茨城症候群

寡黙な帰り道

  • 2011年3月27日 01:14

寡黙な山本さんから情報を得るのは困難だった。その中で唯一と言っていいほど得られた情報は、山本さんはラーメンが好きだ、ということだった。どこか不思議な雰囲気を持ち合わせている山本さんを、私は何故か放っておけなかった。そうして学校の帰りに駅前のラーメン屋に寄ることにした。

まずあの”ニラギ”事件の日に起こったことを整理しなければならない。


”ニラギ”と書かれた石が普通科のあるクラスの教室に投げ付けられて、たまたま校内に掲げられていた古典の定期考査の順位リストで一番上だった私が、その意味を解いて欲しい、と昼休みにぼさぼさ頭の男子生徒から頼まれた。そういうことは、訳の解らないものを無理矢理に訳有りげに解釈してしまうようなオカルト同好会の連中にでも頼めばいいのに、よりによってオカルトなことには何の興味もない私にただ古典の成績が良かったというだけで頼むなんて、やっぱり普通科の生徒達はどうかしてる。

ただ、頼まれたことを拒絶するのは私としてはどこか許せなかったから、彼らの頼みを聞くしかなかった。ここが私の馬鹿なところなのかも知れない。こういうところがなければ、この犯人も動機も不明な事件に関わることもなかったのに。

そうして呼ばれた普通科の教室へ出向くと、私は酷い扱いを受けた。まるでものを頼む人間の態度じゃない。私だけじゃ手に負えるはずがないのに、こちらも人手が欲しいと言えば内密にしろとほのめかすし、手助けをして欲しいと言えば自分でやれと言う。ものを頼んでおきながら、本当に何を考えているのか解らない。そんな中で出会ったのが、山本さんだった。

山本さんは左目に眼帯をして、足に包帯を巻いているという、一見しても何見しても変としか表しようのない人だった。実際に普通科の中でも変わり者扱いされているその彼女が、私が普通科の連中と言い合いをしている最中に声を掛けてきたので話を聞くと、ニラギはニラ入りギョーザのことだ、とこれまたふざけたことを言う。

普通科と標榜しておきながらやっぱり普通科の連中には普通な人間はいない。と呆れて帰ろうとすると、つい私が勢いよく振り返ったせいか山本さんを転ばせてしまった。そうして私は山本さんに個人的な”借り”を作ってしまった、という日だった。


あの後、私は”借り”を帳消しにして関係を断ち切りこれ以上関わらないようにしようとし、放課後に山本さんのクラスへ行った。

「また来たのか、特進科

教室に入るなり、あのぼさぼさ頭がニヤニヤしながら嫌味ったらしい口調で嫌味を投げ付けてくる。初めに頼んできたのはあんたでしょうが、と殴り倒したくなる衝動を抑えて、山本さんの席へと向かう。

山本さんの席の周りは、薄暗かった。放課後だというのに帰り支度もせずぼーっと座っている彼女の雰囲気も確かに薄暗さを演出していたのだが、何故か彼女の真上にある蛍光灯が切れていたのだ。いじめでも受けているのだろうか、と思いながら、いつも通りなのか俯いている彼女に話し掛けた。

「山本さん、さっきはごめんね。足、大丈夫?」

そう言うと、山本さんは目も合わせず、何も言わずにこくりと頷くだけだった。この子、やっぱり変だ。いや、変であることは昼休みにとっくに分かっていたけれど、やっぱり変なんだ。

「良かった、大丈夫そうで。ねえ、山本さんはどこに住んでるの? 家、近いの?」

私の問い掛けに、山本さんはゆっくりと腕を上げて、教室の窓の方を指差した。その間も彼女はやはり何も言わなかった。

「そ、そうなんだ。あっちの方に家があるんだね。そっか。そっか……」

私は自分が何だか必死になっているのに気が付いた。ああ、確かに山本さんは変なんだ。けれども、転ばせておきながらそのまま言葉だけの謝罪で済ませるのは私自身が許せなかったから、どうしても何かお返しをしなければならない。だから、必死にならざるを得なかった。たとえ変な子であっても。

「良かったら、今日一緒に帰らない?」

こうなったら、最終手段だ。一緒に下校する。他人と仲良くなるのに、これ以上の手段はない。一緒に帰って、その道中で色々な話をする。好きなことや趣味を訊いて、相手を良く知ることができる。親密になるのには、これが一番だ。

……あれ? 私、何か目的を間違えてる? 仲良く? 相手を知る? 親密? この変な子と? 私が?

