茨城症候群

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daigakusei

  • 2007年6月 1日 23:58

わたしとお兄ちゃんは、六歳ほど歳が離れてます。わたしは今中学生で、お兄ちゃんは東京の大学の学生です。二浪してようやく大学に入れたんですが、お兄ちゃんはそれを自分で気にしてて、入学してから今にまで、周りが現役生ばかりで自分だけが成人してることに引け目を感じてるんです。

もちろん気にしなければ浪人してようが成人してようが学生であることに何の変わりもないと思うんですけど、お兄ちゃんは必要以上にそれを気にしてましたから、大学に通い始めてからはずっと落ち込んだ様子でした。はたから見てて、わたしはお兄ちゃんがとてもかわいそうでした。

ある日の夕方、わたしが学校から帰ると、めずらしくお兄ちゃんの部屋から楽しそうな笑い声が途切れ途切れに聞こえてきました。本当に久しぶりに聞くお兄ちゃんの笑い声でした。誰か友達ができて、その友達を部屋に連れて来てるのかなと思って、わたしは内心うれしく感じました。

やっとこれでお兄ちゃんも楽しい大学生活を送れるんだなと思うと、妹として家族として、本当に安心することができたんです。これをきっかけに、サークルに入って、バイトを始めて、車の免許も取って、そのうち彼女ができて…。想像するだけで本当にうれしくて、わたしは思わず笑顔になってしまいました。

でも、よく耳を立ててみると笑い声はお兄ちゃんのものしか聞こえてきません。そういえば玄関にもいつもと違う靴がなかったので、本当は友達なんて来てなかったんです。つまりお兄ちゃんは、他の誰と談笑してるんでもなくて、ひとりで部屋で笑ってたんです。

普段は笑いもしないお兄ちゃんです。お兄ちゃんの部屋には、テレビもラジオもパソコンもありません。本や漫画もほとんど買いません。何を見てあんなに断続的に笑ってたのか、わたしには想像もできませんでした。それなのに、お兄ちゃんは笑ってるんです。ひとりでずっと、笑ってるんです。わたしは怖くなって、耳栓代わりにiPodを大音量で聞いてベッドにもぐりました。

わたしはそのままいつの間にか寝てしまってたようで、気がつくともう夜の十時を回っていました。夕飯も食べないでこんな時間まで寝てしまってたんです。わたしはまだ大音量で音楽を流し続けてたiPodを消して、遅い夕飯を食べに部屋を出て一階へ降りようとしました。階段を降りてるときに、突然大きな声が二階から聞こえてきました。お兄ちゃんの部屋の方からです。

わたしがびっくりして立ちすくんでると、今度は庭の方でがたんばたんというすごい音がしました。わたしはとても嫌な予感がして、お兄ちゃんの部屋の前へ駆けつけてドアを開けました。すると、がらんと開いた窓と、窓から入る風で揺れるカーテンが目に入りました。わたしは理解できない気持ちでいっぱいでしたが、本当はそのときすぐに理解してしまいました。お兄ちゃんは、窓から飛び降りたんです。

その夜は家族中近所中大騒ぎになりました。救急車の赤い灯りが強すぎて、わたしのその夜の記憶は鮮明ではありません。

数週間後、お兄ちゃんは退院しました。それ以来、お兄ちゃんは別人になったかのように変わったんです。サークルに入って、バイトも始めて、車の免許も取って、そして彼女もできたんです。わたしは正直驚きました。

わたしがあの夜のことを聞くと、何も覚えてないそうです。もしも思い出したら、また以前のようになってしまうのかも知れません。

私と彼のこと

  • 2007年6月 2日 23:36

私の彼は、とてもかっこいいんです。世間を騒がすもこみちさんや妻夫木くんも比べものにならないでしょう。日本一のホストクラブというものがもし存在したところで、そこで一番のホストでさえも私の彼には敵うことはあり得ません。日本一どころか世界一のイケメンであっても、私の彼の足下にも及ばないのです。ひょっとすると、いやきっとそうでしょう、宇宙で一番かっこいいのは、私の彼なのです。

何も外見だけがかっこいいのではありません。性格も、本当に素敵なんです。私が彼の一番好きなところは、物静かで、何事にも動じない冷静な心を持っていることです。何が起ころうと、彼はいつもの姿勢で、いつもの優しい眼差しで、私を、私だけをまっすぐ見つめてくれるのです。私は地震が大嫌いなのですが、揺れの大きな地震が起きた時には私はいつも彼に抱き付きます。彼と触れ合っていると、私は永遠の安心を得たかのような気分になれるのです。怖がる私を、何も言わずにそっと受け入れてくれる、そんな存在は、彼以外にどこを探したっていないでしょう。

私と彼との出会いは、私が百貨店のテナントのブランド服を売る店舗の販売員をしていた頃のことです。私が終業後の掃除をしていると、彼がひとり店舗の脇の通路に立ちすくんでいるのが見えました。私の身体中を稲妻が駆けめぐったのは、その時でした。私は、彼に一目惚れをしてしまったのです。全身の血管が波打つのが分かるほど、私の身体は彼への激しい想いに乗っ取られたのです。

私は奥手な方でしたから、彼に声を掛けることができずにただ彼を見ているだけでその日が終わってしまいました。そして家へ帰り、もう彼を見かけることはないんだ、そして一生今日という日を悔やんで生き続けるんだ、と思いながら泣いたのです。たとえ数時間であっても時間が戻せるのなら、悪魔や死神に魂を売り渡してでも時間を戻したいとさえ思いましたが、それをどんなに強く願っても私が時間という枠の中で生かされている以上、時間を超えることは不可能なことでした。私には、ただ私の消極性を恨んで泣き散らす外にすることができませんでした。

翌日、目を腫らした私が気を落としながら出勤すると、その腫れた目が勢いよく飛び出すかと感じたほど驚くべき光景を目にしました。彼が再び、同じ通路に立っていたのです。今までにない、強い運命を感じた瞬間でした。店舗の営業中も、通路の彼が気になって仕方がありませんでしたが、その日の終業後に決心して彼に声を掛けたのです。人生の一大決心でした。彼は無口でしたが、その優しげな眼差しは明らかに私の想いを受け入れてくれていました。その日から、私と彼との付き合いは始まったのです。

彼はその透き通るように白い肌を持つ見た目に違わずインドア派でしたが、私はとにかく彼と一緒の空間にいられるだけで幸せでした。付き合って一ヶ月ほどは勤務先の店舗でしか会うことができませんでしたが、彼をアパートの私の部屋に招くと彼は非常に満足した様子で、帰りたがる素振りも見せなかったために、私は彼を部屋に泊めてあげました。しかし次の日も、その次の日も、彼は帰ろうとしませんでした。私も特に彼が部屋にいて困ることはなく、むしろ彼と暮らせることは喜ばしいことであったので、結局そのまま同棲生活が始まり、今日に至っています。

勤務先では、彼が突然いなくなったという話がされていましたが、やがてすぐに彼の代わりが以前の彼と同じように通路に立つようになりました。新しい代わりはさっぱりしない顔で、オーラもありません。私はやはり、彼ではないといけないようです。

とにかくかっこいい私の彼ですが、私以外の人たちにはそのかっこよさが何と全く解らないようなのです。とても嘆かわしく思います。きっとそういう人たちは、人生の九割九分九厘八毛を損しているのです。可哀想だとさえ思えます。けれどその反面、私は幸運だと言えるのでしょう。あんなにかっこいい彼を、二十四時間年がら年中私だけのものにできるのですから。

私の彼を私の当時の一番の親友に紹介した時、その子は何が何だか解らないという目付きで私を見ました。そして何を思ったのか、大笑いを始めました。私と私の彼を交互に見ながら、甲高い声を立てて笑ったのです。本当に失礼な話です。本人たちを目の前にして嘲るように笑うなんて、非常識にもほどがあります。その態度があまりにもふざけすぎていましたから、それ以来私はその子と一切連絡をすることもなくなり、結局縁を切りました。

