めは難しい顔をしていたものの、俺の為じゃあない、父ちゃんと母ちゃんの為なんだ、と説得すると、快く了承してくれた。流石は一番の下郎、物分かりが良い。
父ちゃんと母ちゃんには行き先を教えてはいない。実のところ、行き先なんてないんだ。「何処へ行くの」としきりに訊ねられたが、ピクニックへ行くんだ、と言って誤魔化しておいた。ピクニックには違いない、しかしおにぎりもお茶もない、悲しいピクニックだ。
山を登って夕方になった。落ちていく夕陽が見えた。辺りも隨分と暗くなってきた。そろそろ良いだろう、と俺は下郎に合図して、大きな木の下の所で負ぶっていた父ちゃんと母ちゃんを降ろした。二人は訳の解らない様子で、お互い顔を見合わせた後、俺と下郎を見上げていた。
「太郎や、こんな所でピクニックかい」「日も暮れるし、わしゃもう帰りたい」
ごめんよ、父ちゃん母ちゃん。もう帰れないんだ。俺と下郎は一斉に駆け出した。もう後ろを見なかった。見られなかった。
山を降りる途中、空の向こうに月が見えた。暗い夜空に明るく輝く、白い大きな満月だった。「良い月ですねえ」と下郎が言う。なるほど良い月だ。雲一つ掛からない、完全に真ん丸い申し分ない満月だ。下を見ると、一杯に広がる田んぼの水面にもう一つ明るい満月が見えた。こちらも文句の付けようがない。時折風が吹き、静かに水面が揺れると満月もまた揺れて、何とも言えない風情を醸し出している。この二つの月を肴に酒でも飮めりゃ、さぞ旨いだろうに。
父ちゃんと母ちゃんも、こんな景色を眺めたら喜んでくれるだろうなあ。
いけねえ、だめだ。俺はやっぱりだめだ。だめなんだ。二人の笑顔が二つの満月と重なって脳裏に浮かんで来ると、俺はもう走り出さずにはいられなかった。「何処へ行くんですか」と言いながら、下郎も走って付いてきた。
父ちゃんと母ちゃんは、降ろした所と全く同じ場所で待っていた。二人で互いに抱き合って寒さに耐えながら、俺を待っていたんだ。震える二人の青ざめた顔を見て、俺はぼろぼろと涙を流した。
「寒い、寒いよ、太郎」「こんな所に置いてけぼりにして、何処へ行っていたんだ」
ごめんよ、父ちゃん母ちゃん。
俺は稼がなきゃあならない。稼いで稼いで、父ちゃんと母ちゃんを養わなきゃあならない。事業で一発当てるなんて考えも止めて、大人しく人の下で働くことにした。
働くことを決意したにはいいが、それには働く場所がないといけない。宿、田、農具工場、製鉄炉。色々な場所に、俺を雇ってくれるように頼みに行った。ところが何処も手一杯だと言う。特別な技術でもなけりゃあ、俺みたいな歳の男は雇うことは出来ないらしい。
それから毎日、歩きに歩いて回るに回り、村中はおろか、隣村まで出掛けて一軒一軒頼み込んだ。やっぱり何処も返事は一緒だ。まるで俺が来たら断るようにという決まりでも裏で流されているんじゃあないかと思うほどだった。
俺には特に何の技術もない。俺は十五年間、漁師一本でやってきた。それ以外の技術なんて身に付ける暇もなかった。毎日毎日海へ出て、魚を釣る日々だった。死ぬまでずっと、魚を釣って生きて行くんだと思っていたくらいだ。やっぱり、俺には漁師しかないんだろうか。
隣の隣の隣の村まで出掛けた日も、何処からも良い返事が全く得られなかった。その夕方、とぼとぼと海岸を歩いていると、漁師たちが漁から戻って来たようで賑やかになっていた。以前、俺の頼みを断った漁師たちだ。
そのうちの一人が俺を見付けて、「よう太郎、舟は買えたのかい?」なんて言いやがる。買えるわけがないだろう。だいいち買えていないんだから、俺は漁に出ていないんだ。それを解っていて、あいつは俺にそんなことを言ったんだ。俺はむかむかした。俺は馬鹿にされている。
馬鹿にするような奴を相手にする義理なんてない。無視を決め込んで帰ろうと思っていると、そいつは俺に近寄って来て、「俺の舟で働かないか」と言ってきた。「丁度欠員が出ちゃったんだよ。舟が壊れてから太郎が何やってるのか知らないが、どうせ暇なんだろう?しばらく働いてくれよ」