そんなことを考えるか考えないかと同時に、山本さんの小さなか細い声が聞こえた。

「……うん」

山本さんの白い顔には、これまでの表情とは違ってどこか嬉しそうな様子が見えた。それを見て、何故か、私はほっとした。……どうしてだろう?


山本さんと一緒の帰り道、私は確かに疲れた。あれこれと彼女に質問をしても、イエスかノーでしか返さない、もっと言えば、首を縦に振るか横に振るかでしかでしか返さない。声だけ聞けば、まるで私が独り言を言っているかのような状態だった。実際に、私一人しか喋っていなかったのだから。

けれども、その中で収穫はあった。山本さんは、ラーメンが好物だということだった。か弱そうに見える彼女が脂っこいラーメンを好むとは、意外だった。

ラーメンが好きだというなら、ラーメン屋に連れて行けば喜んでくれるかも知れない。ただし山本さんのことだから、外食はあまり好きではないかも知れない。いずれにしても、誘わなければ何も始まらないのは確かだ。そうしてラーメン屋に行こうと誘うと、これも彼女は意外にも応じてくれた。

 

聖誕節前夕

  • 2010年12月31日 23:50

二年前、私は曽祖母の日記帳を見付けた。納屋の大掃除をしている時のことだった。ぼろぼろになりかけた黄ばんだ紙切れの束、その表紙には大正何年と墨で書かれていたが、正確な文字は読み取れなかった。しかしその割には、肝心の日記の内容は鮮明に残っていた。文体こそ昔のものだったが、綺麗な字だったこともあって読めるには読めた。

私は大掃除を終えると、部屋にこもってその日記帳を読んだ。



あの晩はとても寒い晩だつたのを憶えてゐます。息を吐けば白くなり、手も凍えるほどの寒さでした。

その寒さの中で、私は一人、町へと出掛けたのです。若い娘が夜に一人で町を歩くことは普通であれば避けるべきことですが、丁度マツチが切れて仕舞つたのでストーブに火が點けられません。寒い日に火がなければそれこそ地獄ですから、何うしても買ひに行かなければなりませんでした。

何よりも、母の體調が氣掛かりだつたのです。父は日露の戰爭で死に、それ以來母は一人で私を育ててくれました。その間に母は肺病を患つたのでせう、寢込む日が年々多くなつてゐました。ですからあのやうに寒い晩は何うしても火がないといけません。マツチを買ひに行くより外になかつたのです。

マツチを買ふことには何の苦勞も要りませんでした。町の商店に行けば幾らでも賣つてゐましたから、ほとんどただ行つて歸るだけです。

歸る際に、何やら人が澤山竝んでゐるのが見えました。雜誌などが賣られてゐる、町で一番の書店の前でした。

その中に、スラリとした長身の男性を見掛けました。それは紛れもなく、私の通つてゐた高等女學校の先生だつたのです。私には、一目で分かりました。

「先生!」と私は思ふよりも先に大聲を出しました。これでは少し離れた場所にゐた先生も氣附かないはずがありません。手を振る私を見附けると、爽やかに笑ひながらこちらへ向かつて來ました。

——實を言へば、私は先生に戀をしてゐたのです。

先生への戀。生徒の分際でこんなことは不可ないことだとは解つてはゐました。しかし、一度火が點いた想ひは何うすることも出來なかつたのです。私は先生に對する自分の氣持ちに氣附いて以降、心の奧底に潛むこの甘く切ない想ひを何うにかして抑へやうと試みました。けれども想ひは膨らむ許りで、一向に萎むことはなかつたのです。

そして秋頃、遂に私は、私自身の氣持ちを傳へる手紙を先生へ渡したのです。便箋に十枚程だつたでせうか、自分勝手な氣持ちを竝べるだけ竝べた酷い手紙でした。しかし、渡したことは後悔はしてゐません。書いた想ひに何一つ噓はありませんでしたし、何より想ひを傳へることと傳へないこと、この兩者は全く違ふものだつたからです。

「やあ、山本君、奇偶だね。しかし危ないよ、夜に出歩いちやあ」

手紙を渡して以來、先生とは直接話をしてはゐませんでした。つまりこれが、私の想ひを知つた先生との初めての會話だつたのです。けれども先生の態度は、そんなことを全く思はせぬやうなものでした。至つて普通の、生徒と先生との間の會話でした。