今から考えると、あの子は病気だったに違いありません。高校でも授業中は寝てばかりいましたから、その影響で笑い病にでもなってしまったのでしょう。まさに自業自得です。きっと今頃は、暗い部屋の隅っこ、あるいはジメジメした押し入れの中でかも知れませんが、一人で肩を震わせて泣きながら自分の運命に大笑いしているのだと思います。いい気味です。

私を産み育てた私の親でさえも、驚いたことに彼のかっこよさを理解できない可哀想な人たちだったのです。私のアパートの部屋に両親が訪ねてきた時、彼と私はすでに同棲していましたから、その時に私は彼を両親に初めて紹介しました。ところが両親の反応は、私が予想もし得ないほど全く情けないものでした。「何を考えているんだ」「あなた気でも違えたの」「お前をこんなアホに育てた覚えはない」「あなた人間じゃないわ」と、本当に私の倍以上も人として生きてきたのか疑われるような酷い言葉を、私たちにぐさぐさと投げ飛ばしたのです。

私はこれまでにない、非常に大きな大きなショックを受けました。私が今日の自立した生活を送れるに至るまで大事に育ててきてくれた、私にとって一番の理解者だと思っていた両親が、私と彼の交際を認めないどころか人格を否定する言葉を私たちに浴びせたのですから。その時点で、私の両親への堅く揺るぎなかったはずの強い信頼が、いとも簡単に後に何も残らないほどぼろぼろに崩れました。現在では私と両親とは絶縁状態になってしまいました。

もしかすると、こんなことは想像したくもないのですが、私と彼とは永遠に結ばれることのない仲なのかも知れません。あるいは、私と彼との間を意地悪な運命の神様が悪戯のつもりで妨げているのかも知れません。理不尽な出来事を乗り越えてこそ、私と彼とは強く強く結ばれる、そう、これはきっと神様が私たちに課した試練なのでしょう。

たとえ大きな困難が降りかかろうと、誰も私たちの仲を裂くことはできません。私は彼を堅く信じているのです。彼は一言も喋りませんが、私の想いは彼に確かに伝わり、私を受け止めてくれているのです。いつもの姿勢で、いつもの優しい眼差しで、私だけを見つめてくれているのです。

いつもの姿勢で、いつもの優しい眼差しで…。

robot

  • 2007年6月 3日 23:55

やあ…。こうしてぼくの言葉が解る人と話すのは久しぶりだなあ。こんな薄暗い場所に人が来ること自体、この数年じゃ珍しいことになってしまったからね。もうこのまま粗大ゴミと一緒に捨てられちゃうんじゃないかと思ってたんだけど…。またこんな風に誰かと話を交わすことができて、本当に嬉しいよ。

ちょっと君の顔をよく見てみたいな。悪いけど、目のところに積もっているホコリを払ってくれないかな。うん、ありがとう。ああ、ダメみたいだ。右目の配線が断線しているのかな。ノイズが激しくて、よく見えないや…。

ぼくはもう何十年も前に、当時の最先端の技術を注がれて作られた、まあいわゆる人型ロボットのはしりってやつさ。人型っていっても、この見た目だと全然人間には見えないけどね。「不気味だ」とか「キモい」とか言われたりもしたもんだよ。でもね、ぼくはぼく自身に大きな誇りを持ってるんだ。だって、ぼくを通じた研究の成果が、その後のロボット工学の発展に寄与していったんだから。いくら見た目が気持ち悪くたって、ぼくの存在が今の技術の礎になってるんだから、これ以上ない誇りだよ。

今でこそロボットなんて当たり前のように存在しているけれど、ぼくが作られた時はずいぶん騒がれたもんだったなあ…。ぼくのお披露目の日に、マスコミのカメラが何十台も並んでぼくの動く様子を撮っていたんだ。人もたくさん来て、いいように触られたり動かされたりしたなあ。ああ…懐かしいな。

お父さんたちは、ぼくを作り上げて初めてぼくがまともに動いた時、とても喜んでくれた。お父さんたちの笑顔を見て、ぼくも嬉しかったね。作られた甲斐があったというものだよ。ぼくはお父さんたちにもっと喜んでもらうために、お父さんたちの笑顔をもっと見るために、ぼくに埋め込まれたプログラムに許される範囲で一生懸命に働いた。本当に、一生懸命に。

お父さんたちの設計が優れていたおかげで、ぼくは大きな故障をすることもなく研究用のロボットとして働くことができたんだ。お父さんたちには、とても感謝してるよ。お父さんたちにとって、ぼくは役立つロボットになれたはずなんだから。

でも、年月が経っていくごとに、ぼくの出番は少なくなっていった。まあこれはロボットだけじゃなくて機械にとって仕方ないことなんだけど、いつの間にかぼくはとんでもない型遅れになっていたんだよ。お父さんたちも、たまにぼくを持ち出す時も重たそうにして、その、嫌々と運んでいたように見えた。そりゃそうさ。ぼくより新しいロボットなんて、たかが数年前に作られたぼくよりも何十倍も性能がいいし、小さくて軽いからね。見た目も気味悪くないし。

つまり古くなったぼくは、お父さんたちに嫌われてしまったんだ。もう目新しい研究の材料にもなれなくなってしまってたし、お父さんたちにとってはもうぼくはがらくたの金属のかたまりでしかなかったんだろうね。寂しかったかって?そりゃあね。でもぼくはお父さんたちに「ぼくは寂しい」なんて伝える手段も持ってなんかいなかった。ぼくはお父さんたちの研究のための、研究のためだけのロボットとして作られたんだから、感情を伝える手段なんてもちろんいらなかったんだよ。

お父さんたちは次々と新しいロボットを開発して、とうとうぼくのことなんて触れもしなくなったさ。あれはいつだったかな、お父さんの一人が事務の職員さんに、ぼくをこの暗い倉庫へ運ぶように言っていた。もうぼくの名前すら思い出せなかったみたいだったな。ぼくのこと、「あの古いニンギョウ」って呼んでたからね。古いのは仕方ないとして、ニンギョウなんて呼ばれたんだよ。ぼくはニンギョウじゃない。ロボットなのに…。

それからぼくはここで長い間暮らしてきたんだ。いつからかもう寂しくもなくなったよ。ここがぼくの住処なんだ。がらくたなぼくの居るべき場所なんだ。そう言い聞かせながらね。今ではネズミやゴキブリとも友達さ。ぼくを囓るのだけはやめて欲しいけど…。

…ところで君は、何をしにこの倉庫へ来たの?え?解体業者?

setback

  • 2007年6月 4日 23:26

目を覚ますと、あなたはUFOを見たのです。暑い朝でしたが、日射しは窓の前に浮いているUFOで遮られ、あなたの部屋は真っ暗でした。

あなたは、UFOの広い窓からその中に宇宙人が何人か乗っているのを見ました。その宇宙人たちはみな揃った外見をしていて、真っ赤な肌を持ち、足が14本も生えており、目は5つ、口は2つ、鼻は4つ、耳は3つ、それに髪の毛が頭のてっぺんに11本ありました。あなたは彼らの姿にびっくりして警察に通報しようとしましたが、突然の出来事にとても慌てていたので、時報に掛けてしまったのです。

『午前 6時 32分 40秒を お知らせします …ポーン』

警察に電話を掛けたはずがまさか時報が流れてくるとは思いもしませんでしたから、あなたはますますびっくりして、顔に当てていた受話器を放り投げてしまいました。すると電話機本体が投げられた受話器に引きずられる形で机の上から勢いよく床へ落ち、"ペー"という大きな電子音を上げた後、通話がスピーカーホンの状態になりました。

『午前 6時 33分 ちょうどを お知らせします …ピッ ピッ ピッ ポーン』

無感情な時報のアナウンスが、暗く静かな部屋中に大きく響き渡りました。あなたはこの状況にいよいよ驚きを超えて、恐怖を感じるようになりました。窓の方へ目を向ければ、宇宙人たちがその14本の足のうち8本を目に止まらないほどの早さで上げ下げを繰り返しながら、5つの大きな目でこちらを見ています。