何が"どうせ暇"だ。誰が働いてやるものか。断っておいて、都合が悪くなったからといって一度返した手のひらをあっさり返すんだ。こんな奴は信用ならない。また都合が変わればその都度手のひらを返すに決まっている。妖怪手のひら返しだ。
しかし俺は考えた。今は硬い意地を張っている場合じゃあない。俺は稼がなきゃあならないんだ。父ちゃん母ちゃんを養わなきゃあならないんだ。俺の唯一出来ることは、魚を釣ることだけだ。何年も毎日魚を釣ってきたんだから、その技術には自信がある。自信があることで稼げるんなら、それでいいじゃあないか。
この誘いを断ったならどうなる?これから毎日ずっと、あちらこちらへ出掛けて雇ってくれる場所を探しに行かなきゃあならなくなる。今まで一つも見付からなかったんだ、これからもそう易々と見つかる訳がない。もしかすると、残り少ない蓄えが尽きようとしても誰も雇ってはくれないなんてことだってある。
そうなればどうなる?俺の日々の暮らしどころか、父ちゃん母ちゃんを飢えさせることにもなる。そんなことはだめだ。俺が許さない。だから、これしかない、これしかないんだ。
俺は自分を納得させた。腹の壁にくすぶる苦々しい思いを踏み消して、昔の仲間に頭を下げた。そうして、俺はまた漁師になった。
やっぱり海は最高だ。大きな空の下で、広い海をあちらこちらと回って魚を釣る。海の仕事に戻ってから初めの数日こそは感覚の鈍りを感じていたが、魚を何百匹と釣るうちに以前の腕が戻って来たようだ。
この具合なら、一年も釣っていればまた自分の舟が買えるだろう。舟主は俺の釣り方にいちいち五月蝿く干渉してくるが、それもたかが一年の辛抱だ。自分の舟さえ持てば、妖怪や鬼の下で働く必要もなくなる。自由に魚を釣ることが出来るんだ。
それから数ヶ月、俺は毎日海へ出て魚を釣った。目指すべきものを明確に意識しているせいか、充実した日々だった。舟主が再び手のひらを返すようなこともなく、俺は魚を釣り続け、着々と蓄えは貯まっていった。
季節は巡って、夏になった。外はじめじめとして暑く、蝉はみんみんと五月蝿い季節だ。
俺は夏が好きじゃあない。太陽が燦々と照り付けて走り回って遊ぶのには申し分ないが、子供の頃には遊び過ぎて倒れたことがある。あの時は三日三晩うなされ続けて、目覚めた時には辺りを見回しながら、俺は天国にいるんじゃあないかと思ったほどだ。
一年前の台風のこともある。あのお陰で、俺の舟は木端微塵、それから転落が始まったというもんだ。俺は台風というものが憎くって仕方がない。
おまけに夏には突然嵐が来る。嵐は海を酷く時化させる。時化た海というものは、漁師にとって危険そのものだ。命を失うことだってある。冬は時化続きで出漁出来ない日が何日も続くことだってあるが、夏の時化は何の前触れもなく突然訪れるから怖いんだ。
ずっと前、俺がなりたての漁師で父ちゃんがまだ漁師だった頃、西の方でごろごろと雷さんが鳴っていた日がある。そんな時は誰でもこれから海が時化るものだと思うのが常識だった。
ところがその海に出ると言って聞かない馬鹿な漁師がいた。その漁師が言うには、時化こそ好漁だと言う。何でも時化で荒れた海では潮の流れが変わって、普段滅多に獲れない魚がたくさん釣れるらしい。
みんな事の真偽は知りようがなかったからそれについては何も言えなかったが、それ以前にとにかくこの時化るのが明かな海へ出るのは常識外れのことだ。全員でやめるように説得したものの、その漁師は聞く耳持たず、たった一人で海へと出漁して行っちまった。しばらくして空は真っ暗になり、海は時化に時化た。結局出漁した奴は二度と村へ帰って来なかった。
まあとにかく時化は怖いものなんだ。そんなものを突然持ち込んでくる夏は、俺は嫌いだ。
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