「御心配は要りません、直ぐ歸りますから。しかし先生もこんな處で何をなさつてゐたんです」

「一寸エゲレス辭書に用があつてね、それで來てみたらこの竝びやうだ。もう歸らうかと思ふ」

「あら勿體ない」

私がさう言ふと、先生の目が一瞬時間の流れを忘れたかのやうにぴたりと止りました。その視線は、私を差してゐました。

「勿體ないのは……」

先生の顔からは、先程まであつたはずの笑顔が全く消えてゐました。

「……君からの手紙を讀んだ。僕は君の願いを叶へられない。でも、君の氣持ちに應へることならできる」

さう言ふと先生は私の手に何かを置いた後、兩手を包み込むやうにそつと握つたのです。温かい手を通して、同じやうに温かい先生の氣持ちが傳つて來るやうな氣がしました。

「先生……私」

と私が言ひ掛けると、それを遮るやうに先生の兩手がぎゆつと力強くなりました。そして靜かに首を振り、私の瞳をじつと見詰めました。これ以上何も言つてはいけない、と云ふことだつたのでせう。

見つめ合つてゐた暫くの間、私と先生は何の一言も交はしませんでした。交はさなかつたと云ふより、言葉は要らなかつたのです。私と先生の手と手、目と目を通じて、お互ひの想ひがそれこそ流れ込むやうに通ひ合つたのですから。

永遠と錯覺するほどの時間でした。しかしその時間もまた、過ぎていきました。やがて先生は握つた時を逆回しにしたやうにそつと私の手を離し、微笑んでかう言ひました。

「さやうなら、山本君。氣を附けて」

「……先生、さやうなら」

さうして先生は暗い闇の中へと消えて行きました。私は先生の後ろ姿が見えなくなるまでずつと立ち盡くしてゐました。

そこで、先生が何かを私の手に包んでくれたことを思ひ出しました。何だらう、と思つて靜かに開いてみると、折り紙で折つたと思はれる小さな白い鶴が手の平で舞つてゐました。

途端に、私は温かい氣持ちになりました。丁度その時ひらひらと雪が降り始めてゐましたが、寒さはもう氣になりませんでした。

——しかし、まさかその晩が先生を見る最後の機會にならうとは思ひもしませんでした。


先生が行方をくらましたのは、その後のことでした。冬休みの明けた學校にも姿を見せず、何處に行つたのかも分らなくなつたのです。職員の間でも先生の行方は分らなかつたさうです。

そのやうに初めこそ大騷ぎになりましたが、時間の流れと云ふものは全てを風化させるのでせう、年老いた髭の人が新しく先生として著任した頃にはもう、先生の行方の話など生徒の間でも職員の間でも擧がらなくなりました。

けれども私は違ひました。普段は級友のみんなの手前、顔で笑つてゐても、心はずつと泣いてゐたのです。先生、嗚呼先生。何處へ行つて仕舞つたのですか。私を置いて、一人で何處へ消えて仕舞つたのですか。先生。



これを読んで、私は確信したのだった。UFO。宇宙人の乗った UFO が、曽祖母の恋していた先生をさらったのだ。でなければ、先生が学校から消える理由が解らない。日記を見る限り、曽祖母と先生は両思いだったのだから。逆に言えば、先生には学校から、そして曽祖母の前から消える必要などなかったのだ。だからこれは UFO の仕業だ。間違いない。

そう思った私は、それ以来 UFO、そして宇宙人を追い求めてきた。いつしか奴らを捕まえて、この事件について白状させてやる。曽祖母が味わった悲恋の惨さを、奴らにも味わわせてやる。しかし奴らは中々姿を現そうとしない。巧妙な奴らだ。

そして私は高校生になっていた。この高校を拠点にして、UFO の尻尾を必ずつかんでやる。心の奥底でそんな強い思いを燃やしながら、私は毎日学校に通っていた。

“力”を持つ左眼を、白い眼帯で隠しながら。

 

眼帯少女山本さん

  • 2010年5月18日 00:13

 

嘘吐きの行く末

  • 2010年4月 5日 21:25

「おい、何か臭くねえ?」

その日の高校の授業の二時間目は、担当教師が腹痛だという理由で自習時間になっていた。もちろん自習時間に真面目に自習をするような奴はこのクラスにはいない。みんなこの時間が何の時間なのかを本心から忘れて勝手に騒いで、携帯電話をいじくって遊んでいるような奴さえいたくらいだった。