あなたは彼らのジェスチャが一体何の感情を表しているのか分かりませんでしたから、ただ恐ろしさを覚えるだけでした。私の失態を笑っているのかも知れない、あるいは私を食べようと興奮しているのかも知れない。混乱する頭の中であなたは色々と考えを巡らせましたが、それは宇宙人本人たちに訊いてみなければ分かり得ません。訊いたところできっと言葉も通じないのですから、どのみち永遠に分かり得ないのでしょう。

『午前 6時 33分 30秒を お知らせします …ピッ ピッ ピッ ポーン』

あなたはこの状況から逃げなければいけないと強く思い始めました。宇宙人たちがベランダに降り、何本もの足で窓をバンバンと叩き始めたからです。

tv

  • 2007年6月 5日 23:50

私はテレビが大好きで仕方がありません。三度の飯よりも、テレビを見ることが好きなのです。しかしいくら三度の飯よりもテレビが好きだと言っても、寝もせずにテレビを見るだけで食事をしなければ体が持たないので、私は渋々食事と睡眠を摂ることにしています。

もしも人間が食物を摂取せずとも生きていかれるのなら、私はどんなに幸せだったことか分かりません。人間は光合成が行えたら良かったのです。ですから私は世の中のバイオテクノロジーの研究者全員に、声を大にして言いたいのです。私の全身の細胞の遺伝子を隅から隅まで組み換えて、私が光合成出来るようにして欲しい、と。光合成のために全身にクロロフィルが発現して肌の色が苔のように緑色になったって構いません。どうせ今の私には惜しむ美貌も何もないのですから。

とにかく私はテレビが好きなので、食事と睡眠時以外は必ずテレビを見ています。必ずです。そうですね、私ほどのレベルになると、もう新聞のテレビ欄を見ずとも頭の中にテレビ欄が埋め込まれているものですから、体内時計と連動してどの時間にどの番組が放送されているか分かるようになるのです。人によってはこの能力を羨む人もいるかも知れませんが、私にとってこれは自慢にもなりません。私が生活を行う上で、必須の能力なのです。

テレビの何がそんなに好きなのかと疑問に思う人は、テレビを真剣に見ていない人なのでしょう。そもそも真剣にテレビを見ることについて、これっぽちも大切なことだと感じたことがないのです。そういう人たちは、この先もそうして冷めた態度でテレビを見ながら一生を過ごすのでしょう。そして最期の時、テレビをもっと真面目に見ていれば良かったという強い後悔と自責の念に襲われながら、深い深い永遠の眠りに就くのです。

人のことを心配し出せばキリがありませんから、私は自分に満足することに留めて他人にあれこれ言うことは止めておきましょう。本当に思慮深い人なら、私が言わずともこれから先テレビを真剣に見ることになるでしょうから。

JASRAC

  • 2007年6月 6日 23:57

 

  • 2007年6月 7日 23:48

ssss

  • 2007年6月 8日 23:59

naa

  • 2007年6月 9日 23:59

そして土曜日は過ぎ去っていったのです。私の目の前から、土曜日はあっという間に過ぎ去っていきました。私を置き去りにして。土曜日は私の方を振り返りながら、透き通るような白い顔をして笑っていました。

「君はいつまでもそうしているがいいよ」

土曜日がそう呟き黒い水平線の向こう側へ駆けていくと、土曜日とすれ違う形で日曜日が向こうから現れたのです。日曜日はにこやかな茶色い顔をしていました。一昔前のガングロ女子高生のような、安っぽいメイクをしていました。

「君はいつまでも日曜日だからいけないんだ」

突然日曜日が顔を鬼のように変えてそう怒鳴ると、日曜日は爆発してしまいました。

日曜日

  • 2007年6月10日 23:57

もう十五年は前になるでしょうか。僕が幼稚園の帰りの昼間に、家の近くの公園の砂場で、一人で砂のお城を作って遊んでいた時のことです。最近だと不審者に対して敏感な社会なので、幼稚園児を一人で遊ばせていたら親は育児放棄だのネグレクトだの言われるようですが、当時はそんなことがありませんでしたから、僕はよくその公園で誰に何を言われるでもなく日が暮れるまで一人で遊ぶこともありました。

ずっと一人で遊んでいたのは友達が少なかったというよりも、まず一人で遊ぶことが好きだったのです。幼稚園のお遊戯の時間も、僕は楽しみを見つけられませんでした。みんなで意味もなくぎゃあぎゃあ騒いでぐるぐる回って何が楽しいんだろう、ああつまらない、僕は早くおうちへ帰って絵本を読みたい、公園へ行って鉄棒したりジャングルジムしたい、毎日そう思っていました。そんな幼稚園児でしたから当然一緒に遊ぶ友達もできません。友達ができないから一人で遊んでいたのではなく、一人で遊んでいたから友達ができなかったのでしょう。

周りは一人で遊ぶ僕を気にも掛けずに、みんなで楽しそうに遊んでいました。そんな状況に置かれた時に疎外感や寂しさを感じれば、それは本心がみんなと一緒に遊びたいと思っていることなのでしょう。けれども僕はみんなの輪の外で一人で遊ぶことに、何の寂しさも悲しさも覚えませんでした。僕は本当に一人で遊ぶことが好きだったのですから、当然のことです。

話を戻してその十五年前の出来事をお話ししましょう。僕はいつも通り、公園の砂場で一人で遊んでいたのです。砂のお城と、その城下町が完成し、僕は一人で悦に浸っていました。そこへ、どこから来たのかふらふらと野良犬が砂場の横を通りかかりました。毛並みは汚らしく、遠目からでもあばらが浮いて見える、とても貧相な野良犬です。僕はその犬が突然飛びかかってきやしないかと警戒しましたが、全くそんな気も持ってはいない様子で、餌を探していたのか顔を下に向けて壊れたセンサーのようにしきりに首を振っていました。

僕は犬が嫌いではありませんでしたが、その汚らしい野良犬に対しては何とも言えない嫌悪感を感じました。動物愛護の欠片も心にはないのが無邪気な子供ですから、おそらく子供のほとんどが僕と同じ状況に置かれればその野良犬を前にするであろうように、僕は手のひら一杯に砂場の砂をつかみ取って、野良犬へ思いっきり投げつけました。これを分別のある大人がやったのなら非難されるべき行為ですが、分別が何なのかすらも解らない子供だったのですから仕方がありません。僕はみじめなその野良犬をかわいそうだと思うこともありませんでした。

僕の投げつけた砂は、野良犬の顔に横から勢いよくばさりと掛かりました。のろまな野良犬でもさすがに驚いたのか、首をぶるぶると振ると顔を上げてだるそうにこちらへ目を向けました。僕は野良犬と目が合いましたが、やはりその野良犬には何の気迫も感じられませんでしたから、僕は面白く感じました。この犬は、どこまでみじめな犬なんだろう。みじめでばかな犬だ。ばかだから、砂を掛けられても怒りもしない。あはは。あはは。ばかな犬。

すると野良犬はぐうと鳴き、あるいは泣いたのかも知れませんが、しょんぼりとした様子でこちらに尻を向けてすごすごと遠ざかっていきました。それがますます面白かったので、僕は今度は大きめの石を手にとって犬へ投げつけたのです。実はこの時に一瞬の戸惑いが頭の中に噴き出していましたが、僕はもう野良犬に対して調子に乗っていましたから、その戸惑いに手を止めることなく石を投げつけてしまったのです。ところが、これがいけませんでした。

石は野良犬の背中に当たりました。数メートルは離れていましたから、腕のコントロールには素質があったのかも知れません。まあおそらく偶然なのでしょうが、偶然は起こって欲しくない時に限って起こるものです。石が当たった犬は、振り向いた途端に血相を変えて僕に襲いかかってきたのです。突然でした。本当に突然のことでした。

犬にも堪忍袋の緒があって、それは突然に切れるものだということを、この時に身をもって知りました。恐ろしい顔をした野良犬は、泣き叫ぶ僕の足を、腕を、尻を、背中を、腹を、首を、顔を、頭を、身体中を強く噛んだのです。もう痛さも恐ろしさも混ざりきって、僕自身が何を感じているのか分かりませんでした。とにかく僕はギャアギャアと泣いて助けを呼んだのですが、誰も来ないうちに野良犬は気が済んだのかどこかへ行ってしまったようです。気が付くと僕は砂場の上に血まみれで転がっていました。砂の町はとっくに壊れていました。