その騒がしい空間に何の前触れもなく突然起きた騒動だった。

「マジだ。何か臭えぞ」

俺の前の席の山田が気付いて言ったのを皮切りに、周囲の席の人間からは臭い臭いと言う声が次々と上がった。もちろん、俺もその中の一人だった。

「臭えなあ。あの匂いっぽいな……、ウンコ」

俺が何となく思ったことをそう言うと、周りからは俺の意見に同意する声が上がった。「それだよ、ウンコだな」「間違いない、ウンコだ!」

確かに、間違いなかった。臭さを漂わせているのは、誰もが毎日自分のものを嗅ぐことがあろうウンコの匂いだった。しかし自分のものと他人のものとでは、臭さに対する嫌悪感は違う。自分のウンコの匂いは鼻に入って当然だが、他人のものの匂いが鼻に入る機会は衛生環境が向上した最近では普段はないことだ。誰もが他人の匂いに対して感覚的にも心理的にも敏感になっているのは当然のことだった。

「おいおいおい、まさか誰か漏らしたんじゃねえのお?」「うっそお、信じらんない」「教室で漏らすなんて、最低」

男子からも女子からも関係なく、“犯人”に対しての非難の声が上がった。俺も「最悪」と苦い顔をしてその中に混じっていた。

それから始まったのは、もちろん犯人探しだった。ウンコを漏らした奴は誰だ、探し当てて吊し上げて晒し者にしてやる。辺りにはそんな恐ろしい空気が広まっていた。

俺も周りに混じって犯人を探し出そうとしていた。高校生にもなって学校でウンコを漏らす奴なんて縁が切れても一生馬鹿にしてやる。周りの奴らもそう思っていただろう。同じように、俺もそう思っていた。

そんな中でふと隣の席を見ると、そこには周りの空気とは違う空間があった。普段から物静かで綺麗好きそうな山本さんが、何か必死に耐えているような、あるいは場の雰囲気から逃れようとしているような、そんな態度を取っていることが俺には見て取れた。

まさか、山本さんが……? 俺は思った。いや、まさかだ。普段淑やかそうに振る舞っている人間に限って、こういう行いをしてしまうことがある。それが意図的でないなら、なおさらのことだ。彼女がウンコを漏らしてしまったとしても、不思議ではない。

鼻を利かせて匂いの根源を辿ろうとすると、山本さんの方から漂っているように感じた。さりげなく気付かれないようにして身体を傾けて山本さんの席に近寄ると、非常に臭い匂い、紛れもなくウンコの匂いが鼻を突いた。

俺はここで確信した。確信してしまったのだ。ウンコを漏らしたのは、山本さんだということを。あの山本さんが、ウンコを漏らしていたのだ。

もう一度山本さんを横目で見る。彼女は机の上に教科書を開き、何かに気付かれまいとしているのかうつむいている。周りの騒がしさとは対照的だった。ただ、心なしか動揺しているかのようにまばたきの頻度が多めに見えた。その長く黒い髪の毛が、周りの環境を断ち切って逃れたいとしているかのように白く綺麗な顔を隠していた。

それを目にした俺は何故か耐えられなくなった。こんな不潔とは全く無縁の女子がウンコを漏らしてしまうとは、一体なんという罪だろう! そして彼女は一生それを十字架のように背負い、生き続けなければならないのだ。何年と、何十年と、そして未来永劫その魂が生き続ける限り!

俺は決意した。もう山本さんを見ることはなかった。周りの喧噪に気を合わせることもなくなった。

立ち上がって、俺は言った。

「……みんな、悪い」

誰がウンコを漏らし悪臭をもたらしたかで騒がしかった教室内が、一斉に静かになる。そこで、俺は笑顔を浮かべてぽつりと打ち明けたのだった。

「漏らしたの、俺なんだ」


それからは俺は“ウンコ”と呼ばれるようになった。学校中で、ウンコウンコと陰口を囁かれ後ろ指を指されるようになった。朝登校すると、机の上にウンコと書かれていたこともあった。時には誰かが懸命に運んできたのか、実際の犬のウンコが置かれていたこともあった。誰かに話し掛けると「ウンコ臭え」と言われるだけで、全く相手にもされないこともしばしばだった。

確かに俺は自分で冤罪を進んで被り受けた。だからこうしてウンコと呼ばれたり蔑まれるようになったのだろう。

しかしそれでも構わなかった。何しろ俺は一人の女子の運命を守ったのだから。そのお陰で彼女はウンコと呼ばれる代わりに、輝かしい未来を失わずに済んだのだ。山本さんが隣の席で一生懸命に板書をノートに写している姿を見ると、俺は嬉しさを感じられずにはいられなかった。同時に、彼女に対してある種の愛おしささえ感じていた。

ある日の放課後、俺は一人で教室の掃除当番をしていた。本当は班の奴らと全員で教室の掃除をするはずだったが、「ウンコと一緒に掃除当番をしたくない」というふざけた理由で奴らは先に帰っていった。

夕日の差し込む教室で、俺は一人で黙々と掃除を行っていた。ウンコと掃除をするのが嫌なのに、ウンコに掃除されるのはいいのか。誰もいない教室で、俺はどうにも矛盾した言い訳を鼻で笑っていた。

そこに、誰かが教室へ入ってきた。山本さんだった。何か忘れ物をしたのだろうか、教室に入るなり自分の席に歩み寄って机を何やらごそごそと探っていた。

山本さんも俺がいることに気が付いているようだったが、特に挨拶をするなどの反応はなかった。山本さんと二人きりの教室。俺は今しかないと思った。

「……山本さん」

声を掛けると、山本さんはびっくりしたかのように動きを止め、こちらを見た。

「今度さ、一緒に映画観に行かない? 俺、映画好きなんだ。面白い映画なら自信あるからさ」

しかし山本さんの応えはそっけないものだった。彼女は顔を背け、何事もなかったかのように探し物の続きをしながら、ほとんど感情をこもらせずにこう言った。

「……悪いけど、私、嘘をつく人は嫌いなの。それに、“ウンコの彼女”なんて呼ばれたくないから……」

彼女は走って教室を出て行った。俺はこの時の彼女の走り去る後ろ姿をただ見ていることしかできなかった。彼女の姿が見えなくなってからも、俺はしばらく立ち尽くしたままだった。立ち尽くす俺の頭には、彼女の言葉が反響し続けていた。

嘘をつく人は嫌いなの。

嘘をつく人は嫌いなの。

嘘をつく人は嫌いなの。


それ以来、俺は不登校になった。みんなにウンコと蔑まれ、俺が自分で勝手に恩を売り勝手に好意を抱いた山本さんには振られ、もう学校に俺の居場所はなくなっていたのだ。

結局俺のしたことは、俺の自己満足に過ぎなかったのだ。俺は何をしたのだろう。俺は彼女を、山本さんを守ったのではなかったのか? しかし山本さんはそれは違うと言った。俺は何という馬鹿なことをしたのだろう。あの時、何もしなければ良かったというのだろうか。しかし何を思っても、もう取り返しは付かなかった。俺は正真正銘のウンコになってしまった。

 

エイプリルフール

  • 2010年4月 4日 12:24

小学二年生の春休み、幼なじみのかな子ちゃんと二人で近所の公園で遊んでいる時のことでした。

「ねえタケシくん、今日何の日か知ってる?」

「えっ、今日?」

ブランコを大きく前後に揺らしながら、かな子ちゃんは意地の悪そうな笑いを浮かべて僕に問い掛けました。

その朝は、ニュースで桜の満開が近付いていると聞いたくらいで、日付までは覚えていませんでした。強いて言えば、春休みがあと何日残っているか、始業式までまだ何日遊んでいられるか、それくらいしか考えていなかったのです。

しばらく答えられずに宙を眺めている僕を、かな子ちゃんは鼻で笑ってから、得意げな表情で言いました。

「エイプリルフールだよ。嘘をついてもいい日」

エイプリルフール。その名前は確かに聞いたことはありました。しかしかな子ちゃんに言われるまで今日がその日であることに気付かなかったくらいですから、僕は特に意識したことはなかったのです。

「それでさ、あたしたちで大人に嘘をついてみない? すごい嘘をさ」

「でも、嘘をついたらいけないってお父さんが言ってたよ。ドロボウの始まりだって」

「エイプリルフールだからいいんだよ。嘘をついても許してくれるよ」

僕の家庭は厳格な方で、両親はいつものように「嘘をついてはいけない」と幼い僕に言っていました。その他にも悪いことをしてはいけない、嫌がることをしてはいけない、人をいじめてはいけないなど、四六時中「いけない」尽くしでした。きっと僕が一人っ子だったことも影響していたのでしょう。