しばらく僕は自分の身に訪れた突然のことに呆然としたまま動けず倒れていたのですが、数分ぐらい後だったでしょうか、若い女の人が僕の倒れている横へ来ました。僕はその女性が僕を助けてくれるのかと思っていましたが、その人は何を思ったのか、苦しむ僕の様子を見て笑っていたのです。気味の悪い笑い方でした。

「ひひひ…日曜日の欠片、見いつけた」

その女性は大きなリュックサックからハサミを取り出して、僕の髪の毛、前髪を、そのハサミで切り取ったのです。僕は助けに来てくれた人にまさか前髪を切って持って行かれるとは思いもしませんでしたから、何が起こったのか分からず、小さな声で「いたいよ、からだがいたい」と言いました。しかしその女性は答えることもなく、僕の前髪だけを持って立ち去って行きました。鼻歌を歌いながら、スキップをしていました。

結局僕は、犬の散歩で通りかかった公園の近所のおじさんに倒れているところを見つけられて救急車で病院に運ばれました。特に何の後遺症もなかったのが幸いでしたが、今でも野良犬を見掛けると恐怖を感じます。あの時野良犬に襲われた僕の方が、餌を探して歩いていた野良犬よりもよっぽどみじめだったのかも知れません。

aha

  • 2007年6月11日 23:59

俺は魔法が使えたんだぜ。本当に。本当に魔法が使えたんだ。

でも誰も信じてくれやしない。俺が「魔法を使ったことがある」なんて言うと、決まってみんな俺を馬鹿にして、あるいは呆れた顔をして、「それじゃ今すぐその魔法を使って見せてよ」なんて言いやがる。あいつら、人の話をちっとも聞いちゃいねえ。俺は魔法が"使えた"って言ってるんだ。"使える"んじゃない。あくまでも使えたのは過去のことだってのに、あいつらは自分の目で実際に見ないと魔法なんて信じようとしないんだ。

魔法を信じないくせに、あいつらは日本からずっと遠く、地球の裏ッ側で起きていることをいともあっさりと信じてやがる。酷いダブルスタンダードと言ったらありゃしない。テレビの映像に映されたアメリカで起きていることが真実だなんて、実際にその目で見なきゃ分かんないだろ?テレビの映像がいつでも本物とは限らないんだぜ。テレビの映像さえあれば、あいつらは何でも信じちゃうんだろうな。

要するにあいつらは怠けてるんだ。何でもかんでもテレビの映像を見て、それで全て知ったつもりになってやがる。怖いことだね。すっかりテレビの映像を信じ切って、流される映像の中の世界がSFでもない事実の世界なのかどうか確かめようともしない。テレビ局が架空の事件の映像を流しても、信じてくださいと言わずとも勝手に信じるんだろう。

まあ別に誰が何を信じようが、俺の知ったこっちゃないね。実を言うと俺はこの世界すら本当に存在しているのか分からないんだから。これは本当は誰かの夢の中で、俺はその中の登場人物の一人に過ぎないのかも知れないんだから。

yamamoto

  • 2007年6月12日 23:58
  • UFO

この前学校から帰る途中、わたしはUFOを見ました。何の気もなくふと振り返って顔を上げると、夕方の薄紫の空に、上下左右自在にあやしく動き回る光が見えたんです。UFOです。びっくりしました。

たまに人工衛星が光って見えると聞いたこともありますが、あの動きは人工衛星なんかじゃないと思います。あれは絶対にUFOなんです。わたしは初めてUFOを見た興奮で、頭も体も熱くなりました。UFOって、やっぱり本当にあるんだ。感動にも似た興奮でした。

わたしは一緒に帰っていた山本さんに「UFOだよ!」と急いで知らせてあげましたが、山本さんが見たときにはもうUFOはどこかへ行ってしまったようで、あの光はもう見えなくなっていました。とてもがっかりしました。するとUFOを見られなかった山本さんは、「幻覚じゃないの」とわたしを馬鹿にして言ったんです。幻覚じゃないのに、本当にUFOを見たのに、わたしは山本さんに幻滅しました。

よく考えると、山本さんにはいつもそういう所があります。自分の信じられないことには何の価値もないと思っているらしく、山本さんが信じられないことをする人や言う人を自分より下に見て小馬鹿にするんです。山本さんは大切な友達ですが、そういう所が嫌いです。

次の日、学校のクラスの女子の間では、わたしがUFOを見たという話題で持ちきりでした。教室の中で耳をよく澄ますと、UFOUFOという単語がぼそぼそと聞こえてきたので間違いはありません。山本さんはおしゃべりだったので、きっと山本さんがクラス中にきのうのわたしのことをぺちゃくちゃとしゃべったんだと思います。

わたしが話題になるのは別にいいんです。でも、その話題はわたしのいない所でされていました。わたしがその話の輪に加わろうとすると、特に無視されることはないんですが、明らかにわたしについてではない別の話に切り替わるんです。わたしが近づいた前後の会話の繋がりが強引でめちゃくちゃだったので、誰にでも分かることです。わたしはわたしについての話題の中で、けなされていたんだと思います。UFOを見たとかわけの分からないことを言ってる、あの子は頭がおかしい。そう言われていたんだと思います。

朝の学級会の間、わたしの頭の中は悔しさと恥ずかしさと心苦しさで一杯でした。肩を狭めてうつむいて座っていても、後ろから冷たく鈍い視線を感じたんです。あの時の教室ほど居づらい空間はありませんでした。静まりかえる教室の中で、クラスのみんなは心の中でわたしのことをUFOUFOと馬鹿にしていたに違いありません。どうしてこんな状況になってしまったのか。わたしは山本さんをうらみました。憎みました。横目を山本さんの方へやると、楽しそうに、本当に楽しそうに微笑んでいました。わたしは先生のくだらないシャレにも笑える気持ちではありませんでしたが、山本さんは笑っていました。数メートルも離れていないわたしの気持ちなんか何にも知らないで、明るく笑っていたんです。わたしは唇をかみしめ、手を握り、わなわなと震えました。

『山本さんがいなければ…、山本さんなんか、いなくなっちゃえばいいんだ…!』


次の日学校へ登校すると、山本さんの姿がありません。欠席かと思いましたが、そうは休まない元気で丈夫な子です。さすがにきのうは山本さんにいやなことをされて腹が立った日でしたが、毎年皆勤賞をもらっている山本さんが欠席すると心配になります。わたしの大切な友達ですから、何があったのかと朝の学級会で先生に聞きました。すると返ってきた言葉は、予想もできなかった言葉でした。

「山本さん?山本さんって誰?」

山本さんは、いなくなってしまったのです。

マルトース

  • 2007年6月13日 23:07

「ちょっと、ちょっと」

僕がその声に気付いて周りを見渡しても、誰もいない。四畳半の部屋の中で僕の周りにあるのは、僕が幼稚園児の頃に貰い今はもう壊れて何も聞こえなくなっていたラジオと、読むつもりもないのに十一万円で買わされた哲学書全集のタワー、ほこりをかぶったウォーズマンの等身大フィギュア、それに僕の飼っている雑種犬のナポレオン、それだけだった。

「ちょっと、ちょっとちょっと」

声はなおも呼びかけている。僕しかいなければ静かなはずの部屋でそんな声、今にも"お墓の前で泣かないで"と歌い出しそうな美声がしてくるものだから、あまりいい気持ちがしない。僕は薄気味悪さを感じて立ち上がって部屋の隅へ立ち、何があの声を発しているのか目を光らせて耳を澄ませた。

「おやおや、反応しているということは私の声が聞こえるんですね」

その声のその言葉に、僕はぴたりと動きを止めた。"あいつ"は声を発するだけでなく、僕の行動を見ることも出来るらしい。一体何なんだ。誰なんだお前は。

「いま、宮川賢を思い出したんでしょう」

"あいつ"は、僕の心も読めるらしい。何ということだろう。僕はまるで僕が気が狂ってしまったかのような感覚に囚われた。この部屋に僕以外の誰がいて、誰が僕を見ているというのだろう。