しかし、いや、だからこそ、かな子ちゃんの提案は新鮮に思えました。エイプリルフールだから嘘をついてもいい。どんな時でも嘘をついてはいけないと教えられていた僕にとって、嘘をついてもいい理由をこれほど簡単に見出せ、それを利用しようというかな子ちゃんをとても賢く感じたのです。同時に、かっこいい、とも感じました。

常に教えられている規則に背くという背徳感を、今日だけは感じなくても済む。そう考えるに至って、僕は迷わずかな子ちゃんに答えました。

「なんか楽しそう。その嘘、ついてみようよ。それで、どんな嘘をつくの?」

僕が問い掛けると、かな子ちゃんはブランコを漕ぐのを止め、にこりと笑って言いました。

「あたしが悪いおじさんに誘拐された、って嘘」

「なんか本当にありそうな嘘だね」

「本当にありそうな嘘の方が面白いでしょ? どうせ嘘なんだし」

僕はかな子ちゃんが悪いおじさんに誘拐されたという嘘をついた場合に起こり得る光景を想像しました。かな子ちゃんの両親はとても心配するでしょう。警察に通報して、かな子ちゃんの家の前にはパトカーが駐まり、赤い光でうるさくなるかも知れません。テレビや新聞社の記者も来て、人だらけになるかも知れません。

そして僕は少しだけ怖くなりました。もしかすると一緒にいた僕も警察に連れて行かれて何か訊かれるかも知れません。実は全部嘘だった、と言ったら親だけからではなく警察の人からもこっぴどく怒られるかも知れないのです。

「やっぱり止めようよ……。もっといい嘘にしようよ」

「何? 怖がってるわけ? タケシくん男でしょ? そんな弱虫じゃいい男になれないよ!」

かな子ちゃんはイライラした様子で言いました。罵倒に近いものだったかも知れません。そして弱虫とまで言われたのです。こう言われてしまうと僕も怖がるわけにはいきません。何しろ僕は当時テレビで観ていた戦隊ものの番組で登場する部隊のリーダーに憧れていましたから、弱虫と決め付けられるのは腹の立つことでさえあったのです。

「怖がってなんかないよ! いいよ、じゃあその嘘やろう、やろうよ」

「なあんだ、弱虫じゃないじゃん。じゃ、けってーい」


僕は急いで家に帰ると、靴も脱がずに玄関先で母を呼びました。「お母さん! お母さあん!」

普段あまり感情を見せない僕が肩で息をしながら半泣きをしているという普通ではない様子にただならぬ気配を感じたのか、母が飛び出してきました。

「タケシ、どうしたの? 何で泣いているの? 何かあったの?」

「かな子ちゃんが、うっ、うっ、変なおじさんに連れて行かれちゃった……! どうしよう、どうしよう!」

母はほんの一瞬だけ身を固まらせたように見えました。その間に事態を飲み込んだのか、次の瞬間からは表情を普段見せないものへと変えた上に怒濤の質問攻めを僕に浴びせました。

「かな子ちゃんが!? どこで? 何をしている時? いつ? どんなおじさんに!?」

「公園で……、うっ、うっ、さっき、遊んでいる時、おじさんが……、灰色の、うっ、うっ、服を着たおじさんが……。うっ、うっ」

僕の声はもう答えにもならないほどでした。それでも概要を把握したのか、母は家の奥に入っていきどこかへと電話を掛け始めました。おそらくかな子ちゃんの家へだったのでしょう。冷静に思えるほどの受け答えがかえって事態の深刻さを浮き上がらせていました。

その後は僕の想像していた通り、かな子ちゃんの家の周りにはパトカーが何台も駐まり、マスコミも大勢集まりました。そして僕はかな子ちゃんと一緒にいた最後の人間として、警察へ連れて行かれて母親と一緒に仔細に渡る質問を受けたのです。今日がエイプリルフールなどということはもうとっくのとうに忘れていました。もちろん、警察での質問ではいつもの僕のように嘘はつきませんでした。

警察署で質問を受けた帰り、かな子ちゃんの両親と廊下で会いました。二人とも、本当に深刻な表情をしていました。かな子ちゃんのお母さんは、嘘だったらいいのに、嘘だったらいいのに、と泣きそうな声で呟いていました。


それから十二年間、かな子ちゃんは今も帰ってきていません。あのエイプリルフールの日につこうとした嘘は、現実となってしまったのです。僕の中で、十二年前のエイプリルフールは過去のものではありません。現在もまだ、続いているのです。

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