ナポレオンを見た。まさか犬が人間に人間の言葉で喋りかけるはずがないとは思っているが、しかしそのまさかが起こりうるのがこの世界だ。インコが人間の言葉を話し、太郎次郎が人間の言葉を理解することも出来るのだから、このナポレオンが人間の言語を習得していることもありえなくはない。きびだんごをやれば鬼退治にだって付いてくるのだから、それだけ優秀な動物種であるのだ。

そのナポレオンは、今はすやすやと寝息を立てて眠っている。広い野原を駆け回る夢でも見ているのか、時々足がぴくぴくと動く。ああ、こんな状態でまず吠えることすら出来ないのだから、話すことも無理だ。犬が人間と話すなんて、僕は何を考えているのだろう。やっぱり、"まさか"なんて起こるはずがない。

「ふふふ、犬が喋るだなんて、君も顔に似合わずメルヘンな青年ですね」

痛いところを突いてくる。確かにそうだ。僕は昔からメルヘンな世界が好きだった。そして現実が嫌いだった。布団の中で見る心地よい夢にいつまでも留まりたいと思うあまり、嫌なことばかりの学校には遅刻するような子供だった。学校なんてなくなればいいと日頃から願っていたせいか、夢では世界中の学校という学校が敷地ごと木星へ飛び立つ光景を見て喜んだこともあった。しかし朝起きてわくわくしながら登校すると、学校は木星に飛んで行ってなんかいない、学校はいつもの通りにどんと構えて子供たちを吸い込んでいたからがっかりした。

小さい頃は学校というものが現実の代名詞だったから学校を怨嗟の対象としたのだろうけれど、次第に心身ともに成長して活動範囲が広がってくると、現実という言葉の指すものは学校のみには留まらなくなる。近所の家、塾、駅、郵便局、親戚、病院、コンビニ、バイト、家族…。もう日常のありとあらゆるもの、僕と僕の部屋のものを除いた、全てのものが木星へ飛んで行って二度と帰って来なければいいとさえ思っている。と同時に、そんなことがあり得ないということも自覚してしまっているから、僕はもう現実に期待することはほとんどなくなった。もっぱら夢と妄想の中だけでしか自分を満足させることが出来なっていた。

「そう、君はずっと子供の頃から何も変わってないんです。空想好きな幼稚園児が、小学生になり、中学生になり、高校生になり、そして大学生になった、それだけのこと。本当は君はまだ、頭が夢で一杯の空想好きな幼稚園児なんです」

空想好きな幼稚園児…?いや、僕は確かに空想好きだからそれは否定しないけれど、幼稚園児とはあんまりだ。空想とは別にきちんと勉強して、いい高校にも入って、希望の大学にも入ったのだ。これは僕の努力の賜物以外の何でもない。僕は嫌な現実であっても、努力するべきことには努力したつもりだ。僕は大学生だ、今はどんなにダメでも社会人になってから才能の開花するはずのエリート大学生だ。幼稚園児だなんて、とんでもない。

「スジャータ スジャータ コーヒーにスジャータ スジャータが 零時をお知らせします ポーン」


「わあっ!パパ、機械がしゃべったよ!ポーンって」

僕の周りには、甘い時間が流れていた。目の前には新品のラジオがあって、僕はそれに気を惹かれていた。うん、確かにおもしろい。灰色の箱から、いろいろな音と声が聞こえるんだから。面白い声、怒る声、悲しい声、楽しい声。今までにない新鮮な驚きを感じて、僕は喜び舞い上がっていた。

「ねえママ!ここを回すと声が大きくなるよ!」

ラジオに夢中になってはしゃいでいる僕を、少し離れた所から僕の両親が微笑みながら眺めていた。そして一言二言何か交わしていたものの、まだ幼い僕には理解できない。

「ねえ、いいの?まだ四歳の子供にラジオなんか買ってあげて」

「いいんだよ。あの子にはたくさん夢を与えなきゃ。ほら、あの笑顔、すごい喜びようだよ」

「ほんと、あんなにはしゃいじゃって、嬉しそうね」

「今日を糧にして立派に育っていって欲しいね」

やっぱり幼い僕には理解できない。大きくなったら理解できるようになるのかな?

  • 2007年6月15日 00:01
  • UFO

家に帰ると、高校生の妹がいました。今までずっと一人っ子だった僕に、何故かその時妹がいたのです。僕は実は二人兄妹だったのかも知れませんが、幼い頃の記憶を思い起こしてもその妹の存在は僕の記憶にはひとかけらもありません。ではこれは誰なのだろうと思ったものの、やはり妹以外に考えられないのです。

妹は高校の制服姿のまま着替えもせずこたつに入って、ワイドショーを見ながらみかんを食べていました。帰ってきた僕に気が付くと、僕を振り返って「おかえり」と一言言いました。僕はそこにいた妹の名前も知りませんでしたが、これは僕の妹なのだと思い、「ただいま」と返しました。

「お兄ちゃん、今日、家庭教師のバイトでしょ」

妹はもぐもぐとみかんをほおばりながら言います。どうしてこの見知らぬ妹は僕のバイトのことまで知っているのだろう。僕の方はまるで初対面なのに。そう思いましたが、やはりこれは僕の妹なのです。妹なら、兄のバイトのことも知っていて当然なのです。

「うん、今日は二丁目の山本さんの子を教えてくるよ」

僕がそう言った時、妹の顔が一瞬変わって引きつった様子になりました。何か僕の言ったことが妹のしゃくに障ったのかも知れませんが、すぐに元の穏やかな顔に戻ったので僕はひとまずその疑問を収めました。

妹はこたつの合い向かいから、無表情のままみかんを一つボールのようにころころと僕の方へ転がしました。しかしみかんは丸いボールではありませんから、そう上手くは直線に転がりません。みかんはこたつの上でいびつなカーブを描いて、やがて僕と妹の間の誰もいないところへぼとりと落ちました。

妹は何も言いません。僕も何も言いません。落ちたみかんはほんのしばらくの間ひとりで放っておかれましたが、ずっと放っておく訳にもいかないので僕は手を伸ばしてみかんを拾い上げました。落とされた衝撃で中身がぐちゃぐちゃになってはいないかと思いましたが、皮を剥いてみると特に変わりはありません。僕はいつものように、皮を剥いたみかんを丸ごと口にほおばりました。冬の甘いみずみずしさが、口の中いっぱいに広がります。

「このみかん、甘いなあ」

「…どこが?」

僕のみかんへの率直な感想に、妹は冷たく答えます。僕は少し寂しくなりました。今まで一人でしたから機会はありませんでしたが、誰かに意見の共有を求めた時にそれが拒否されてしまうということは、ずいぶん悲劇的な出来事であると感じたのです。そして精神的によくありません。僕はこれからこの妹と過ごしていく時間に、不安を感じました。

「…お兄ちゃんなんて嫌い」

妹は突然立ち上がりそう言い放つと、かばんを持って家から出て行ってしまいました。どこへ言ったのかも分かりません。僕は驚く暇もなく、ただこたつで甘いみかんを食べているだけでした。

やがて夕方頃、僕が家庭教師へ行く準備をしていると、家のブザーが大きく鳴りました。こんな半端な時間に誰かと思いながらドアを開けると、大学生と小学生くらいの二人の妹が笑顔で立っていました。

「ただいまあ、お兄ちゃん」

先ほどの妹と同じように、僕はその妹たちを見たこともありません。もちろん名前すら知りません。けれど、それは紛れもなく僕の妹たちなのです。

「おかえりなさい」と僕が言うと、二人の妹は寒かった寒かったと言いながら家へと入りました。二人は伊勢丹の紙袋を持っていましたから、駅のそばの伊勢丹へ買い物へ行ってきたのでしょう。そこに小学生くらいの妹が、僕が出かけることに気が付いた様子で訊ねてきました。

「あれお兄ちゃん、どこ行くの」

「二丁目の山本さんのところに家庭教師に行ってくるよ」

僕がそう答えると、妹は突然ぐすぐすと泣き始めました。大学生の妹も、悲しげな顔をしてため息を吐いたのです。僕は何が何やら、訳が分かりませんでした。

そう言えば先ほどの高校生の妹も、僕が二丁目の山本さんの家に行くと言うと途端に表情が変わりました。もしかするとこの二丁目の山本さんという点に、妹たちは不満があるのかも知れません。けれどいくら妹たちが不満を持ったとしても、あるいは出て行ってしまったとしても、契約ですから家庭教師には行かなければいけません。

二人の妹たちが暗く静まる中、家庭教師の約束の時間が迫っていたので、僕は「行ってきます」と二人に声を掛けて家を出ました。二人はうつむいたまま僕の言葉に反応もしなかったので、僕は後ろめたい気分に襲われました。

二丁目の山本さんの家までは自転車で五分も掛かりません。下見こそしませんでしたが、この近辺は幼少の頃から遊んでいる、言わば僕の庭です。住所さえ分かれば、地図を見ずとも行けることができるのです。

そのはずでした。しかし、山本さんの家が見つかりません。約束の時間には余裕を持って家を出たのですが、山本さんの家を探している内にとうとう時間が過ぎてしまいました。僕は焦りました。家庭教師の契約を解除させられるかも知れない、そうなれば僕の生活費が激減してしまうのですから。

うろうろしていると、女の子が一人泣きながら道路に立っていました。それは、僕の妹でした。顔も名前も知りませんでしたが、僕の妹だったのです。

「お兄ちゃん…」

その妹は、僕の顔を見るなり安心したのか、泣いて抱き付いてきました。僕は焦ってはいましたが、泣く妹の前で慌てた様子を見せれば妹をますます不安にさせてしまうでしょうから、落ち着いた様子でどうしたのか妹に訊ねました。すると妹はこう言いました。

「山本さんが、いなくなっちゃったの…」

今朝起きたら

  • 2007年6月16日 23:40

「昨日、あたしは確かに家のあたしの部屋のベッドで寝たはずなのに、今朝起きたらこんなところにいたの。どういうこと?ねえ、ここはどこなの?あなたは誰?パパは?ママは?ねえ、答えて、答えてよ」

声からして気の強そうな女の子。どうしてぼくを叱りつけるの?ぼくを揺さぶったって、怒ったって、蹴り飛ばしたって、八つ裂きにすると脅したって、きみの満足するような答えは何一つ出てきやしないよ。だって、ぼくはきみの来るよりずっと前からここにいたんだもの。きみと同じだ。仲間なんだ。もっと優しくしてよ。

「どうして何も答えないの?あたしを帰してよ!こんな薄気味悪いところ嫌なの、早く家に帰りたい!あっ、学校にも行けなくなっちゃうじゃない。入学してから一日も、一分も休んだことがないのに…これで中学入試に落ちたらどうしてくれるのよ!」

ああ痛い痛い…。そんなに何回も強く蹴らなくたっていいのに…。最近の女の子は、こんなにも暴力的なのか。暴力は良くないよ。それにぼくを蹴ったって、何の解決にもならないんだよ。だってぼくは、きみがここに来たこととは何の関係もないんだから。ほんとうだよ。

「あっ、分かった、あなたって見張りなんでしょ。あたしがこの汚い部屋から逃げられないように、あたしを見張ってろって上の人から言われてるんでしょ。そういえばそう、あなたこれぞ下っ端って感じの顔してるものね。よくドラマで悪い人たちが出てきたときに、真っ先に刑事さんに撃たれて倒れちゃう人。ほんとう、そっくり。もしかして、俳優だったりする?売れない俳優?あっ、もう一つ分かった、あなたって売れなさすぎるから、こういう悪いことやってお金稼いでるんでしょ」

まるで言いたい放題だ。下っ端だの売れない俳優だのって、ぼくってそんなに小物に見えるのかな。なんだか悲しくなって来ちゃったよ。それにしてもきみはおしゃべりだね。ぼくのことを悪い見張りだと思ってるのに、恐がりもしないでおしゃべりするんだからさ。きみを放っておけば、何日でもこうやって一人で話し続けるのかも知れないなあ。ああ、でもぼくはきみを放っておかざるを得ないんだよ。きみに構うことが、ぼくにはできないんだ。

「悪いことはダメって、学校でも家でも習ってこなかったの?きっとあなたは、心が弱いのね。売れなくて貧乏で困ってるときに、ちょうど悪い人たちから『儲かるぞ儲かるぞ』って声を掛けられて、こういう悪いことを始めるようになったんでしょ。あなたってかわいそう…って言うと思う?全ッ然かわいそうなんかじゃない。ただのばかね。あなたはばか。ばかよ。ばかばか。ばーか」

ぼくの名誉のために言おう。ぼくは断じてばかなんかじゃないぞ。だいたいきみを巻き添えにした悪いことなんてしちゃいないんだ。心の弱い悪人だと決めつけられた上にばかだなんて何度も罵られちゃ、いくら穏やかなぼくだって怒り心頭に発するよ。…おっと、ダメだ。きみはぼくの事情を何一つ知らないし、ぼくもきみに何一つ教えることができないんだから、きみが悪い訳じゃないな。きみは悪くない。ぼくが悪いんだ。

「でもあなたはラッキーね。あたしに会えたんだから。これはあなたの人生の転機になると思うの。いい?あたしが帰れたら、パパにもママにも、もちろん警察にもあなたのことは言わない。絶対に。これがどういう意味かわかる?あなたはあたしをここに閉じ込めた、あたしにひどい暴力も振るった、でもあたしはあなたのことは何も知らないことにする。そう、あなたのことなんて見てもない、聞いてもない。あなたは無罪放免。そしてあなたは今後一切悪いことから手を引いて、俳優としてやり直す。もちろん売れる努力はしないとね。どう?あたしってこう見えても口が堅いのよ。約束するわ。だからあたしを今すぐ帰して」

ひどい暴力なんて、ぼくは一切振るってないんだけどな…。暴力を受けたのはむしろぼくの方だよ。まあ、ぼくがもしきみを閉じこめて見張っていた心の弱い元俳優だったら、きみの提案を喜んで受けただろうな。でもぼくはそんな人間じゃない。残念だけど、その提案は受け入れられないや。ごめんね。ぼくはきみを帰したい。でも帰すことができない。帰す方法も知らないし、まず帰す力もない。ごめんね。

「ねえ、どうしてさっきから一言も答えてくれないの?どうしてずっと寝たふりをしてるの?あたしの声が聞こえてるんでしょ?聞こえないの?…わああああああああああ!!!…って言っても、聞こえない?それともただ無視してるだけなの?どうして?」

ああ、ダメだダメだ、そんなに大きな声を出しちゃあ。あいつらが来てしまうよ。ほら、聞こえるだろ。遠くの部屋から、あいつらの出す嫌な低い音が。あいつらは、人間じゃないんだ。肌がゆでだこのように真っ赤で、足が人の何倍もあって、目もたくさんあって、…とにかく人間じゃないんだ。ぼくはあいつらからきみを助けてあげたい。きみをぼくのようにしたくはない。だからお願いだ、ぼくの声を聞いて欲しいんだ。ああ神様仏様クレオパトラ様、何とかしてこの願いを叶えてくれないだろうか。訳も分からずこの身体に唯一残されているこの意識を誰に捧げても構わない、ただ目の前の一人の人間を救ってあげたいだけなんだ。

「わあああああああああああ!!あああああああああ!!…だめだ、ピクリともしない。おかしいなあ、普通こんなに近くで叫んだら、嫌でも動くはずなのに…。もしかして、この人、もしかして…」

ぼくの声はきみに届かなかった。そのせいできみが大声を上げ続けてしまったから、もうすぐあいつらがここへ来るだろう。きみはかわいそうな女の子。

lost

  • 2007年6月17日 23:59

私は日曜日の爆発するのを目の前にしてから、ずっと一人で日曜日の欠片を探し続けてきました。日曜日の欠片を全て手にし、私が元のように再生することができれば、私は日曜日を再び支配することでまたあの幸せな日々を送れるものと思っていたのです。

しかし私はついにこの今まで、日曜日の欠片を一つさえ手にすることができませんでした。たまに日曜日の欠片だと思ったものを実際に手にとっても、それは私を失望させる、何でもないがらくたに過ぎなかったのです。おそらく日曜日は爆発によって粉々に、人間の目には判別できようがないほどに細かく砕かれてしまったのでしょう。

そして粉々になった日曜日は人間の日常に紛れ、溶け込んでしまったのです。ああ、日曜日はもう私の手には戻りません。さようなら日曜日.

バドミントン

  • 2007年6月18日 23:31

俺、実はバドミントンの王子様なんだよね。誰もそう呼んでくれないけど、俺はバドミントンの王子様なんだよ。俺は自分のことを略してバドプリって呼んでる。別に変な漫画に影響されたわけじゃないよ。

俺が自分がバドミントンの王子様だってことに気付いたのは、まだ小学校一年生の時だったからね。初めてテニスのラケットを握った時だった。ラケットを握る手から、こう、グイと心の中に暖かいものが入ってきたんだ。その時に俺は気付いた。俺は王子様なんだって。試しにシャトルを打ってみたら、一打ちでガットが切れてラケットがめちゃくちゃに壊れちゃったんだよ。あり得ないね。周りにいた人たちも、神童だ、神の子だって口々に呟いてた。それがあの漫画の始まるより二年も前ということだから、こっちが本家なわけ。

もちろん俺の入ってる部活は帰宅部。だって王子様が部活なんて入ってたらやってられないでしょ?どこにも属さず、フリーだからこそ王子様としての価値があるの。先輩後輩とか煩わしいじゃない。敬語とか好きじゃないんだよね。どう見てもへたくそな先輩を、ただ年が上ってだけで敬うって、ド変態のすることだよ。それにへたくそな先輩に限って、色々と口うるさいんだよね。俺は俺なりのフォームがあるの。あんたのフォーム押しつけないで、へたくそがうつるでしょ。そんな風に、体験入部の時に思ったんだ。だから今はフリー。

同じ学年にはバドミントン部に入った変態が五人いるんだけど、そいつら何か俺を目の敵にしてくるんだ。一体何なんだろうね。きっと俺が王子様で上手いのを僻んでやがるんだよ。体育の時間、ちょうど種目がバドミントンだったんだけど、俺が一人でシャトルをラケットでつついて遊んでいたら、あいつらいきなりクリアーを俺に打ち込んできたんだ。さすがに俺でもびっくりしたよ。そしたらあいつら、俺に「じゃまだからコートの中に入るな」って言うの。これはどういう意味かっていうと、"バドミントンの天才のお前は目障りだから閉め出してやる"って俺は捉えた。まさに何て言うのかね、部員だからって調子に乗ってるんだと思ったね。

だからこの前、そいつらに団体戦を申し込んでやったんだ。五対一で。あいつら、まさに未知の生物でも見るみたいにキョトンとしてたよ。ふつう団体戦といったら、シングル一組とダブルス二組の三回を行うんだけど、俺は王子様だから一人で十分というわけで、あいつら五人を俺一人で相手にしてやった。結果?結果なんて、負けるに決まってるじゃないか。ストレートのラブゲームだ。だって五対一だぜ?勝てるわけがない。あいつら卑怯だ。たった一人に五人で立ち向かうなんてさ。俺はつぶしに来られてることをひしひしと感じたよ。

でも俺は負けないんだ。王子様だから。俺はある日の放課後、そいつらの一人が校舎の裏の駐車場で一人きりでアハアアハア言いながらフットワークの練習をしていたのを、後ろから竹刀でぼこぼことぶん殴ってやった。これは一番いい闘いだったな。今でも記憶に残ってる。しなやかなステップを繰り出す体から次々と打たれるスマッシュに、そいつは為す術もなく崩れていったんだ。勝った、俺は勝ったんだ、そう思って俺は俺の王子様たることを確信したね。試合に負けて勝負に勝つ、これだよ。大事なのは試合の結果じゃないんだ。相手との、そして自分との勝負、これが一番大事だということに、改めて気付かされたよ。

あまりにも強すぎる俺の実力を恐れたのか、バドミントン部の連中が学校側に俺のあることないことを報告したらしいんだ。すぐに高校の教務委員長に俺は呼び出された。そして一週間の停学、自宅謹慎を言い渡されたんだ。これは本当に理不尽なことだったね。陰謀ってやつだ。俺はバドミントンの王子様なんだぞ、この学校の一番のプレイヤーは俺なんだ、と叫んでやりたかったけれど、能ある鷹ほど爪を隠すということわざを俺は知っていたから、敢えて言わなかったよ。まあ王子様というものがこのような仕打ちを受けることは仕方のないことだからね。これは試練と自分に言い聞かせて、甘んじてその不可解な処分を受け入れてやったさ。

停学期間が明けると、俺はバドミントン部の奴らに呼び出されて、部活に来るよう言われたんだ。神妙な顔つきで、「待ってるからな」って言うの。とうとう俺の実力を認められたと思ったね。待ってるとまで言われるほどにこう三顧の礼を尽くされちゃ、行かないわけにもいかない。だから部活へ行ってやった。

まあ俺が今も部活に入っていないのだから、その結果どうなったのか想像が付くでしょう。やっぱり部活というものは酷いもんだよ。新入りというものは、殴られて全裸にされて木に逆さまに縛り付けられて水を掛けられるものらしい。ねえ?いくら俺が新入りの天才だからって、バドミントンの王子様の俺にそんなことしなくたっていいんじゃないかと思うんだよ。やっぱり王子様というものには試練は付きものなのかも知れないな。

高校のバドミントン部は近畿大会まで行った。まあよくあのへなちょこバドミントン部が勝ち上がったと思うよ。バドミントンの王子様の俺が五人もいれば、全国制覇は間違いないんだけど、あいにく俺はこの世に一人しかいない。天は二物を与えずとはよく言うけど、全く恨めしいね。

空振り三振

  • 2007年6月20日 20:10

マネキン

  • 2007年6月24日 23:02

私の友達に、変な人がいました。"いました"、つまり今はもう私と彼女とは、友達でも何でもない、知人ですらありません。私はもう彼女と連絡を取るのを止めてしまったんです。なにしろ彼女は本当に変な、不気味な女性だったんですもの。

私と彼女との出会いは、高校の時に席が隣になったことがきっかけでした。彼女はクラスの女子の中でも最も背が高く、同性の私から見ても目を惹くような整った顔立ちと、透き通るような白い肌、長くて黒い綺麗な髪を持っていました。モデルのようなその容姿でしたから、男子の間で人気があったのは間違いありませんね。休み時間には、彼女はいつも教室の窓際に腰掛けて読書をしていたんですが、時折風が吹いて彼女の長い髪がたなびくと、私はその美しい光景に思わず溜息を吐いたほどです。私はおそらく、いえ、確かに、彼女に対して憧れに似た感情を抱いていました。

高校二年生になり初めての日に、私は彼女と初めて会話をしました。何気ない会話だったんですが、彼女の上品な話しぶりが今でも深く印象に残っています。きっと頭も良いんだろうと感じましたが、実際に授業でも先生からの質問に対してもよどみなくはきはきと答えていましたし、新学期早々に行われた学力テストでも彼女の名前が成績の学年上位者の一覧に載るほどでしたね。成績優秀で容姿端麗な彼女と、特に何の取り柄もない私。私は自分と彼女との間に大きな違いを感じ、初めこそ心苦しさを感じていたんですが、次第に仲が深くなるにつれて彼女が意外に私にとって柔らかい人間であると知り、互いに打ち解けるようになりました。

高校の間は彼女に対して特別な不気味さを覚えることはなく、むしろ非常に良い印象を抱いていました。強いて言えば、彼女には変わった趣味がありましたが、人間なら誰しも他人とは少し変わった独特の趣味を持っているのが当然でしょうから、当時の私にとってさして気になることではなかったんです。今から考えれば、彼女のその変わった趣味が大きく成長し、奇妙な趣味へと変貌していったんでしょうかね。

彼女の変わった趣味、それは、和洋問わず古い人形を集めることでした。高校の頃、彼女の家に初めて遊びに行った時のことです。私は彼女の家へ行く途中、おそらくきっと同年代の女子なら誰でもするように、彼女の部屋を心の内で想像していました。頭も体もスマートな彼女のことですから、きっと部屋も都会的で洗練されたものに違いない、そう確信していたんです。ところが、それは私のとんだ思い違いでした。

彼女に案内されて私が彼女の部屋に入った途端、私は冷たい違和感を覚えました。薄暗い部屋の中でまず目に入ったのが、ところどころ繊維のほつれた真っ赤な着物を着てこちらを寂しげに見つめる、両方の手のひらに収まるほどの大きさの少女の人形でした。その肌は透き通るように白く、またその髪は長くて黒く、ちょうどその持ち主である彼女にそっくり…本当にうり二つのようでした。私はぎょっとして後ろにいた彼女を振り返り見ましたが、そこで私はさらに驚くことになったんですね。部屋の扉の横には、人間と同じくらいの大きさの洋人形が、物憂げな青い目で部屋の空間の一点を見つめていました。薄い茶色の髪のその人形は、色褪せた蒼いドレスを身に付け、自身の心臓の動きを確かめるかのように片手を胸に当てていましたね。もう片方はとよく見ると、片腕がありません。これはとても奇妙でしたね。

その二体の他にももう五体ほど人形がありましたが、いずれも時の流れを感じさせるほど古びたように見えるものでした。古びてはいますが、汚らしくはありません。おそらく気の細やかな彼女のことですから、毎日のように手入れをしていたんでしょうね。それを裏付けるかのように、私の前で彼女は自身にそっくりな、私を寂しげに見つめていた人形を大事にそっと抱きました。猫好きな飼い主が愛猫を抱くというよりも、母親が息の絶えそうな赤子を抱く、そんな光景を思い浮かべました。彼女と人形たちとの間には、一種の不幸なものが感じられたんです。

私にはその不幸な何かというものが一体何であるかは分かりませんが、それを彼女に直接問うことも憚られましたから、当時はそのままのものとして受け入れることしかできませんでした。絶交状態の今となっては、それが何なのかはもう知ることができないでしょう。しかしそれは必要以上に気にしてはいけないことなんですよ。誰にでも、そういった他人には理解されがたい面を持っているんですからね。

大人になってからこそ、私はそのことを強く心に留意するべきだったのかも知れません。しかし私は愚かでした。あまりにも愚かだったんです。ああ、実のところ、私は彼女と絶交に至ったことを心の底では後悔しているんでしょう。絶交となったのは、本当は私に原因があるのかも知れないんです。それを認めたくないが故に、私は彼女が奇妙な趣味を持っていることを余計に誇張している。きっと、きっとそうです。私は悪い女です。

高校、大学と卒業してからも、彼女との親密な付き合いは続いていました。毎年の旅行には一緒に行きましたし、成人してからは毎週のように酒を共にしたものです。紛れもなく、互いに親友と呼べる仲でした。そしてある日、彼女から連絡があったんです。「紹介したい人がいるから会って欲しい」と。紹介したい人というのは、つまり一生を誓い合った人のことであると当然思うことでしょう。大好きな親友が結婚する、これだけでもう私も幸せになれることなんです。私は嬉しくてたまりませんでした。精一杯のお祝いの菓子折りを持って、彼女とその婚約者に心を躍らせながら会いに行きました。

都内のデパートに就職していた彼女は、アパートを借りて一人暮らしをしていました。彼女のアパートへ行くのは初めてでしたから、高校の頃にやはり初めて彼女の部屋を訪れた記憶を思いだし、私は一人で懐かしさを感じていました。まだ人形の趣味は続いているのかな、いやもう卒業しているんだろうな、とまた別の楽しみを感じながら、私は彼女の部屋のインターフォンを押しました。ドアが開くと、そこには幸せで一杯の彼女の笑顔が現れました。

笑顔に押されるようにして部屋のリビングに通されると、そこには一体の人形、いえ、マネキンと言った方がいいんでしょうか、大きな男性のマネキンが横を向いて座っていました。売り場で見掛けるような、つやつやとしたマネキンですね。そして、高校の時に見たあの人形たちも、当時と変わらない格好のままリビングを囲むようにして存在していました。ああ、やはり彼女の趣味は変わっていないんだな。私はほっとしたような、一方では呆れたような、そんな気持ちで椅子へ座りました。しかし、肝心の婚約者の姿が見あたりません。"紹介したい人"が"婚約者"であるというのは、またもや思い違いだったのかも知れない、そう思って私は彼女に婚約者はどこかと訊ねました。

返ってきた言葉に、私は戸惑いました。彼女は、私に紹介したい人は「すぐ目の前にいる」と言ったんです。私の目が確かであれば、目の前にあるものはマネキンです。一寸も動きもしません。ただ横にいる彼女を向いて座っているだけのマネキンです。これが、彼女が私に紹介したい"人"だと言うんですよ。

私はおかしくなりました。彼女は高校の頃から少しも変わっていない。変わっていないどころか、マネキンを婚約者だと言うまでに"成長"していたんです。何のジョークのつもりなんでしょう。彼女の方を見ると、彼女たちは同じ指輪を左手の薬指にはめ、彼女はマネキンを可愛らしく幸せそうに見つめ、それに答えるかのようにマネキンが彼女の方を向いている、正確には向かされているんでしょうが、その様子は本当に滑稽なものでしたね。そして私は思わず大笑いをしてしまったんです。人生に一度あるかないかの大笑いでした。

私の笑い声は部屋中に響くほどでしたが、ただそれだけが虚しく響き渡っていることに気が付いたんです。彼女が静かになり、その表情が険しくなっているのを見て、私は笑いを収めようとしました。しかし笑いというものはそう簡単に収まるもんじゃないんです。だってマネキンと結婚って、どう考えたっておかしいじゃないですか。しばらく大笑いが尾を引くようにヒィヒィ言いながら落ち着いていきましたが、彼女の方は逆に落ち着きがなくなってしまったようでした。どうも強く怒っていたんです。私を鋭く睨みながら、体を小刻みに震わせ、顔を真っ赤にさせ、そして立ち上がって叫びました。「出て行け!」と。

私は部屋から蹴り飛ばされながら追い出されて初めて、彼女が本気でマネキンと結婚するつもりだったのだと悟りました。そして全身の力が抜け、へなへなとアパートの廊下に座り込むと、真っ白な悲しみが心の内からじわじわと身体中に広がったんです。確かにマネキンと結婚を考えるなんて、普通では理解しがたいことには違いありません。でも、私の親友だった彼女は、その理解しがたいことを本気で考えていたんです。それを、私は受け入れることができなかった。馬鹿にするように、笑い飛ばした。当然、彼女は傷ついたことでしょうね。

それ以来、私はもう彼女とは連絡が取れません。謝罪しようにも、一体どのようにすれば良いのかも分からないんです。十年の親友をたったの一瞬で失った、これは本当に辛いことです。高校の頃の彼女との楽しかった思い出は今でも忘れることはありませんが、その頃の彼女の笑顔を思い出すと、どうして彼女の趣味を受け入れてあげなかったのだろう、ただ少し変わっていただけなのにと、私は暗い部屋で一人肩を震わせて泣きながら自分を強く責めるんです。

今頃、彼女はどうしているんでしょうか。やはりまだあのマネキンと、二人で暮らしているんでしょうか。夜は二人きりで向かい合って食事をして、同じ寝室で寝たりしているんでしょうか。ええ、やっぱり、滑稽ですね。彼女とマネキンがそうしている様子を思い浮かべただけで、またあの日のように大笑いしてしまいます。普通じゃないものは、どうしてもやっぱり普通じゃないんです。

ゾー麻疹伝

  • 2007年6月30日 03:20

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